5話 選択の傷跡
ヴァルガスの巨躯が、海底の岩盤を鳴らしてゆっくりと膝を突く。
胸甲を断たれ、魔力の霧が噴き出す中、彼は憤怒でも憎悪でもなく、どこか遠い海面を見上げるような――慈愛に満ちた絶望の目で微笑んだ。
「……カハッ……。見事だ、バグの少年……。我が質量を凌駕する、魂の重み。しかと見せてもらった……」
ヴァルガスの声は、もはや地鳴りではなく、ひび割れた鐘のように虚ろだった。
「だが、覚えておけ。お前が打ち砕いたのは、ただの盾ではない。この海溝を、この人々を生かしていた『世界の形』そのものなのだ」
「……何を、言って……」
レオンは剣を杖に、荒い呼吸を繰り返しながら問い返す。
レオンの耳の奥では、低い破裂音が断続的に鳴り始めていた。
それが、急激な減圧によって自分自身の体内で起きている「異変」の音だと気づくのに、数秒を要した。
「俺を倒し、俺の重圧が消えれば……海流を失い、虚弱に成り果てたここの民は、内側から弾けて死ぬ。俺がこの盾で、歪んだ理圧を固定し、彼らを『守り固めて』いたからだ」
ヴァルガスは満足げに、血を吐きながら言葉を続けた。
「……覚えておけ。救えなかった数を……お前は、きっとこの先も、数え続けることになる。それがお前の望んだ、自由という名の地獄だ」
「……っ!? 嘘だ……!」
レオンが弾かれたように振り返る。
海溝の断崖にへばりつくように形成された「澱みの街」。
そこでは今、ヴァルガスという「重石」を失ったことで、残酷な物理の反動が民を襲っていた。
崖の縁で、一人の幼い魚人が母の鱗にしがみつきながら、声にならない悲鳴を上げている。
母親の身体は不自然に膨張し、子を抱く腕だけが、必死にその形を保とうと青白く震えていた。
彼らにとって、ヴァルガスの重圧は自由を奪う檻であると同時に、海流を失った細胞を無理やり維持するための、人工的な「外圧装置」でもあったのだ。
「救おうとするほどに、お前の手で世界は壊れていく。……せいぜい、足掻くがいい……」
ヴァルガスは最後にそう遺すと、その身体を細かな光の泡へと変え、暗い潮流の中へと溶けて消滅した。
後に残されたのは、静まり返った海底と、死の減圧に喘ぐ民たちの苦悶。
「……あ、あぁ……」
レオンの手から力が抜け、錆びた剣が海底に滑り落ちそうになる。
逃げることもできた。ヴァルガスの呪いから目を逸らし、この場を去ることもできたはずだ。
だが――レオンは、剣を手放さなかった。
折れそうな指で、血に濡れた柄をより深く、強く握り直した。
「レオン、止まってる暇はないよッ!!」
リナの鋭い声が響く。
彼女は既に術式を編み直し、広がり続ける「減圧の歪み」を影の膜で食い止めようとしていた。
「ヴァルガスの言葉は半分は正解で、半分はただの呪いだ! あいつが死んだことで、海流の循環が戻り始めた。
でも、それが民の体に馴染むまで、あと数分……! 数分、保たせれば助かるッ!」
「数分……。ああ、わかった……!」
レオンは、震える身体を無理やり引き絞るようにして立ち上がった。
切り裂くための刃。
破壊するための力。
それを今度は、誰かを「繋ぎ止める」ために、世界の崩壊を「押し戻す」ために使わなければならない。
自由とは、ただ鎖を断ち切ることではない。
その鎖が繋いでいたすべての責任を、自らの背中で引き受けることなのだ。
救えなかった数を数えるんじゃない。
目の前の、あの子の母親を死なせない。
レオンは、かつてないほど深く、瑠璃色の魔力を練り始めた。




