呪いが解けるまで③
リゼットに引っ掻き傷を負わせてしまった日を境に、黒猫はリゼットの膝の上に乗るようになった。
はじめのうちはリゼットから、「お膝に乗せてもいい?」と請われて。
けれどその数日後、リゼットの希望で猫用ブラッシングが導入されると、アルベールは自ら進んでリゼットの膝に乗るようになった。
「君は何か欲しい物はないのか?」
「……ではお言葉に甘えて、一つ欲しい物があるのですが……」
「ああ、何でも言ってくれ」
ドレスやアクセサリーを贈るつもりで聞いたのだが、目をキラキラさせながら返ってきた答えは想定外のものだった。
「猫用のブラシが欲しいのです!」
「……本当にそんな物でいいのか?」
「はい! 黒猫さんをブラッシングしてあげたいのです」
「君が望むなら構わないが……」
リゼットの無欲さに戸惑いつつ注文した最高級の猫用ブラシは、数日後に公爵邸に届けられた。
朝食のときに手渡すと、リゼットは嬉しそうに顔をほころばせた。
「このブラシで黒猫さんをブラッシングするのが楽しみです! 今夜も来てくれるかしら……」
(ああ、必ず行こう)
心の中で答える。リゼットにつられるように、アルベールの表情もゆるんだ。
二十五年の人生のおよそ半分の時間を猫の姿で過ごしたきたアルベールだが、ブラッシングをされた経験はなかった。髪の毛を梳かすようなものだろうと、たいして興味もなかった。
リゼットが喜ぶなら、少しくらい付き合ってもいいか。そう、思っていたのだが――。
「どう、アル? 気持ちいい?」
リゼットが丁寧な手つきで黒猫の体にブラシを当てていく。
尋ねられたアルベールは、小さな声で「にゃ……」と応えた。完全に蕩けきった声で。
(き、気持ちいい……)
ブラシの適度な刺激が実に快い。手の平で優しく撫でられるのも心地よいが、それとは一味違う。血の巡りが良くなるのか、体がぽかぽかする。
おまけにリゼットの膝の上は温かくて柔らかくて、なんだかいい匂いまでする。
あまりの気持ちよさに思わずうとうとしかけたところで、「はぁん、ふわふわだわ~」とリゼットに頬ずりされて飛び上がりそうになった。
(か、顔が近すぎるんだが……!)
心臓をバクバクさせながらも、なんとか動かずに耐える。二度とリゼットに傷をつけたりしないと、固く心に誓っていた。
この頃から、アルベールがリゼットと過ごす時間はさらに増えていった。
まずは朝食だけでなく、昼食も一緒にとるようにした。
「アルが昼間にも遊びに来てくれたらいいのに……」というリゼットの呟きがきっかけだった。
リゼットが一緒に過ごしたがっているのは「アルベール」ではなく黒猫の「アル」だということは分かっていたが、昼間は時間を持て余していると言うリゼットに、できるだけのことをしてあげたかった。
それに、黒猫としてリゼットの素顔を知るにつれ、「アルベール」としてももっとリゼットと交流したい気持ちが膨らんでいた。
とはいえ、人の姿でいられる時間が限られている分、日中は仕事に追われていて、昼食も慌ただしいものになってしまう。片手でペンを走らせながらでも食べられるようにとコックが工夫してくれた料理は、様々な具材を二枚の薄いパンで挟んだもので、手軽で美味しいのだが淑女には食べにくい形状をしていた。
それに付き合わせるつもりはなかったのだが、リゼットは、
「せっかくご一緒するのですもの。旦那様と同じものを頂きたいですわ」
と、アルベールに合わせようとしてくれた。
実際に食べる段になると、案の定食べにくそうにしていたが、
「思ったとおり、とっても美味しいですね。特にこの、茹で鳥とチーズとたっぷりのお野菜を挟んだものが一番好きです」
と、顔を綻ばせた。それはアルベールも一番気に入っている取り合わせで、好みが一致したことに密かに嬉しくなった。
毎日リゼットと一緒に昼食をとるようになったことを、侍女のマーサも喜んだ。
それまで昼食は食べたり食べなかったり、時間も不規則で、よくマーサからお小言を貰っていたのだ。
「奥様のおかげでございますね。私も長く王宮に勤め、たくさんのお嬢様方を拝見して参りましたが、あの方はまことに得難い御方だと思いますよ。奥様に逃げられないよう、大切になさいませ。……夫婦の間で隠し事は、よろしくないと存じますよ」
じっと見つめられ、アルベールはそっと視線を逸らした。
マーサが言いたいことは分かっていたが、それに返事をすることはできなかった。
じきにアルベールは、夕食もリゼットと同席するようになった。ただしこちらは黒猫の姿で。
日没と共に黒猫の姿になってしまうから、夕食どきに人の姿でいることはできない。夕食はいつも、自室で猫用にアレンジされた料理を食べていた。
そしてリゼットがおおよそ寝支度を整えた頃を見計らって部屋を訪ねていたのだが、それでは足りなくなってしまったのだ。
少しでも長く、リゼットのそばにいたい。
リゼットは夕食はいつも自室で一人だと、マーサから聞いていた。
それである晩、リゼットの夕食前を狙って部屋に突撃した。
「私と一緒に食べる?」
「にゃん」
歓迎されたことに、思わず尻尾が揺れた。
まもなく呼ばれてやってきたセバスチャンは、椅子に堂々と座る黒猫を見て、目を丸くして固まったが、すぐに気を取り直して猫用の食事を運んできた。
なにしろ運び入れる部屋を変えるだけだから、準備はあっという間だった。リゼットは、「さすが、公爵家のコックは優秀なのね。猫の食事にも詳しいなんて!」と感心しきりだったが。
ちなみにその翌朝セバスチャンからは、「旦那様、ああいったことは事前にご相談下さいませ」という苦情を受けた。
「それで、今後はご夕食は奥様のお部屋へお持ちすればよろしいので?」
「ああ、そうしてくれ」
「かしこまりました。奥様との仲がよろしいのはけっこうなことと存じますが……」
そう言ってセバスチャンは、いつかのマーサと同じ目で、アルベールをじっと見た。アルベールはそれにも応えることはできず、逃れるように目を逸らした。
こうして、黒猫がリゼットと過ごす時間は日に日に長くなっていった。
だが変化はそれだけではなかった。
リゼットの黒猫への接し方にも変化は起きた。
それはアルベールに、大いなる苦悩をもたらしたのだった。
次回ようやくもふもふ回です!