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2 初夜の訪問者

「まあ!」


 リゼットは目を輝かせた。

 反対に黒猫は、警戒するように姿勢を低くして動きを止めた。


「猫さん、猫さん。ねぇ、こっちに来ない?」


 リゼットはしゃがみ込み、にこにこと片手を差し出す。

 黒猫は瞬きもせずにリゼットを見ている。


「私ね、新婚の旦那様に初夜をすっぽかされてしまったの。代わりに猫さんが話し相手になってくれたら嬉しいのだけど……」


 黒猫の耳がピクリと動く。

 なおもじっとリゼットを見つめていた黒猫だったが、やがて音もなくバルコニーに降り立つと、そろそろとリゼットに歩み寄ってきた。

 そのままリゼットの手をすり抜けるように室内に入り込み、一人掛けのソファに飛び乗った。長い尻尾がくるんと脚の前に回される。


「ふふっ、ようこそ猫さん」


 隣に腰掛けたい気持ちをぐっとこらえ、リゼットは向かいのソファに腰をおろす。

 そうして小さな客をにこにこと見つめた。


 それは思わず見惚れてしまうような立派な猫だった。

 艶のある黒い毛並みは触れてみたくなる美しさ。耳の中だけ薄いピンク色なのが可愛らしい。

 油断なくリゼットを見つめる金色の瞳は瞳孔がまん丸に開いていて、これまたキュンとする愛らしさだ。


(なんて可愛いの……!)


 リゼットは猫が大好きだ。

 実家の伯爵家では猫を飼うことが許されなかったから、猫との触れ合いに飢えている。


(ああっ、今すぐに触ってみたい! だけど……)


 撫で回したい気持ちをぐっとこらえて身悶える。

 黒猫は相変わらず警戒心たっぷりな様子でリゼットから目を逸らさない。手をのばそうものなら、すぐさま逃げてしまうだろう。


「ねぇ、猫さんはこのお屋敷で飼われているの?」


 見たところ首輪はつけていないが、毛並みの滑らかさといい体格の良さといい、とても野良猫とは思えない。

 それに、黒髪に金目のアルベールと同じ色彩を持つせいか、どことなく気品も感じられる。


「だとしたら猫さんは私の先輩ね。私は今日からこちらに住むことになったのよ。一応、公爵様の妻として、なのだけど……残念ながら妻の役割は求められていないみたい」


 落胆しつつも、無理もないことだと、リゼットはリゼットなりに自分を納得させている。


 七年前、成人と同時に王位継承権を放棄し公爵位を賜ったアルベールは、めったに人前に姿を現さないことで知られている。

 王家主催の夜会にすら参加せず、公務も人と会わずに済むような裏方仕事ばかりを担当していると聞く。

 たまに人前に出てきたときにも無表情を貫き、お近づきになろうと群がる貴婦人達を寄せ付けない。


 「社交嫌い」、「人嫌い」、「欠陥王子」、「鉄仮面公爵」。

 彼にはそんな、好意的とは言えない評価が常につきまとってきた。


 ワケアリの王弟公爵。

 そのお相手に選ばれたリゼットもまた、それなりのワケアリだった。


 というのも、ほんの三ヵ月前まで、リゼットは別の男性と婚約していたのだ。

 相手は侯爵家の嫡男ルシアン。伯爵家の長女であるリゼットとは、家同士の意向で結ばれた婚約だった。


 ところが婚約が成立して間もなく、ルシアンは別の女性と熱烈な恋に落ちた。

 よりによって、リゼットの一つ年下の妹、ミシェルと。


 二人がすでにのっぴきならない関係に至っていることを知った両家の親達は、ルシアンの婚約者をミシェルにすげ替えることを決めた。

 真実の愛で結ばれた二人、そんな二人のために自ら身を引く心優しい姉、という美談に仕立て上げて。


 けれど、噂話に飢えた社交界の人々が、そんな話を言葉どおりに受け取るはずもなく。

 リゼットは好奇と嘲笑の視線に晒されながら、「妹と元婚約者との真実の愛を応援する心優しい姉」として振る舞わねばならなかった。


 そんな折に王家から打診された王弟アルベールとの結婚話に、リゼットの両親は飛びついた。

 傷物になってしまったリゼットの扱いに少々困っていたし、評判の良くない公爵とはいえ玉の輿には違いない。


 当のリゼットには戸惑いしかなかった。

 なぜ自分が王弟の妻に選ばれたのか、見当もつかない。

 伯爵令嬢という立場は、王族に嫁ぐにはギリギリの身分だ。

 貴族の娘として一通りの教養は身につけているつもりだが、際立った特技や才能があるわけでもない。

 薄茶色の髪に若草色の瞳、細身の体型のリゼットは、それなりに整った容姿ではあるものの、王家から見込まれるほどの美人とも言えない。外見でいうなら、一つ年下の妹ミシェルの方が、よほど華やかで人目を引く。


 王妃がリゼットの優しさに心を打たれた。

 国王陛下はリゼットの父にそう説明したらしいが、王妃殿下とリゼットに特別な接点はないのでますます訳が分からない。

 ルシアンと婚約する少し前に、他の多くの令嬢達と共に王妃殿下のお茶会に招待されたことがあるが、その時も挨拶以上の会話を交わした記憶はない。

 まさか例の美談を言葉どおりに信じているとも思えないのだが……。


 戸惑うリゼットを置き去りにしてあれよあれよと話は進み、打診からわずか二ヵ月後、リゼットはアルベールに嫁いだのだった。

 「その優しさを見込まれて王家から望まれた」という更なる美談を添えられて。


「きっと旦那様にとっては不本意な結婚だったのでしょうね。ずっと、婚約すらされていなかったんだもの。女性に興味がおありでないか、あるいは――」


 すでに愛する女性がいるか。

 相手の身分が低いか、既婚者か、もしくは片想いか。なんらかの理由で結婚できない想い人がいるのではないか。

 新婚の妻に向かって「愛人を作っても構わない」などと言ったのは、自分にもそのような相手がいるからでは――。


 そんな考えが浮かんだが、リゼットは口には出さなかった。言葉にするとあまりに虚しい気がして。

  

「……でも、旦那様は本当は親切な方なのではないかと思っているの」


 黒猫がピクリとヒゲを震わせた。


「例えばこのお部屋。家具もカーテンも壁紙も、女性好みのものに新調されてる。過ごしやすいようにという気遣いが感じられるわ」


 夕食も、質量ともに配慮の行き届いた内容だった。一人で黙々と食べたのでなければ、きっともっと美味しく感じられたことだろう。

 それに、執事も侍女も口数は少ないものの、リゼットへの接し方はとても丁寧で親切なものだった。

 主であるアルベールが、使用人達にそのように指示しているからに違いない。


「だからね、妻としては望まれていなくても、せめて友人のような気安い関係になれたら、と思っているの。同じお屋敷で暮らすんだもの、気まずいのは嫌だわ。まずは明日の朝食をご一緒できたら嬉しいのだけど、やっぱり難しいかしらね……」


 リゼットは寂しく微笑み、睫毛を伏せる。

 結婚式当日の夕食すら別々だったのだ。あまり期待しない方がいい。期待して叶わないのはもっと辛い――。


 「ニャア」という声に、リゼットはハッとした。

 いつの間にか黒猫がリゼットの足元にいた。長い尻尾が揺れ、ほんの一瞬ふわりとリゼットに触れる。


「まあ、慰めてくれるの? 嬉しいわ。ふふ、声もとっても可愛い。お喋りに付き合ってくれてありがとう、猫さん」


 思わずのばしかけた手を素早くかわし、黒猫はバルコニーへと向かう。どうやら出ていくつもりらしい。


「猫さん。また遊びに来てくれる?」


 問いかけに応えるように尻尾を揺らし、黒猫は夜の闇の中に消えていった。

 リゼットは黒猫の消えた先をしばらく見つめてから、不思議と穏やかな気持ちで眠りについたのだった。

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