5 距離が近いのですが……?
翌朝の食堂で、リゼットは大いに困惑していた。
傍らにはアルベールが立ち、リゼットの左手はアルベールの両手に包み込まれている。
リゼットが食堂に足を踏み入れるなり、アルベールがものすごい勢いで歩み寄ってきたかと思うと、「傷は大丈夫か」と左手を取られたのだ。
「猫に引っ掻かれたとマーサから報告を受けたが……これは、酷い……」
アルベールが秀眉をひそめて呟く。まるでリゼットが瀕死の重傷を負ったかのように悲愴な表情だ。
「あの、そんなたいした傷では……」
そんなことよりもアルベールとの距離があまりに近いことに、リゼットはドギマギしていた。
こんなに接近したのは、結婚式の場で額に誓いのキスを受けたとき以来だ。
吐息さえ感じられそうなほど近くにアルベールの美しい顔があり、その宝石のような金の瞳は一心にリゼットの左手を見つめている。
リゼットの左手を包み込むアルベールの手は、大きくて温かい。
なんだかいたたまれなくて、リゼットはさりげなく左手を引き抜こうとしてみたが、アルベールはそれほど力を入れている様子もないのに決してリゼットの手を解放しようとはしなかった。
「痛むだろう。跡が残ってしまうだろうか……。本当にすまない……」
「いえ、もう痛みはそれほどでも。マーサにきちんと消毒してもらいましたし、跡も残らないと思います。……あの、それより、なぜ旦那様が謝るのですか?」
小首を傾げて見上げれば、アルベールの瞳がハッと見開かれ、それから落ち着きなく揺れた。
「……いや、その……この屋敷で起きたことは全て、当主の俺に責任がある、から……」
「まあ」
リゼットは目を瞬く。
(旦那様って、すごく責任感が強い方なのね。そんなに気にされなくてもいいのに……)
アルベールを安心させようと、リゼットはにこりと微笑んで見せた。
「本当に大丈夫ですよ、旦那様。心配して下さってありがとうございます。旦那様はお優しい方ですね」
するとアルベールは、驚いたように目を丸くしてリゼットを見た。その目元がほんのりと朱に染まり、口元を隠すように片手で覆う。
「いや……優しいのは君の方だと、思う……」
「……ありがとうございます」
一瞬言葉に詰まってから、リゼットはお礼の言葉を返した。
「猫さんと仲良くなろうと思ったら、この程度の引っ掻き傷なんて気にしていられませんわ。傷は猫さんと触れ合った証、むしろ勲章です!」
「そういうものか……?」
「そういうものです。実際、この傷をきっかけに、黒猫さんが膝に乗ってくれるようになったんですよ!」
「そ、そうか」
「あ、そういえば、黒猫さんは男の子だということが分かりまして……あ、あら、旦那様どうかされましたか?」
なぜかアルベールは両手で顔を覆ってしまった。見れば耳が真っ赤に染まっている。
「いや、なんでもない。気にしないでくれ……」
顔を覆ったまま、くぐもった声で言われ、リゼットは首を傾げながら頷いた。
「……ところで、君は何か欲しい物はないのか?」
「欲しい物、ですか?」
「この屋敷に来てからまだ何も購入していないと、セバスチャンから報告を受けている。君に不自由はさせたくない。ドレスでもアクセサリーでも、好きな物を買ってくれて構わない」
「はぁ……」
そう言われても、リゼットは元々物欲はあまりない。
ドレスもアクセサリーも、普段使いのものは十分揃っている。
頻繁に夜会やお茶会に行くとなれば新調する必要も出てくるだろうが、夫のアルベールが社交の場に出ないため、妻であるリゼットもあまり機会はなさそうだ。
「特に欲しい物は……あ」
言いかけてから思いついたことがあった。
「ではお言葉に甘えて、一つ欲しい物があるのですが……」