6話 自由への重荷
ヴァルガスという核を失っても、彼が固定していた理圧は惰性のように海溝に残り続けていた。
「レオン! ぼさっとしてる暇はないよッ!」
リナの叫びが、澱んだ水圧を切り裂いた。
彼女は法衣の袖を翻し、全身から黒い影を噴出させている。
影は網目状に広がり、海溝の集落全体を包み込む急場しのぎの魔法障壁へと変貌した。
ヴァルガスの重圧を繋ぎ止め、戻り始めた海流の圧力を中和する。
彼女の髪は逆立ち、鼻からは細い血が流れていた。
――その血は、影が彼女の命そのものを代価にしている証だった。
リナの死に物狂いの制御により、街の魚人たちが内圧で破裂死するという最悪の事態は、辛うじて免れた。
「……はぁ、……はぁ……」
レオンは剣を杖に、荒い吐息を漏らしながら街の様子を見つめた。
身体の痛みは既に感覚を失い、ただ冷たい海水が傷口を洗う感触だけがある。
彼は、おぼつかない足取りで集落の入り口へと歩み寄った。
「……来るな」
鋭い拒絶の声が、集落の男から漏れた。
先ほどレオンが目を向けた、子供を抱く母親の夫だろう。
男は膨張しきった身体を震わせ、憎しみの入り混じった目でレオンを射貫いた。
「お前が来てから、俺の妻はずっと泣いている」
罵倒ではない。正論でもない。
ただの、事実。
それが、何よりも重くレオンの胸に突き刺さった。
人々は、感謝の言葉など、一言も口にしなかった。
そこにいたのは、自分たちを数百年の間「守り固めて」いた絶対的な秩序を殺し、望まぬ激痛と死の恐怖をもたらした侵入者を、怯えと憎しみで見つめる群衆だった。
(……これが、自由への重荷というやつなのか)
誰も望まなかった結果だけを、ただ一人で背負わされる重さ。
大剣を握る右手が、惨めに震える。
彼らにとって、ヴァルガスの重圧は確かに檻だった。
だが、その檻の中であれば、少なくとも「明日」は保証されていたのだ。
正義を斬れば、別の悪が生まれる。
自由を解き放てば、そこには必ず、誰かの犠牲が伴う。
ヴァルガスの呪詛が、潮流に混じって何度も反響した。
(お前は、救えなかった数を、数え続けることになる……)
「……レオン」
障壁の維持を終え、肩で息をするリナがそっと隣に立った。
彼女の瞳には、レオンと同じ悲しみが宿っていた。
「行きましょう。ここはもう、私たちが居ていい場所じゃない」
「……ああ」
レオンは、向けられる憎しみの視線から逃げるように、再び澱んだ海へと泳ぎだした。
四天王の一人を討ったという勝利感など、どこにもない。
あるのは、進めば進むほど重くなっていく「自由」という名の十字架だけだった。
それでも、彼は止まらない。
ここで止まってしまえば、これまで斬り捨ててきたもの、そして今、背後に残してきた人々の痛みは、ただの無駄死にへと堕ちてしまう。
「……行こう、リナ。止まったら……本当に、アイツの言う通りになっちまう」
レオンは、血に汚れた錆びた大剣を背負い直した。
一掻きごとに、身体を蝕む痛みと、心を蝕む罪悪感が押し寄せる。
だがその重みこそが、今のレオンがこの世界で「生きている」という、唯一の証。
その先に待つのが、真の解放か、さらなる地獄か。
まだ、誰も知らなかった。




