1話 停止する世界
※本作は、爽快な無双や成り上がりを主軸とした物語ではありません。
管理された秩序と、そこから零れ落ちる命を描く、やや重めのファンタジーです。
主人公は多くを失い、迷い、時に誤った選択もします。
合わないと感じられた場合は、そっとブラウザバックしていただければ幸いです。
その死は、驚くほど静かに、そして美しく訪れた。
黄金海流が止まった。
悲鳴も、爆発もない。
血の匂いすら漂わない。
ただ――世界が、息をするのをやめただけだった。
ロータス海域の最果て。光の届く限界点に近い、魚人たちの小さな集落、リセ村。
この村には、太古より「飢え」という概念が存在しなかった。
頭上遥か、水面に近い層を流れる本流から枝分かれした「黄金海流」の支流。
それが定刻通りに、新鮮な酸素と、微細なプランクトンを含む栄養を運んでくる。
それは水中に降り注ぐ黄金の粉雪のようであり、あるいは寄せては返す祝福の潮のようでもあった。
リセ村の魚人たちは、その恵みを疑わなかった。
疑う理由がどこにもなかった。
海流は常に正しく、管理者アストレアの計算は絶対である。
定刻になれば水が入れ替わり、定刻になれば腹が満ちる。
「生きられる場所に、ただ生きる」こと。
それこそが、この海における唯一にして絶対の幸福の形だった。
村の子供たちは、黄金の粒子が舞う水中で互いのヒレを競い合って泳ぎ、大人たちは滋養を吸って丸々と太ったサンゴ畑の手入れに精を出す。
老いた者たちは、ゆりかごのような海流の微かな唸りに耳を澄ませ、心地よい眠りにつく。
誰もが、自分たちが選ばれた側だと信じていた。
管理者という名の神に慈しまれ、最適化された完璧な円環の中にいるのだと。
――昨日までは。
「ねえ、お兄ちゃん。見て、これ」
穏やかな潮騒のような日常を切り裂いたのは、鋭い警告音ではなく、妹のルナの小さな声だった。
村の広場。そこは栄養を含んだ水が最もよく溜まる場所で、色とりどりの貝殻が砂地に宝石のように転がっている。
「……綺麗な色だな」
若き剣士レオンは、腰に履いた古びた守り刀の感触を確かめながら、妹が差し出した真珠貝を覗き込んだ。
ルナの白銀に近い鱗が、頭上から差し込む淡い光を反射して輝いている。
レオンにとって、この平穏こそが守るべき全てだった。
だが、ルナの小さな手が貝殻を砂地に置いたとき、彼女は不思議そうに自分の指先を見つめた。
「……なんだか、お水が重いよ……?」
「重い?」
レオンは聞き返した。剣士として幼い頃から海流の「澱み」には敏感だった。
わずかな水圧の変化、潮流の向き、酸素の濃淡。
それらは戦いにおいて生死を分ける情報だ。
妹の言葉に促されるように、レオンは自らの手を左右に振った。
――っ!?
息が止まった。
肌を撫でるはずの水が、まるで見えない泥に変わったかのように、重く、粘りついている。
普段なら意識せずとも肺を通り抜けていくはずの「流れ」が、そこにはなかった。
「海流が……止まって……?」
レオンが空を仰いだ瞬間、異変は加速した。
先ほどまで、あんなに鮮やかだったサンゴ礁の森が、まるで命の火が消えるように急速にその色を失い始めていたのだ。
燃えるような赤は、死を予感させる灰色へ。
透き通るような青は、濁った沈殿物の色へ。
そして、世界を祝福していた黄金の輝きは、深い闇へと溶け落ちていく。
「……嘘だろ」
誰かの掠れた呟きが、静止した空間に響いた。
広場に集まっていた村人たちが、一人、また一人と、動きを止める。
漁をしていた若者が、手にした網を落とした。
立ち話をしていた女たちが、胸を押さえて膝をついた。
「息が……できない……」
「酸素が……酸素が来ないぞ!」
ざわめきは瞬く間に、生命の根源的な恐怖へと変わった。
魚人にとって、海流の停止は、地上における空気が消失することに等しい。
新鮮な水がエラを通り抜けなければ、血は汚れ、意識は混濁し、肉体は内側から腐り始める。
「お兄ちゃん……苦しい、よ……」
ルナが胸元をかきむしり、喘ぐようにエラを動かした。
彼女の顔色が、みるみるうちに蒼白に染まっていく。
「ルナ! しっかりしろ、深く吸うんだ!」
レオンは妹の肩を抱き寄せ、必死に腕を回して彼女の周囲に人工的な水流を作ろうとした。
だが、その足掻きさえも、海全体を覆い始めた圧倒的な「静寂」の前では無力だった。
いつも耳の奥で、優しく、時には力強く鳴っていた海流の拍動。
それが完全に消えてしまった。
村の中央に建つ祠の前から、村の長老が崩れるように歩み出た。
かつては海域の勇士として名を馳せた老魚人の瞳には、絶望だけが張り付いている。
長老は、震える手で遥か彼方――世界の支配者が座す《静謐の宮》の方角を指差した。
「調整だ……。アストレア様による、海流調整が始まったのだ……」
その言葉が、村人たちの心に死を宣告した。
海域全体の生存率を維持するため、腐敗し始めた末端を切り捨て、中心部への供給を優先する「正義の裁定」。
リセ村は選ばれなかったのだ。
これまでの信仰も、昨日の笑顔も、アストレアの計算機の上では「誤差」として処理されたに過ぎない。
「なぜだ……! 俺たちが何をしたって言うんだ!」
誰かの叫びが上がったが、それは泡となって虚しく消えた。
管理者の指先一つで、彼らの未来はゴミ箱へと捨てられた
。
レオンは、腕の中で震えるルナの体温を感じながら、奥歯を噛み締めた。
自分の剣は何のためにある?
魔獣を斬るためか?
名誉を得るためか?
目の前で、理不尽に命を吸い取られていく妹一人さえ救えないこの鉄の塊が、憎くて仕方がなかった。
(……ふざけるな)
レオンの肺が、酸素を求めて悲鳴を上げる。
思考が白濁していく中で、どす黒い感情だけが心臓の奥で脈動した。
(俺たちの命を……勝手な数字で、量るな……!)
その瞬間だった。
止まっていたはずの周囲の海水が、レオンの「拒絶」に呼応するように、微かに、だが確かに逆巻き始めた。




