呪いが解けるまで⑤
アルベールは毎晩、黒猫の姿でリゼットのもとを訪れた。
リゼットのそばにいると、なんとも言えず心が安らぐ。
撫でられて心地よいだけではない。リゼットの紡ぐ言葉もまた、アルベールを幸せな気持ちにしてくれた。
「アルは可愛いわね」
リゼットは事あるごとに、「可愛い」と口にした。
出逢った頃はそう言われても、
(こんな呪われた黒猫が可愛いだって? そんなわけないだろう。それに中身は二十五歳の男だぞ……)
と、その言葉を信じることができなかった。
けれど、毎晩繰り返し言われるうちに、
(もしかして、俺は可愛い、のか……?)
と、ちょっぴり思うようになった。
なんせ、立っても座っても跳んでも欠伸をしても、とにかく黒猫が何か動作をするごとに、リゼットはいちいち「可愛い、可愛い」と顔を輝かせるのだ。
リゼットの為人を知るにつれて、その言葉への信頼も増した。
ついには、リゼットから「アルは今日も可愛いわね」と頭を撫でられ、
(今日も俺は可愛い……)
と受け入れるようになったのだった。
朝や昼の食事どきにリゼットから黒猫の話を聞くのは、少し恥ずかしいが嬉しくもあった。
「昨日の夜も遊びに来てくれて、とっても可愛かったんですよ」
「そうか、それは良かった」
リゼットの話に相槌を打ちながら、
(なんたって俺は可愛いからな)
と内心で頷く。思わず口元が緩んでしまうことには、気づいていない。
気を良くしたリゼットから、黒猫がいかに気持ちよさそうに蕩けていたかを聞かされ、己の痴態を思い出しては羞恥に顔を覆うまでがお決まりのパターンなのだった。
そうして、リゼットが公爵家に嫁いできてからひと月半が過ぎたある日。
朝食後の執務室にて、アルベールは机の引き出しから一枚のハンカチを取り出した。
白いハンカチには、公爵家の紋章と「A」の文字が丁寧に刺繍されている。黒と金の糸を用いて刺繍された飾り文字を指先で撫で、アルベールは口元を綻ばせる。
それはその日の朝食の時に、リゼットから贈られたハンカチだった。
「遅くなってしまいましたが、猫用ブラシのお礼です。あの、ありきたりなもので恥ずかしいのですが……」
自信なさそうに差し出されたハンカチを前に、頬が緩みそうになるのを抑えるのに苦労した。いや、たぶん抑えきれずに緩んでいたと思う。
リゼットが自分のために刺繍入りのハンカチを準備してくれていることは、黒猫姿のときに聞いて知っていたが、実物を見るのは初めてだった。
「ありがとう」
ずっと楽しみにしていた、などと言うわけにもいかず、それだけ言ってハンカチを受け取った。
その後、執務室に移動したものの、アルベールはハンカチを取り出してはニマニマと眺め、引き出しに片付け、少ししてまたハンカチを取り出して、というのを延々と繰り返しているのだった。もちろん机の上の書類の山は少しも減っていない。
「良うございましたね、旦那様。ですがそろそろお仕事もなさって下さいませんと」
セバスチャンが、少しばかり呆れのこもったまなざしと共に、急ぎの書類をアルベールに差し出してきた。
その書類に素早く目を通し、確認済みのサインをしてセバスチャンに返す。そしてまたハンカチに視線を戻した。
セバスチャンが、やれやれと溜息をついた。
「そんなに嬉しかったのでしたら、奥様にきちんとお伝えになった方がよろしいですよ。お返しということで贈り物をされてはいかがでしょうか」
「贈り物か……リゼットは何を喜ぶだろうか?」
「奥様のご希望に合わせるなら、次の贈り物は猫じゃらしになるかと。取り寄せたいが店のアテはあるかと、先日尋ねられました」
「猫じゃらし……」
アルベールがスンと表情を消す。
「それは……俺と遊ぶためなんだろうな……」
「他に誰がいますか」
「あれは子猫用のおもちゃじゃないのか?」
「そういうわけでもないようでございますよ。成猫でも好きな猫は好きなのだとか」
「だが中身はいい年した人間の男だぞ?」
アルベールはむむむと眉を寄せる。
「そう仰らずに一度お試しになってみては。奥様がお喜びになります」
「いやしかし俺の尊厳が……」
「奥様がお喜びになります」
重ねて断言され、アルベールはぐっと言葉に詰まる。
リゼットが喜ぶと言われると弱いのだ。ものすごく弱い。
(到底楽しいとは思えないが、まぁお付き合いで遊ぶフリくらいなら……)
などと考えているアルベールは、猫じゃらしを前にうっかり猫の本能が大ハッスルしてしまい、新たな黒歴史を刻む羽目になることをまだ知らないのであった。
「……まぁそれも準備なさるとして、今度こそドレスと宝飾品をプレゼントなさいませ。奥様は慎ましやかなお方ですから、ご自分ではドレスもアクセサリーも買おうとなさいません。今後、必要な場面も出てくるでしょう。ご指示頂ければ明日にでも仕立屋を呼びます」
「そうだな。頼む」
「それと……」
セバスチャンが姿勢を正し、じっとアルベールを見つめた。
「そろそろ本当のことを奥様にお話になるべきではありませんか?」
耳の痛い話が始まり、アルベールはスッと視線を逸らした。
「奥様が嫁いで来られてまもなく二ヵ月になります。旦那様は夜は仕事で部屋に籠っている、とご説明しておりますが、誤魔化し続けるにも限度というものがございます」
「それは……」
アルベールはこの二ヵ月近く、夜間は一度としてリゼットの前に姿を見せていない。不審に思われても不思議ではない状況だ。
「夜の間はどこかに出かけているのではないか、例えば愛人のところに――そう疑われても仕方ありませんよ」
「馬鹿な。俺はどこにも出かけてなどいないし、愛人だなんて――」
「ええ、旦那様が夜間一歩たりともお屋敷から出ていないことも、それどころかお休みのとき以外はずっと奥様のおそばにいらっしゃることも、私達使用人は存じておりますとも。ですが奥様は――」
「わかっている」
セバスチャンの言葉を遮り、アルベールは呻く。
「わかっているんだ。すぐにでもリゼットに打ち明けるべきだと……」
わかっていても、リゼットの反応を想像すると体が震えるのだ。
結婚したときにあったのは、ただ諦めだけだった。どうせ受け入れられるはずがないと。
けれど、リゼットへの気持ちを自覚してしまった今、アルベールの心を占めるのは恐怖だった。
受け入れてもらえなかったらどうしよう。疎まれてしまったら、と。
リゼットが「アル」を心から可愛がってくれていることは分かっている。「アルベール」のことも、嫌われてはいないような気がしている。
けれど呪いのことを知ってもなお、リゼットがあの温かな目を自分に向けてくれるのか、アルベールにはどうしても自信が持てないのだった。
(もう少しだけ……もう少ししたら、必ず……)
ハンカチをもう一度見つめ、アルベールは静かに溜息をついた。




