9 夢……?
温かく優しいものに頭を撫でられる感覚に、リゼットの意識はゆるゆると浮上した。
「ん……」
夢うつつで薄目を開けると、早朝の薄闇の中、至近距離に美しい顔があった。
さらりとした黒髪が流れ、金色の瞳がじっとリゼットを見つめている。
「だんなさま……?」
掠れた声で呼びかけると、金色の瞳が揺れた。
(……そんなはずない……旦那様が一緒のベッドで寝ているなんて……昨日はアルを抱っこして……)
「……もしかして、アル、なの……?」
内緒話をするように問うと、男は一瞬目を瞠り、それからやわらかく微笑んで「そうだよ」とうなずいた。
「すごいわ、アル。人の姿になれるなんて……」
呟きながら、ああ夢を見ているのだ、とリゼットは思う。
「ふふ、素敵な夢ね。アルとお話できるなんて……」
「俺も、こうしてリゼットと話ができて嬉しい」
アルベールと同じ顔、同じ声でそう言って、男はリゼットに添い寝したまま頭を撫でる。
「いつも優しく撫でてくれてありがとう。今日はお返しをさせてほしい」
優しい感触に、リゼットはうっとりと目を閉じた。
「……リゼット、君は本当に優しい人だ。……いや、言葉を変えよう。君は思慮深くて思いやりのある、素敵な人だ」
(ああ、アルは分かってくれているのね……)
リゼットがこれまで家族から『優しい』という言葉を押し付けられ、傷ついてきたことを。
以前アルベールから「優しいのは君の方だと思う」と言われたときも、一瞬、身構えてしまった。
(でもね、不思議と嫌ではなかったの。旦那様の言葉には、私に優しさを押し付けるような響きはなかったから……)
アルベールはリゼットに何も押し付けないし、期待もしない。
それを気楽に感じていたはずなのに、ほんの少し寂しく感じるようになったのはいつ頃からだろう。
「そんな君に、あんな酷い言葉を投げつけておきながら、俺は君を愛してしまった……」
再び眠りの淵に沈もうとするリゼットの耳に、男の声が静かに染み込んでいく。
「そして身勝手にも、君に愛されたいと願ってしまった。俺には人を愛する資格も、愛される資格もないというのに……」
頭を撫でる手は、どこまでも優しい。
「すまない、リゼット。君の夫は腰抜けだ。ちゃんと君に向き合うべきなのに、君に拒絶されるのを恐れて逃げ続けている臆病者だ……」
(拒絶なんて……あなたが何者だって、私は……)
言葉にはならないまま、リゼットの意識は溶けていく。
「愛している、リゼット。どうかもう少しだけ待っていてほしい……」
切ない声を聞きながら、リゼットは眠りに落ちていった。
*
翌朝、目覚めたリゼットは跳ね起きて隣を見た。
広いベッドの上には誰もおらず、抱いて寝たはずの黒猫の姿もない。どうやらリゼットが寝ている間に出て行ったらしい。
「はぁ……」
リゼットは深く安堵の息を吐く。
(夢……それはそうよね、あんなこと……)
その内容を思い出し、リゼットの顔がじわじわと赤く染まる。
黒猫のアルが夫のアルベールそっくりの姿でリゼットに添い寝し、頭を撫でたり「愛している」と囁く夢。
しかも勘違いでなければ、その上半身には何も身につけていなかったような気がする。
(わ、わ、わ、私ったらなんて夢を……!)
夢には潜在的な願望が現れるとも聞く。
熱い頬を両手で挟み、リゼットは一人でジタバタと身悶えた。
十分に気持ちを落ち着かせたはずだったのに、食堂でアルベールの姿を見た途端、またもやリゼットの顔は真っ赤に染まってしまった。
「……顔が赤いようだが、大丈夫か」
「だ、大丈夫です。ちょっと、その、おかしな夢を見てしまって……」
もごもごと答えると、なぜかアルベールが視線を逸らした。
「そ、そうか」
「旦那様こそ、目の下に隈が……。寝不足ですか?」
「いや、その、夜明け頃まで寝付けなくて……」
ぼそぼそと答えるアルベールの顔が、リゼットにつられたように赤く染まった。
アルベールの顔を直視するのも気恥ずかしくて、その日の朝食はうつむきがちに進んだ。
いつも以上に会話も少ないまま、食後のお茶も終わろうとする頃、アルベールが口を開いた。
「そういえば、妹殿から手紙が届いていたようだが」
リゼットはそろそろと顔を上げる。こちらを見つめる金色の瞳にどきりと心臓が跳ねた。
「はい。久しぶりに会いたいと。近いうちに実家に行ってこようと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「それは構わないが……その、俺との結婚前にいろいろあったことは聞いている。もし気が進まなければ俺から断りを入れるが」
アルベールが小さく眉を寄せる。心配してくれたことに、リゼットの胸は温かくなる。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。妹と少しお茶をするだけですから」
正直に言えば、気は進まない。
けれど、ミシェルは自分の要望が通らないのは我慢がならない性格だ。断っても何度でも誘ってくるだろうし、最悪の場合、いきなり公爵邸に押しかけてくることもありうる。
それに、昨夜アルに慰めてもらったおかげで、リゼットは過去のことに気持ちの整理をつけることができた。
今ならミシェルにも平常心で向き合えるような気がしていた。