呪いが解けるまで②
翌朝、アルベールはリゼットと朝食を共にした。
本当は、食事の席に同席するつもりはなかった。気まずい雰囲気になるのは目に見えている。
けれど前日の夜にリゼットが、「明日の朝食をご一緒できたら嬉しいのだけど」と呟くのを聞いてしまった。
こんな呪われた男に嫁がされた、気の毒なリゼット。せめて不自由のないように、その希望は可能な限り叶えようと決めていた。
……という建前の裏側で、リゼット自身への関心が芽生え始めていたのも事実だった。
前夜、黒猫の姿でリゼットの部屋に入ったとき、アルベールは警戒心たっぷりだった。
もしもリゼットが無遠慮に距離を詰めてきたら、すぐさま逃げ出そうと決めていた。
けれど意外にも、その日のリゼットは黒猫から適度な距離を保ち、触れようともしなかった。
おそらく黒猫が警戒していることに気づいて、あえてそう振る舞ったのだ。
黒猫相手に語りかけるその言葉の端々からも、気遣いのできるリゼットの人柄がうかがわれた。
その上リゼットが、
「旦那様は本当は親切な方なのではないかと思っているの。例えばこのお部屋。家具もカーテンも壁紙も、女性好みのものに新調されてる。過ごしやすいようにという気遣いが感じられるわ」
などと言い出したものだから驚いた。
確かにリゼットの部屋は、結婚が決まってから家具や壁紙を一新している。だがそれはアルベールの発案ではなく、セバスチャンとマーサから強い進言があったからだ。
幼少時より世話になっている二人から、「絶対にそうなさるべきです!」と断言され、拒む理由が思い浮かばなかったからだ。ちなみに、実際に模様替えの指揮を取ったのはマーサだ。
二人の言うとおりにして良かったとアルベールは思う。同時に、本当は自分の手柄ではないということに、少しだけ良心がチクリとした。
リゼットはアルベールに対して怒る権利があった。なのに泣きわめくことも罵ることもせず、かと言って多くを期待するでもなく、ただただアルベールの良いところを見つけ、一人で満足しようとしている。
それはリゼットなりの処世術でもあったのだが、アルベールがリゼットを好ましく思うきっかけとなった。
だからアルベールは、二日目の晩も黒猫の姿でリゼットの部屋を訪ねた。
また黒猫に会えることを期待している様子のリゼットを、がっかりさせたくないという気持ちもあったけれど、きっとそれだけではなかった。
「少しだけ、撫でても構わない?」
リゼットは律儀な性格であるらしい。猫に触れるのにわざわざ了解を取ろうとした。
本音を言うと、あまり触られたくはなかった。
子どもの頃、同じく子どもだった次兄と姉に、玩具のような扱いを受けたことがある。ボールのように乱暴に投げられ、逃げようとすれば容赦なく尻尾を引っ張られた。
怖くて悲しくて、それ以来、猫の姿でいる間は自分の部屋に閉じこもるようになった。
接するのは事情を知るごく限られた使用人達。彼らは黒猫が本当は王子だと知っていたから、遠慮して体に触れようとはしなかった。
触られることに慣れていないし、いい思い出もない。
けれど、期待でキラキラと目を輝かせるリゼットを前にすると、嫌とは言いづらかった。
案の定、背中をそっと撫でられただけで、アルベールは硬直してしまった。
それを敏感に感じ取ったリゼットがサッと手を引き、「今日はもう触らないわ」と言ったときにはホッとした。
同時に、リゼットへの信頼感も増した。
明日もまた、ほんの少しくらいなら触らせてあげてもいいか、と思うくらいには。
その後もアルベールは、毎晩黒猫の姿でリゼットの部屋を訪れた。
リゼットのお喋りに相槌を打ち、少しだけ撫でることを許し、自分の部屋に戻る。
リゼットはよく、アルベールの話をした。
「旦那様はスクランブルエッグがお好きみたい」
「反対に、熱いスープはお得意ではないみたいね」
どちらも正解で、なんとも言えないくすぐったい気持ちになったが、なぜか悪い気はしなかった。
自分も真似をして、朝食時にリゼットをこっそり観察してみたりもした。リゼットほどの観察力がないのか、好き嫌いの把握はいまいちできなかったが。
ただ、何を食べるときも機嫌良さそうに「美味しいですね」と口元を綻ばせる姿は好ましかった。
頭や背中を撫でられることにも次第に慣れてきた。リゼットの撫で方はとても穏やかで、触れられて緊張することもなくなった。むしろ、ゆったりと背中を撫でられると気持ちが落ち着いた。
アルベールがリゼットの部屋で過ごす時間は毎日少しずつ延びていき、触れ合う時間も少しずつ長くなっていった。
そんな日が十日ほど続いたある晩、転機が訪れた。
「あ、あのね、猫さん。少しだけ、抱っこ……してもいい?」
リゼットがソワソワした様子で切り出したとき、アルベールは、少しだけならいいかと許した。
すでに、リゼットに触れられることは嫌なことではなくなっていた。
「ふふ、真正面から見ても美人さんね」
前脚の付け根に両手を差し入れられ、正面から抱き上げられ、うっとりと見つめられる。その距離の近さに鼓動が早くなる。
アルベールが己の迂闊さに気づいたのは、その直後だった。
「あら? あらあらまぁまぁ、猫さんたら男の子だったのね!」
みょーんと体の前面をさらけ出した無防備な体勢。リゼットの視線が向かう先は後ろ脚の間……。
(……み、見られ……!)
気づいた瞬間、かあぁっと頭に血がのぼり、考えるより先に体が動いていた。体を丸め、リゼットの手から逃れるべく激しく身をよじる。
自由になったのと、「痛っ!」という声が聞こえたのはほぼ同時だった。
ハッとして見れば、リゼットの左手の甲に大きな引っ掻き傷ができていた。白い肌に真っ赤な血が滲んでいく。
さぁっと血の気が引いた。
リゼットを傷つけてしまった。
怯えられる。怒られる。嫌われてしまう――。
目の前が真っ暗になり、耳もヒゲも尻尾もしょんぼりと力をなくした。
けれどリゼットの反応は予想したものとは全く違っていた。
「たいした怪我じゃないから気にしないで。本当に大丈夫よ」
痛いだろうに、文句一つ言わず微笑んで見せる姿に居ても立ってもいられず、リゼットの膝に飛び乗った。
傷を舐めようとしたが阻止されてしまい、慰めになると言われて、そのままリゼットの膝の上で丸くなった。
「名前を付けてもいいかしら? ……アル、というのはどう?」
そう言われたときにはギクリとした。もしや正体に勘づかれたのかと焦ったが、そんな様子はない。むしろ、「アル」が「アルベール」の愛称だということに気付いていないのではないかとさえ思われた。
なんとも複雑な気持ちでその名を受け入れた。
こうして、本名アルベールの愛称が、黒猫の名前になった。