3 初めての、なでなで
翌朝、侍女のマーサの案内で食堂に赴いたリゼットは、食卓に黒髪の青年の姿があるのを見て目を瞬いた。
「……おはよう」
ボソボソと発せられた声にハッと我に返る。
「おはようございます。朝食、ご一緒できて嬉しいです」
にこりと微笑むと、アルベールは気まずそうに目を逸らした。
「……昨日の夕食は、その……同席できずすまなかった」
「いえ……」
「仕事……のようなもので……悪いが今後も夕食は共にできない」
「お忙しいのですね」
「……なるべく朝は合わせようと思っている」
「はい、ありがとうございます」
もう一度微笑み、リゼットは席についた。
少なくとも朝食は同席できるらしい。昨日のアルベールの態度を思えば、それだけでも大きな進歩に感じられた。
そんなリゼットに、アルベールは何か言いたそうに口を開きかけたが、結局言葉が出ることはなく、そのまま静かに朝食が始まった。
食堂に、器とカトラリーが触れる音だけが響く。
想定はしていたが、どうやらアルベールは口数の少ない人らしい。
黙々とフォークを口に運ぶアルベールの所作は、さすがは王族だと感嘆するほど洗練されている。
そんなアルベールの様子をチラチラとうかがいながら、リゼットは会話の糸口を探っていた。
結婚初日の昨日、会話らしい会話といえば「君を愛することはできない」という例のやり取りだけだった。
今日はもう少し楽しい会話を交わしたいと思うのだが、リゼットもお喋りが得意な方ではない。
もし気の利いた会話ができる性格だったなら、ルシアンとの婚約を解消することにはならなかったのかもしれないと、今さら考えても仕方のないことが頭をよぎった。
アルベールについては、噂以上のことは何も知らない。
共通の話題といっても目の前の料理くらいしか思いつかず、「これ、美味しいですね」などと感想を口にしてみたが、「ああ」とか「そうだな」で会話は終わってしまった。
静かに時は流れ、残るは食後のデザートとお茶のみとなったとき、リゼットは「そういえば」と口を開いた。
「このお屋敷では猫を飼っていらっしゃるのですか?」
ピタ、とティーカップを持つ手を止め、アルベールがリゼットに視線を移した。
「昨日の夜更け、わたしの部屋に黒猫さんが遊びに来てくれたのですけど――」
カシャーンという音が響き、見れば執事のセバスチャンが配膳中のスプーンを床に取り落としたところだった。
セバスチャンは「失礼致しました」とスプーンを拾い上げ、何事もなかったかのように仕事に戻る。
「……いや、猫は飼っていない」
アルベールの返答は、リゼットにとって予想外のものだった。
「そうなのですか? とても立派な猫さんだったのでてっきり……。思わず撫で回したくなるような美しい毛並みだったんですよ」
「な……う……」
無表情のアルベールから、呻くような声が漏れる。
セバスチャンも手を止めて、戸惑ったようにアルベールとリゼットの顔を見比べている。
二人の反応を見て、リゼットはハッとした。
「あ……もしかして、部屋に猫を入れてはいけなかったのでしょうか……? 申し訳ありません、勝手なことを……」
しょんぼりと眉を下げる。
とても美しくてお行儀の良い猫だったが、もしかしたらアルベールは猫が苦手なのかもしれない。
そうでないとしても、飼っているわけでもない動物を室内に入れることには、拒否感を抱いても不思議ではない。
「……いや。構わない」
アルベールの言葉に、リゼットは顔を上げる。
「昨日も言ったとおり、君には可能な限り不自由のない生活を保証したいと思っている。君が望むなら、猫を室内に入れることも問題ない」
「ありがとうございます!」
リゼットはパッと表情を明るくした。
「……君は、猫が好きなのか?」
アルベールの問いに、リゼットは満面の笑みで答える。
「はい、大好きです! ……あの、旦那様は猫が苦手ではありませんか?」
「……苦手ではない。好き……とも言いがたいが」
「そうなのですね?」
曖昧な答えに、リゼットは小さく首を傾げる。
猫にはあまり関心がない、ということだろうか。リゼットはひとまずそう解釈することにした。
ともあれ、猫を部屋に入れる許可は得た。
公爵家の飼い猫でないならまた会えるとは限らない。そのはずなのに、なぜかリゼットは、あの黒猫がまた訪ねて来てくれる気がしてならないのだった。
*
「猫さん、来てくれたのね!」
少しだけ開けておいた掃き出し窓の隙間から、夜風と一緒に入り込んできた黒猫を、リゼットはにこにこと出迎えた。
黒猫は昨日と違い、三人掛けのソファに飛び乗った。
(あら。これはもしかして、隣に座ってもいいということかしら……?)
リゼットはそろそろと黒猫の隣に腰を下ろす。
黒猫は警戒するようにじっとリゼットを見ていたが、予想どおり逃げはしなかった。
「猫さん」
気を良くしたリゼットは、少しだけ黒猫の方に体を傾ける。
「少しだけ、撫でても構わない?」
小声で尋ねると、黒猫は相変わらずリゼットを見つめたままヒゲをピンとさせ、尻尾をたゆんとくねらせた。
それを了解の合図と受け取って、リゼットは黒猫に手をのばした。
丸みのある背中をそっと撫でる。想像していた以上のふわふわな手触りに、思わず吐息が漏れた。
「ふわ……可愛い……」
うっとりと呟くと、黒猫がビクリと体を強張らせたのがわかった。
リゼットは名残惜しく思いながらも手を引っ込める。
(焦らない、焦らない……)
「ありがとう、猫さん。今日はもう触らないわ」
そう言って少し距離を取ると、黒猫のヒゲが安心したように下がった。
「あのね、猫さんを部屋に入れる許可を旦那様から頂いたのよ。今朝、朝食をご一緒したときに。だからまたいつでも遊びに来てね」
応えるように、黒猫が「ニャア」と一声鳴いた。