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8 妹からの手紙

「はぁ……」


 つい漏れてしまった憂鬱な溜息に、黒猫がピクリと耳を動かした。

 すっかり定位置となったリゼットの膝の上で、真ん丸の目でリゼットの顔を見上げてくる。


「あ、たいしたことではないのよ。ちょっと、実家の妹から手紙がね……」


 安心させるように黒猫の背を撫でながら、リゼットはもう一度密かに溜息をついた。


 妹のミシェルから手紙が届いたのは、その日の昼食後のことだった。

 内容は姉の結婚生活を案じるもの。続いて、久しぶりに顔を見たい、実家の伯爵邸でお茶をしましょう、というお誘いの言葉が並んでいた。


 ワケアリの相手に嫁いだ姉を心配する、姉想いの妹からの手紙。

 客観的にはそういうふうにしか読めないし、きっとミシェルもそういうつもりで書いているに違いない。


「なのに憂鬱になってしまうのは私自身の問題。それは分かっているのだけど……」


 分かっていても、実家の家族のことを思い出すと懐かしさよりも重苦しい気持ちが勝ってしまう。


「婚約解消のこと、うまく心の整理がつけられないままだったから……」


 妹に婚約者を奪われて。

 両親はあっさり婚約者をすげ替えることを決めた。

 そしてリゼットは、厄介払いのようにアルベールのもとへ嫁いできた。

 全てはあっという間に進んでいった。リゼットの気持ちを置き去りにして。


 家族に疎まれていたとは思わない。

 ただ、跡取り息子の兄と、甘え上手の妹に挟まれて、リゼットの存在は少しばかり軽かったのだ、と思う。


『おにいさまがわたしのおにんぎょうをこわしたの……』

『わざとじゃないもん! ちょっと見たかっただけなのに、リゼットが離さないから悪いんだろ!』

『わざとではないと言ってるのだから許してあげなさい。お前は優しい子だろう? リゼット』

『……はい、おとうさま』


 片腕の取れた人形を抱きしめ、幼いリゼットはうつむいた。


『お姉様のブローチとっても可愛い! ミシェルにも貸して!』

『でもこれはお祖母様が私のお誕生日に下さった大切な……』

『貸してあげるくらいいいじゃないの、リゼット。あなたは優しいお姉様でしょう?』

『……はい、お母様』


 それっきり、ブローチは返ってこなかった。


 家族の期待に応えて、リゼットは優しい娘、優しい妹、優しい姉であろうとした。

 そうやって、他人の顔色を窺うことも、自分の気持ちを押し込めることも上手くなった。

 そしてリゼットの存在はますます軽くなった。


「ルシアン様との婚約が決まったときね、私、嬉しかったのよ。婚約者なら……将来夫婦になる方なら、私を見てくださるんじゃないかって……」


 リゼットの最初の婚約者となったルシアンは、穏やかな性格の人だった。


『婚約者と言われても正直まだピンとこないけど……少しずつお互いのことを知っていこう』


 そう言ったルシアンに、リゼットはうなずいた。

 これから二人で時間をかけて信頼関係を育んでいくのだと、温かい気持ちが胸に満ちていた。


 けれど、その期待はあっさりと砕け散った。


『ねぇ、お姉様の婚約者のルシアン様って、とってもハンサムな方ね! 私も仲良くなりたいわ! いいでしょう? だって将来は義理の兄妹になるんですもの!』


 無邪気な顔でそう言って、ミシェルはリゼットとルシアンのお茶会に混ざるようになった。

 父も母も兄も、それを知りながらミシェルを諭してはくれなかった。


『僕は構わないよ』


 婚約者のルシアンにまでそう言われてしまえば、もはやリゼットにミシェルを止めることなどできるはずもなかった。


 華やかで愛嬌があってお喋り上手のミシェル。

 ルシアンの話し相手になるのはいつもミシェルで、リゼットは二人の会話に曖昧な微笑で相槌を打つだけ。

 ルシアンの視線はいつからか、ミシェルにばかり向けられるようになっていた。


 このままではいけないと、リゼットなりに努力したけれどうまくいかなかった。


『ねぇ、ミシェル。たまにはルシアン様と二人でお話したいの。だから今日は遠慮してもらえないかしら……?』

『あら、駄目よ。お姉様は口下手だもの。わたしがいなければルシアン様が退屈してしまわれるわ。そんなのルシアン様がお気の毒よ』

『……そうね……』


 それならばと、ミシェルが用事で不在の日にルシアンとのお茶会を設定したこともある。

 ところがルシアンは、応接室に一人で入室したリゼットの前で、


『今日はミシェルはいないんだね』


 と、がっかりした様子を隠そうともしなかった。

 リゼットの心が凍り付くのには、それで十分だった。


 どんどん冷えていくリゼットの気持ちとは逆に、ミシェルとルシアンの恋はみるみるうちに燃え上がっていった。


『ごめんなさい、お姉様。わたし、ルシアン様のこと好きになっちゃったの。ルシアン様もわたしと一緒にいる方が楽しいって。わたしを愛してるって仰ってるわ』

『すまない、リゼット嬢。だがミシェルを愛してしまったんだ。優しい君なら分かってくれるだろう?』

『わたし、お姉様よりもずっとずっとルシアン様のこと幸せにする自信があるわ! 優しいお姉様なら、わたし達のこと、認めて下さるわよね?』


 父も母も、リゼットの味方になってはくれなかった。

 ミシェルの軽率さに呆れつつも、結局はその希望を通した。


『こうなってしまった以上、婚約者をすげ替えるしかないだろう。家同士の結びつきはそれで保たれる』

『仕方ありませんわね……。ルシアン殿の心を繋ぎ止められなかったリゼットにも責任はありますもの』


 そうして迅速に、リゼットとルシアンの婚約は解消された。


「私ね、ルシアン様に恋していたというわけではないの。だけど、期待してしまった分、虚しくて……」


 黒猫の背を撫でながらリゼットはポツリと呟く。 

 気持ちの整理がつかないまま、リゼットはアルベールの妻になってしまった。


(こんな気持ちで嫁いでしまって……。旦那様が私を愛さないと仰ったのも、無理のないことだわ……)


 『君を愛することはできない』とアルベールが告げたとき、リゼットは驚きはしたものの、それほど傷付きはしなかった。

 むしろ、最初にはっきりと宣言してもらえてホッとしたくらいだった。

 期待して叶わないのは、もうたくさん――。


 ふいに膝の上で黒猫が動き、リゼットはそちらに意識を向けた。

 黒猫はリゼットの膝の上ですっくと立ち上がると、全身の毛を逆立てて「シャーッ!」と怒ったような声を上げた。

 かと思えば、次の瞬間には毛もヒゲも落ち着かせ、驚いて固まるリゼットの手に何度も頭を擦りつけた。リゼットを労るように。


 リゼットの若草色の瞳から、涙がポロリとこぼれ落ちる。


「そうね……そうなの……。私、お父様に怒ってほしかった。『私の娘を軽んじるな』って。お母様に慰めてほしかった。『悲しかったわね、辛かったわね』って……」


 家族に期待しても得られなかったもの。それを与えてくれたのは黒猫だった。


「ありがとう、アル……。私のために怒ってくれて。慰めてくれて……」


 リゼットは指先でそっと涙を拭う。

 今ようやく、ルシアンとの婚約解消について、心の整理ができたように思えた。


「私、また期待しても許されるのかしら……」


 心に浮かぶのはアルベールのこと。

 『愛することはできない』とはっきり言われて、リゼットも夫には期待しないよう努めてきた。


 けれど、毎日朝食と昼食を共に過ごし、ささやかなものを贈り合ううちに、アルベールの態度は少しずつ変わってきた。

 あいかわらず妻らしいことを求められることはないが、大切に扱われていると感じられる。


 リゼットの話に相槌を打ちながら口元を綻ばせるアルベールを見るたび、リゼットは嬉しい気持ちとともに胸が苦しくなってしまうのだ。

 性懲りもなくアルベールに期待してしまいそうで。

 そしてそれが虚しく終わりそうで。


「夜は弱気になってしまって駄目ね……」


 リゼットは小さく自嘲し、黒猫のアルを抱き上げた。


「アル、私そろそろ休もうと思うの。今日はありがとう」


 感謝を込めて、額にチュッとキスを落とす。

 帰るよう促したが、黒猫はじっとリゼットの顔を見上げたまま動こうとしない。


「どうしたの?」


 リゼットが小さく首を傾げると、黒猫はようやくリゼットの腕の中から床に飛び降りた。

 そのまま掃き出し窓から出て行くかと思いきや、窓とは違う方向に向かい、軽やかにリゼットのベッドの上に飛び乗った。


「まぁ……まぁ……!」


 リゼットは目を輝かせた。


「一緒に寝てくれるの? 本当に? 嬉しいわ、アル!」

「ニャア」


 アルが返事をするように鳴き声を上げる。耳もヒゲもピンと立てた姿は、どこか緊張しているように見えた。


「私が落ち込んでるから慰めてくれるつもりなのね。ふふ、ありがとう。アルは本当に優しい猫さんね。大好きよ、アル」


 もう一度、目尻を拭い、リゼットは頬を緩ませる。

 そしてふわふわの黒猫を抱きしめながら、温かな気持ちで眠りについたのだった。

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