4話 砕ける理
「……ぐ、お、あぁぁぁぁぁぁッ!!」
ヴァルガスの絶叫が、濁った水中に木霊した。
盾の「縁」を支点にして、その裏側の腕――「物理の法」が及ばない肉体の継ぎ目へと、レオンの拳は全ての衝撃を叩き込んでいた。
いかに大陸の重みさえ支える絶対の盾であっても、それを保持する「魚人としての腕」までは、不変の質量には変えられなかった。
盾を支えていたヴァルガスの右腕は、内側から爆発したように歪み、鈍色の装甲を食い破って白濁した骨が突き出す。
重厚な盾が、力なく主の腕から離れ、暗黒の深海へと沈んでいく。
それは、アストレアが敷いた「動かぬ秩序」の一部が、物理的に欠落した瞬間だった。
「馬鹿な……! ありえん、こんなことは……!」
ヴァルガスは、折れた腕を抱えながら、血走った眼で目の前の青年を睨みつけた。
「俺の重圧の中……自ら内圧でエラを破裂させ、血管を焼き切る覚悟で加速したというのか!? たかだか一握りの『自由』という妄執のために、自らの命を秤に乗せたというのかッ!」
「……はぁ、……はぁ、……言った、だろ。……足りねえなら、……自分で、踏ん張るってな……!」
レオンの鼻や目、そして全身の鱗の隙間からは、急激な減圧に耐えた代償としてドロリとした鮮血が滲んでいる。
瑠璃色の光に照らされたその血は、漆黒の海溝で不気味な航跡を描いていた。
盾という絶対的な支点を失ったヴァルガスは、皮肉にも己が撒き散らした重圧の残滓に、自身の肉体が呑み込まれるように動きを鈍らせた。
「ヴァルガス! お前の重圧は、誰も動かさないための……死人のためのものだ!」
レオンが、海底に突き立てていた錆びた大剣を抜き放つ。
その瞬間、周囲の硬質化した海水が、レオンの放つ《逆流》のプレッシャーに耐えかねて、情報のゴミとして還元され、ひび割れていく。
「――『逆流・一閃』!!」
横一文字。
刃を振り抜いた瞬間、レオンの視界が一度、完全に暗転した。
膝の感覚が消失し、魂を削り出すような痛みが全身を駆け抜ける。
それでも、青白い閃光はヴァルガスが最期に放った「質量の壁」を無慈悲に切り捨て、その分厚い胸甲を両断した。
ガギィィィィィィンッ!!
激しい火花と共に、ヴァルガスの重装甲が紙細工のように裂ける。
「……アストレア様……私は……ただ……壊れるのが、怖かっただけなのか……」
ヴァルガスの呟きは、断裂した胸甲から溢れ出した気泡と共に、暗い潮流の中へ消えていった。
巨大な岩塊が崩落するように、ヴァルガスの巨体が海底へと沈んでいく。
それと同時に、海溝を支配していた息の詰まるような重圧が、霧散した。
水は再び自由な流体へと戻り、レオンの頬を冷たく、優しく撫でる。
遠くで、止まっていたはずの微細な海流が、軋むような音を立てて再び動き出した。世界に「変化」が戻ったのだ。
名もなきバグ――管理者が最も恐れ、記録から抹消し続けてきた「抵抗の意思」が、アストレアの四天王を正面から打ち破った。
「……勝った、のか……」
レオンは剣を鞘に収める力も残っておらず、その場に膝から崩れ落ちた。
全身を襲う激痛と、命を削った代償としての虚脱感。
意識が遠のき、暗闇に沈みそうになったその時。
「……バカ……。あんた、ほんとに……生きてて、よかった……」
リナの、震える声が聞こえた。
駆け寄ってきた彼女の温かな手がレオンの肩に触れる。
その瞬間、レオンは自分がまだ生きていることを、そしてこの「自由」が、痛みと共に勝ち取った本物であることを確信した。




