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4 お膝に抱っこ

 リゼットの部屋が気に入ったのか、黒猫はその後も毎日現れた。

 時間は決まって、日が暮れてから。

 リゼットが開けておいた窓の隙間からするりと部屋に入り込み、リゼットのお喋りに付き合い、ほんのちょっぴり撫でさせて、またするりと出ていく。

 黒猫とのひとときは、リゼットにとって何よりの楽しみとなっていた。


 夫であるアルベールとの交流は朝食のときのみ。

 アルベールは朝食後は自室にこもって仕事をしている様子で、同じ屋敷に住んでいるというのに姿を見かけることも滅多にない。

 宣言どおり朝食だけは毎日同席しているが、会話が弾まないのは相変わらずだった。


「でもね、言葉は交わさなくても、旦那様のことでいくつか分かったことがあるのよ」


 黒猫の隣に腰掛け、その背を撫でながら語りかけると、黒猫の耳がピクリと動いた。


「例えばね、旦那様はスクランブルエッグがお好きみたい。あまり表情の変わらない方だけど、スクランブルエッグを召し上がるときにほんの少し目元がやわらかくなるのよ」

「ニャ……」


 その表情を思い浮かべ、リゼットは自然と口元を綻ばせる。

 公爵家の朝食に毎日のように供されるスクランブルエッグは、バターがたっぷりでしっとりしていて、リゼットもとても気に入っている。


「反対に、熱いスープはお得意ではないみたいね。いつも十分に冷めてから口を付けてらっしゃるもの。猫舌なのかしらね?」

「ニャウ……」


 独り言に等しいリゼットの言葉の合間合間に、黒猫が相槌を打つように鳴き声をあげる。まるでリゼットの言葉が分かっているかのような絶妙なタイミングで。

 おかげでリゼットは、毎日気分良く、黒猫相手にその日の出来事や感じたことをお喋りすることができた。


 そうやって十日ほど過ごすうち、黒猫の方もリゼットに慣れてきたらしい。

 リゼットの部屋で過ごす時間は少しずつ長くなり、撫でさせる時間も少しずつ長くなっていった。

 今も、頭や背中を撫でられている黒猫の体からは、ゆったりと力が抜けている。


 そんな黒猫の様子を窺いながら、リゼットは内心ソワソワと落ち着かなかった。


(そろそろ大丈夫かしら……?)


 初めて会った日から、慎重に慎重に黒猫との距離を縮めてきた。

 今はそっと撫でるだけで我慢しているが、本当は全身を撫で回したいし膝に乗せたいし抱っこしたいしお腹に顔を埋めてスーハーしたくてウズウズしているのだ。


「あ、あのね、猫さん。少しだけ、抱っこ……してもいい?」


 逸る気持ちを抑えて顔をのぞき込むと、黒猫は嫌そうにそっぽを向いた。けれどその場を動くことはせず、仕方ないとでも言いたげに「ミャア」と小さく鳴いた。


「ありがとう!」


 リゼットはさっそく黒猫の前脚の付け根に両手を差し込み、正面から黒猫を抱き上げた。

 目の高さに掲げると、真ん丸に瞳孔を開いた黒猫と目が合った。


「ふふ、真正面から見ても美人さんね。あぁ……お腹ふわふわ……頬ずりしてみたい……。あら? あらあらまぁまぁ、猫さんたら男の子だったのね!」


 後ろ脚の間を見てそう言った途端、突然黒猫が暴れ出した。激しく身をよじり、リゼットの手から逃れようとする。


「あっ、急にどうしたの!? 待って……痛っ!」


 左手の甲に鋭い痛みが走る。手の力が緩んだ隙に、黒猫はするりとリゼットの手から逃れた。

 顔をしかめながら左手を見ると、大きな引っ掻き傷ができている。


「いたた……」


 傷は深いらしく、見る間に血が滲んでいく。

 とりあえず手近な布で押さえようと顔を巡らせたとき、リゼットを見上げる黒猫と目が合った。


「ニャ……」


 黒猫は見るからにしょんぼりした様子で、耳もヒゲも尻尾も元気をなくして垂れ下がっている。


「あ、猫さん、驚かせてごめんなさいね。たいした怪我じゃないから気にしないで」

「ニャウ……」


 慌ててフォローしたが、黒猫はしょんぼりしたままだ。


「本当に大丈夫よ。強引に抱っこした私が悪かったんだし……あっ、えっ?」


 突然黒猫が膝に飛び乗ってきた驚きで、リゼットは動きを止めた。

 黒猫はリゼットをじっと見上げてから、鼻先を傷口に寄せる。

 舐めようとしているのだと気付き、リゼットは慌てて左手を高く上げて黒猫から遠ざけた。


「駄目よ猫さん、血なんて舐めちゃ。でも……心配してくれてありがとう。もし慰めてくれるつもりなら、良かったらこのまま膝の上にいてくれる?」


 黒猫はしばらくの間じっとリゼットを見上げていたが、「ニャァ」と小さく鳴くと、相変わらずしょんぼりと耳を垂れたままリゼットに背を向けて丸くなった。


 薄い夜着越しに感じる温かい猫の重み。ニマニマと相好を崩しながら、黒猫の頭や背を撫でる。

 抱っこに続き、ついに黒猫が膝に乗ってくれた興奮で、傷の痛みなんかどこかへ飛んで行ってしまいそうだ。


「ねぇ、猫さん。性別も分かったことだし、名前を付けてもいいかしら? うーん……そうね。アル、というのはどう?」


 そう言うと、黒猫は耳をピンと立ててリゼットを振り返った。金色の目が真ん丸になっている。

 数拍遅れてリゼットは、アルというのが夫アルベールの愛称であることに気付いた。

 黒髪に金目のアルベールと同じ色彩のせいで、つい連想してしまったらしい。


(旦那様は不快に思われるかしら……? でも、猫さんと二人きりのときに呼ぶだけだもの。問題ないわよね?)


 それに、咄嗟の思いつきのはずなのに、アルという名前はそれ以外には考えられないほど、黒猫にしっくりくるように思えた。


「決まりよ。今日からあなたはアルね」

「……ニャ」


 観念したように、黒猫が力なく応えた。

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