呪いが解けるまで⑦
実家の伯爵家からリゼットが戻ったのは、太陽が沈んでまもなくのことだった。
「奥様が、旦那様との面会を求めておられますが……」
困ったようなセバスチャンの言葉に尻尾がしょんぼりと下がる。
夜は仕事で手が離せないと、以前からリゼットには伝えてある。それでも、とリゼットが願うのは初めてのことだった。
実家で何かあったに違いない。胸騒ぎがする。すぐにでも会って話を聞きたいが、アルベールはすでに猫になってしまっている。
猫のままでもいい。せめてそばにいたいと、急いでリゼットの部屋に駆けつけた。
「いらっしゃい、アル……」
現れた黒猫にリゼットは淡い笑みを向けてくれたが、すぐにその表情は硬くなった。
食欲がないらしく珍しく夕食を残し、その後も心ここにあらずといった様子で溜息ばかりついている。
何度も時計に目をやっては、「旦那様ははまだお仕事なのかしら……」と呟く。
時間が経つごとにリゼットの表情は暗くなっていく。黒猫を撫でる手がいつになく冷たい。
「ニャーウ……」
(すまないリゼット、明日の朝、必ず話を聞くから……)
鳴き声で訴えかけるがリゼットはそれには応えず、黒猫を膝からソファに移し、ふらりと立ち上がった。
「私、旦那様のお部屋に行ってくるわ」
思いつめた表情でリゼットは部屋を出て行く。
(待ってくれ、リゼット! 部屋に行っても俺は……!)
「ニャーオ! ニャーオ!」
まとわりつくように後を追ったが、リゼットの足は止まらない。
「旦那様、リゼットです」
リゼットがアルベールの部屋の扉をノックする。中からは何の応答もない。当然だ。部屋の主は今、黒猫の姿でリゼットの足元にいるのだから。
リゼットの顔色がますます悪くなっていく。
駆けつけてきたセバスチャンに問いかけるリゼットは、今にも泣きだしそうだった。
「旦那様はお部屋に……いえ、このお屋敷にはいらっしゃらないのではないの? 毎晩、どちらかにお出かけになっているのではないの……?」
アルベールの血の気が引く。「疑われても仕方ありませんよ」という、いつかのセバスチャンの忠告が脳裏に甦る。
「ニャーウ! ニャーオ!」
(違う! 違うんだリゼット……!)
必死に呼びかけるが、リゼットの耳にはもはや届かない。
「いえ、決してそのようなことはございません。旦那様はお屋敷の中にいらっしゃいます」
「……ではどちらにいらっしゃるのですか? 本当にいらっしゃるというのなら、今すぐお目にかかりたいの。どうしても。ほんの少しの時間でいいのです……」
「それは……」
セバスチャンは言い淀み、黒猫姿のアルベールに視線を落とした。その目はアルベールを責めていた。
「申し訳ございません、奥様。私の口からは申し上げられません」
ふらふらとした足取りで部屋に戻ったリゼットは、ソファに腰掛けるなり、若草色の瞳からぽろぽろと涙を溢れさせた。
(リゼット……!)
膝に飛び乗り、手の甲に何度も頭を擦りつける。けれどリゼットの涙は止まらない。
「私、いつの間にか旦那様のこと好きになってしまった……」
アルベールは目を見開いた。
(リゼットが、俺のことを……?)
喜びに胸が震える。けれど、次の瞬間には激しい後悔に襲われた。
「アル、大好きよ。でもあなたも、私とずっと一緒にはいてくれないのね……」
朝と昼しか顔を合わせないアルベール。
夜しか現れない黒猫。
ただ一人でいい、寄り添ってくれる人が欲しい。リゼットのささやかな望みに気づいていながら、アルベールは逃げ続けていたのだ。
(すまない、リゼット、すまない……)
真実を打ち明ける言葉も、涙を拭う手も持たない黒猫の体がもどかしい。
気が付けば黒猫の舌で、リゼットの頬の涙を拭っていた。
(もっと早く打ち明ければよかった。たとえ君に嫌われても。君を傷つけるくらいなら……)
夢中で涙を拭う。舌がリゼットの唇に触れたのは偶然だった。
「すまない、リゼット、どうか泣かないで……。不甲斐ない俺を許してくれ、リゼット……」
「あ、あ、アル……? え、旦那、様……?」
動揺したリゼットの声で初めて、自分が人間の言葉を発していたことに気づいた。目に映る自分の姿も人間のもの。
夜明けにはほど遠い時間だというのに。
「まさか呪いが解けたのか……?」
信じられない思いで呆然と呟く。
どうして突然呪いが解けたのだろうかとか、呪いが解けて嬉しいとか、そんな思いが湧くよりも早く。
「と、と、とりあえず服を着て下さい……」
素っ裸でリゼットに覆いかぶさっている自分に気づき、アルベールは情けない悲鳴を上げたのだった。
その後、身なりを整え、リゼットに王家の呪いのことを打ち明けた。
リゼットは目を丸くしながら聞いていた。その表情に嫌悪の色がないことに、密かに安堵する。
「君を愛することを許してもらえないだろうか……」
跪き、リゼットの手を取って愛を告げた。
(たとえ同じ愛を返されなくても、俺はもう、リゼットを想わずにはいられない……)
そう決意をしていても、緊張で手が震えそうになった。
「とても……とても嬉しいです」
リゼットの返事を聞いたときには、今度は喜びで震えた。
「リゼット、ずっと君だけを愛すると誓うよ。俺と、本当の夫婦になってほしい」
「はい、私もずっと旦那様を愛すると誓います」
若草色の瞳が嬉しそうに細められる。
「……誓いのキスをやり直してもいい?」
形ばかりの結婚式に、額に送った義務的な誓いのキス。酷い態度を取っていたあの頃の自分を殴り倒してやりたい。
けれど時は巻き戻せない。せめて誓いのキスだけでもやり直したかった。
リゼットがうなずいてくれるのを待って、その唇に触れるだけのキスをした。
名残惜しい気持ちをこらえて顔を離して見れば、頬を染めて瞳を潤ませたリゼットと視線が絡んだ。
我慢できずにもう一度口付けた。今度は深く。
「ん……」
甘い吐息がリゼットの鼻から抜ける。
ハッとして唇を離すと、リゼットは困ったように眉を下げた。
「……ごめん、嫌だった?」
今さらながら不安になって問うと、リゼットはふるふると首を横に振った。その顔は真っ赤に染まっている。
「あの、愛されるって、こんなに気持ちいいんだなって……んっ」
堪えきれずに三度唇を奪う。
先ほどよりも深く長い口付けを交わしてから、リゼットをぎゅっと抱きしめた。真っ赤に染まった耳元に囁く。
「……明日の夜、初夜をやり直してもいい? リゼットと本当の夫婦になりたい」
本音を言えば今すぐにでもそうしたいところだったが、今日はいろいろなことがありすぎた。心の準備もできていないだろうし、リゼットに無理はさせたくない。
(焦ることはない。呪いは解けたのだから……)
背中に回されたリゼットの手に、おずおずと力が籠る。
「はい……私をあなたの妻にして下さいませ」
愛おしさがこみ上げ、アルベールはもう一度リゼットに口付けた。
翌日、生まれて初めて夜の訪れを待ち遠しく思いながら、ソワソワと日中を過ごし、日が暮れた直後のことである。
アルベールはリゼットの部屋を目指して公爵邸の廊下を疾走していた。すれ違う使用人達が目を丸くして振り返るが構っている余裕はない。
リゼットの部屋に駆け込むと、リゼットもまた目を真ん丸にしてアルベールを見下ろした。
そう、見下ろされる位置に、アルベールはいたのだ。
「え……旦那様が、アルに……?」
「ミャウ……」
黒猫姿のアルベールは、情けない声で応えた。
リゼットとのキスで解けたかに思えた猫の呪いだったが、なんと解呪の効果は一晩限定だった。
その後色々と試した結果、解呪の効果があるのは唇同士でのキスのみだということも分かった。
完全に呪いが解けたと思っていたので正直がっかりしたし、毎晩キスしてもらわなければ解呪できないのは不便な面もある。
けれど、それはそれで悪くないと、アルベールは思っている。黒猫姿でリゼットの膝の上に丸まりながら。
「はぁ……久しぶりのアルの手触り……」
黒猫の背中を撫でながら、リゼットがうっとりと吐息を漏らす。
猫好きのリゼットを幸せにできるのだから、黒猫姿も悪くない。
と言うより、リゼットが猫をどのように愛でるのかを知ってしまった以上、リゼットに可愛がられる役目を他の猫に譲るわけにはいかなくなった。もしリゼットが他の猫に同じことをしている場面を目撃してしまったら、嫉妬でどうにかなる自信がある。
それに……。
「アル、今日も気持ちよくしてあげるわね」
リゼットの指が耳の付け根の辺りを優しく撫でる。
こうしてリゼットに撫でられるのは、正直なところ非常に心地いいのだ。
黒猫に対する愛情が込められているからだろうか、リゼットに撫でられて気持ちよくなるほど、リゼットを愛おしく思う気持ちも増していく。
だから、やり直しの初夜以来、ほとんど毎晩リゼットを愛しているアルベールだけれど、黒猫として可愛がられた日には特に愛が深くなってしまうのは、仕方のないことだと思うのだ。
耳の付け根をこしょこしょしていたリゼットの指は、首の横を通り喉へと、流れるように場所を変えていく。
あまりの気持ちよさに思わずころりんと仰向けに転がってしまい、ハッと目を見開くと、リゼットが女神のような悪魔のような微笑みで黒猫を見つめていた。
「アル……」
うっとりと上気した顔が黒猫の腹に近づいてくる。
「すぅぅぅぅぅ…………はぁぁぁぁぁ…………」
黒猫の腹に顔を埋めたまま深い呼吸を繰り返すリゼット。くすぐったいが、アルベールは微動だにしない。
(リゼットはなぜこの行為の破廉恥さに気づかないのだろうか……)
腹を吸われながら、アルベールは遠い目になる。
(これが猫ではなく人間姿の俺だと想像してみ……いやいやいや、やめろ想像するな。想像したらメンタルが死ぬ。リゼットも一生気づかないでくれ……)
余計な考えを頭から追い出し、せめてもの抵抗で、長い尻尾をくるんと前に回して大事なところを隠した。
「はぁ……ありがとう、アル。とっても幸せだったわ……」
ようやく顔を上げたリゼットが、頬を染めて甘い吐息を漏らす。
赤く熟れたその唇に口付けながら、今以上にリゼットを幸せな気持ちにさせるために、さて今夜はどうやって可愛がろうかと、考えを巡らせるアルベールなのだった。
〈了〉
これにて黒猫視点の番外編も完結となります。予定より長くなってしまいましたが、最後までお付き合い頂きありがとうございました!
予定していたものはひとまずここまでとなりますが、また何か思いついたら追加で書くかもしれません。
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