04-ビルー演説ー
体が恐怖に固まった。
理由はわからない。ただ、確信だけがあった。
あいつは、他の階など見向きもせず、まっすぐ――“ここ”に向かってきている。
いや、違う。確実に、**俺に**向かってきている。
「おい、何してんだ佐藤! 早く逃げるぞ!」
三浦が怒鳴った。声は震えていた。
「……ダメだ。屋上に行くだけじゃ、逃げ場がなくなる。かといって、階段もエレベーターも……」
「はぁ!? 何言ってんだよ!? 屋上はともかく、一階まで下りりゃ――」
「無理だ。下、見てみろ」
促すと、三浦は窓の外を覗き――絶句した。
「……嘘だろ……」
ビルの一階、正面入口の周辺は、粘り気を帯びた不気味な液体で満たされていた。
その中で、なにかが蠢いている。
「終わった……人生終わった……」
三浦は肩を落とし、その場に膝をついた。
「三浦、人を集めてくれ」
「はぁ!? 何言ってんだよ!? この状況で人を集めて、何になるってんだよ!?」
三浦の叫びを無視し、俺は掃除用具入れへ駆け込む。ホウキを引き抜き、振りかぶった。
「まさか……戦う気か!?」
「違う。こうする」
思いきりホウキを振り抜いた。
――ガシャアアアアン!!
鈍い破裂音とともに、窓ガラスが砕け散る。
「はぁ!? 何してんだよ!?!」
「三浦! 机を運ぶのを手伝え! 落として、やつが上がってくるのを遅らせる!」
「……ああ、もう! 分かったよ! おい、お前らも手伝え!」
三浦が階段付近で立ち尽くしていた人々に怒鳴る。
「だけど、そんなことしても意味ないだろ!?」
誰かが叫んだ。
「下には逃げられない! 全員で屋上に上がれ! 確か、屋上には非常用のスライダーがあるはずだ!
正面がダメでも、裏口側はまだ無事かもしれない! スライダーで裏へ逃げるんだ!」
必死に記憶を掘り返しながら、声を張り上げる。
「確かに! 裏側なら、まだいける! さっき反対側を見たが、無事だったはずだ!」
そのときだった。
「よし、力のあるやつは佐藤を手伝え! 女性陣は先に屋上へ! 急げ!」
普段は真っ先に逃げ腰の中田課長が、突如として上から目線で怒鳴り始めた。
――あんたも手伝えよ。
「課長命令だ! 今は俺の指示に従え!」
「クッソ、死んだら恨むからな……!」
「ふざけんな、課長も手伝えよ!」
「私は管理職だぞ!? 現場のことはお前らがやれ! 責任は私が取るから、黙って動け!」
「こんな状況で威張ってんじゃねぇよ!」
「うるさい! こっちは指揮を執ってるんだ!」
怒号が飛び交い、課長の金切り声が混乱に拍車をかける。
――くそっ、こんなヤツのせいで、無駄な時間が……
「課長の命令だ! 早くしろ!」
ますます錯綜する声。
――こんなことで時間を浪費してる場合じゃねぇ。
「お前らぁ! 早くしろ!! こんなとこで悩んでる暇なんかねぇぞ!」
「無駄なこと考えるくらいなら、動けぇ!!」
怒鳴った。叫んだ。
中田課長の声すらかき消す勢いで。
恐怖と怒り、焦燥を――すべて言葉に変えて、ぶつけた。
だがそれでも、ざわめきは収まらない。
誰もが怒鳴り、混乱し、足を止めている。
泣き出しそうな顔。茫然自失の顔。現実を拒絶する顔。
そのとき俺は、一歩前に出て、腹の底から叫んだ。
「――黙れ!!」
フロアが、一瞬静まる。
「いいか、聞け! あれは、もうすぐここに来る!
俺たちが何もしなければ、全員“溶かされて”終わりだ!!」
声は震えていた。だが、それでいい。
今、言葉こそが唯一の武器だ。
「考えてる時間なんかねぇ! 命が惜しいなら動け! お前らの手と足は、まだ動くだろ!?」
裏口の方を指差す。
「まだ裏のスライダーが残ってる! それが、俺たちの唯一の“道”だ!
迷ってる暇があるなら、誰か一人でも多く逃がせ!!」
誰かが、小さくうなずいた。
「俺たちはヒーローでも軍人でもねぇ。だけど、“誰かのせいで逃げ遅れた”って――
そんな死に方してぇか!?
怒鳴るのはいい。文句言うのもいい。でもその前に――一歩、動け!!」
その瞬間、誰かが机を抱え、窓際へ駆け出した。
別の誰かが、三浦に指示を仰ぎながら椅子を引きずってくる。
「佐藤、俺もやる……!」
「よし! 女性はすぐに屋上へ! スライダーを広げろ!
男性は二手に分かれろ! 一組は机や何でもいい、窓から落とせ! もう一組は逃げ道の確保だ!」
「了解っ!」
ついに、皆が“動いた”。
恐怖に足を奪われていた人々が、一人、また一人と。
誰かに言われたからじゃない――自分の意志で、生き延びるために。