6 お昼も一緒に
「どう、アル? 気持ちいい?」
膝の上で丸くなる黒猫にブラッシングしながら声を掛けると、黒猫は「にゃ……」と小さな声で応えた。
すっかり体の力は抜け、気持ち良さそうに目を閉じている。
「いいでしょう、これ。旦那様にお願いして買って頂いたのよ」
リゼットがアルベールにおねだりした物。それは猫用のブラシだった。
五日後に届いたブラシはとても品質の良いもので、黒猫の毛皮はますます艶やかさを増している。
「はぁん、ふわふわだわ〜」
思わず頬ずりすると、黒猫はビクリと体を震わせたが、逃げも暴れもしなかった。
リゼットを引っ掻いてしまったことを、ずいぶん気にしているらしい。
罪滅ぼしのつもりなのか、それともリゼットの膝の上が案外気に入ったのか、近頃ではリゼットが何も言わなくても自ら膝に乗ってくるようになった。
そぅっと片方の前脚をリゼットの膝に乗せ、許可を得るようにリゼットを見上げる。
にこりとうなずくと残りの脚も乗せ、安堵したように膝の上で丸くなる。
その一連の動作に、リゼットの表情は緩みっぱなしなのだった。
「旦那様に何かブラシのお礼をしたいのだけど……」
頬ずりで乱れた毛皮に再びブラシを当てながらリゼットは考えを巡らせる。
「お飾りの妻から贈り物をされてもご迷惑かもしれないけど、刺繍入りのハンカチくらいなら受け取って頂けるかしら……?」
「にゃーう」
黒猫が機嫌良さげに尻尾を揺らす。それを見て、リゼットは背中を押された気持ちになる。
「そうよね、うん、それに決めたわ。どんな図案がいいかしらね……男の方だし、お花よりも家紋やイニシャルなんかの無難なものの方が使いやすいかしら」
「にゃ」
「でもせっかくだし、ちょっとはこだわりたいわよね……」
「にゃん」
考え始めると楽しくなってきた。昼間やるべきことができたのも嬉しい。
何しろリゼットは暇なのだ。
夫のアルベールからは妻らしいことは何も期待されていない。
読書や庭いじりで時間を潰してはいるが、毎日とにかく時間を持て余しているのだった。
「あーあ、アルが昼間にも遊びに来てくれたらいいのに……」
思わず愚痴をこぼすと、黒猫は耳とヒゲをしょんぼりさせた。
相変わらず黒猫が訪れるのは夜に限定されていて、昼間は姿を見かけることすらない。
「さてはアル、あなた――」
ぎくりと黒猫が体を強張らせた。
「私の他にも好い人がいるんでしょう? 昼間は別のお家で飼われてるのね。どう? 当たりでしょう?」
いたずらっぽく問うと、黒猫は抗議するかのように「ナーゴ」と不機嫌そうな声で鳴いた。
「あら、別に隠さなくてもいいのに」
普段は別の家で飼われ、夜のひとときだけリゼットのもとを訪れる。黒猫はそんな二重生活を送っているに違いない。
(それに、もしかしたら旦那様も――)
夜は決して姿を見せない夫は、夜な夜などこかに出掛けているのではないか。もしかしたら恋人のところへ――。
そんなことを想像し、チクリと胸の痛みを覚えたリゼットなのだった。
*
翌日の昼食、いつものように自室に昼食が運ばれてくるのを待っていたリゼットを、侍女のマーサが呼びに来た。
「旦那様が昼食をご一緒にとのことです」
どことなく嬉しそうな様子のマーサに案内され、庭園内のガゼボに行くと、そこにアルベールの姿があった。
「すぐに仕事に戻らなければならないので、あまりゆっくりはできないのだが……迷惑だっただろうか?」
無言で立ったままのリゼットに、アルベールが小さく眉を寄せる。
リゼットは慌てて首を左右に振った。
「いえ! 驚いただけで……ご一緒できて嬉しいです」
「そうか」
微笑んで着席すると、アルベールが安堵したように目元を緩ませた。
「旦那様は、お昼はいつもそのようなお食事を?」
自分とアルベールの皿を見比べ、リゼットは目を瞬いた。
リゼットの方には、パンの他に、サラダ、グリルした鶏肉、卵料理などが盛り付けられた皿が数皿ならんでいる。
一方、アルベールの前には大きめの皿が一枚のみ。料理自体はリゼットのものと同じようだが、薄切りにした二枚のパンでそれらを挟んだものが、食べやすい大きさで並べられている。
「……ああ、こういう形式のことが多いな。書類を見ながらでも手早く食べられるようにと、コックが工夫してくれたんだ。君はのんびり食べてくれて構わない」
齧り付いたパンを咀嚼し、飲み込んでから、アルベールが答える。
豪快な食べ方なのにそれでも気品を感じさせるあたり、さすがは王族だと感心してしまう。
食べ方が綺麗なせいか、アルベールの食べているものがなんだか美味しそうに見えた。
「あの……もしお手間でなければ、次からは私も旦那様と同じように調理して頂けないでしょうか?」
おずおずと申し出ると、アルベールは食事の手を止め、怪訝な表情でリゼットを見た。
「手間、ということはないと思うが、女性には少々食べづらいのではないだろうか……」
言われてみれば確かに、人前で大きく口を開けて食べるのはマナー違反だ。特に女性の場合は良く思われない。
アルベールほど上品に食べるのはそう簡単ではないだろう。リゼットは、しゅんと眉を下げる。
「……そうですよね。旦那様にご不快な思いをさせるわけには――」
「いや、そんなことはない。不快などと思うはずがない」
真顔できっぱりと言われ、リゼットはまたもや目を瞬く。それからにっこりと微笑んだ。
「でしたら、ぜひお願いします。せっかくご一緒するのですもの。旦那様と同じものを頂きたいですわ。それに、とっても美味しそう」
アルベールがわずかに目を見開く。
「……そうか、ありがとう」
それだけ呟き、食事を再開したアルベールの表情はやわらかく、目元はほんのりと赤らんでいるように見えた。
アルベールは本当に時間に追われているらしく、大急ぎで昼食を終えると、申し訳なさそうにしながら執務室に戻っていった。