呪いが解けるまで①
黒猫視点の番外編です。
本編の振り返りがメインですが、エンディング後のイチャイチャ(もふもふ)も少しあります。
「あの、旦那様……今夜、駄目でしょうか……?」
ある日の昼下がり。アルベールの執務の休憩を兼ねたティータイムでのこと。
夕方には仕事が一段落つきそうだ、と何の気なしに言った途端、妻のリゼットがパアァと顔を輝かせた。そして、もじもじしながら切り出した。
「こんなことを言うと呆れられてしまうかもしれませんが……私、もう限界なんです。だって一週間もご無沙汰なんですもの……」
リゼットが恥ずかしそうに頬を染める。
確かにここ数日、アルベールの仕事が立て込んでいたり、夜会に参加したりで、夫婦でゆっくり過ごす時間が取れていなかった。部分的に呪いが解けたのは良かったが、その分アルベールは忙しくなってしまったのである。
「アルの温もりが恋しくて……。駄目、ですか……?」
リゼットが瞳を潤ませ、上目遣いに見つめてくる。
愛する妻からこんなふうに求められて拒めるはずがない。もとより拒むつもりなど、アルベールにはないのだが。
「駄目なわけないだろう。そうだな、今夜は久しぶりに二人でゆっくり過ごそう」
そう微笑みかけると、リゼットがうっとりとうなずいた。
「にゃふ……」
そういうわけでその日の夜更け、アルベールはリゼットの膝の上にいた。もちろん黒猫の姿で。
いつもは日が暮れて黒猫姿になるとすぐに、リゼットが解呪のキスをしてくれる。
けれど猫好きのリゼットのため、時折こうして黒猫姿のまま過ごす日を設けているのだ。
ちなみに、別途、普通の猫を飼うという案は、アルベールが即座に却下した。妻の関心を他の猫に奪われるなんて耐えられない。黒猫はやきもち焼きなのである。
それに、アルベールは黒猫の姿でリゼットに撫でられるのが、案外嫌いではない。いや、正直に言うと実に心地よい。
今も猫用ブラシでブラッシングされながら、黒猫の体はふにゃりと弛緩しきっていた。
「ふふっ、とっても気持ち良さそうね」
「にゃ……」
(ここは楽園……俺の妻は女神……)
そんな愛しい妻に、新婚早々「君を愛することはできない」などと酷い言葉を投げつけてしまったことを、アルベールはいまだに後悔し続けている。
はじめから呪いのことを打ち明けていれば、リゼットを泣かせることはなかったのに、と。
けれど、あの当時のアルベールにはどうしても信じられなかったのだ。
呪いゆえに実の母にすら忌み嫌われた自分を、初対面の妻が受け入れてくれることなど――。
自分が他の人と違うと気付いたのは、物心がついてまもなくのことだった。
太陽が沈むと同時に猫へと姿を変え、朝日が昇ると同時に人の姿へ戻る。
周りにそんな人間は誰一人としていなかった。
「どうして僕だけみんなと違うの?」
当時乳母をしていたマーサに尋ねると、マーサは困ったように眉を下げた。
その数日後、珍しくアルベールの部屋を訪れた父が、王家の呪いについて話してくれた。
自分は呪われている。
その事実は、幼いアルベールにとって、とても恐ろしいことに思えた。
と同時に、だから母上は自分を嫌うのだと、ようやく理解した。
アルベールの母親は、自らが産んだ子が呪われていたという事実を、どうしても受け入れることができなかった。
心構えがあれば違っていたのかもしれない。
もちろん、王家の呪いのことは第一子の妊娠中に知らされていた。けれどそれから十五年が過ぎ、その間に何事もなく三人の子を産んだことで、呪いに対する意識はほとんどなくなってしまっていたのだ。
間が悪いことに、アルベールが生まれ落ちたのは深夜だった。
長く苦しいお産の末に、羊水に濡れた黒い子猫を見せられた母は、恐慌状態に陥った。
結局アルベールの母は、自身の心の平穏を保つため、我が子の存在を「なかったこと」にした。
抱きしめることも、名前を呼ぶこともしない。すぐそばにアルベールがいてもまるで見えていないかのように振る舞い、話しかけられても一切応えない。
幼いアルベールの心に、大きなひび割れができた。
二番目の兄と姉は、母を真似してアルベールをぞんざいに扱った。
国王であった父は多忙で、子ども達に構う時間があまりなかった。たまに子ども達のために時間を使うとしても、アルベールの優先順位は兄弟の中で最も低かった。
家族の中で、一番上の兄とその妻だけがアルベールを気にかけてくれた。
とはいえ、アルベールが物心ついた頃には長兄はすでに成人していた。王太子として忙しくしており、アルベールを案じつつも割ける時間は多くはなく、心のひび割れを埋めてくれる存在にはならなかった。
それでもアルベールは、兄夫婦に対しては恩義を感じていた。
だから兄夫婦から何度も説得を受けて拒否しきれず、最後には妻を迎えることを了解した。
「あのお嬢さんなら……リゼットさんならきっと、アルベール殿の呪いのことも受け入れてくれると思うのです」
兄嫁のエレノーラは熱心にそう言ったが、アルベールは全く期待していなかった。
事前にこちらから呪いのことを説明しておこう、と長兄が提案してくれたが、自分で話すからと断った。
本当は妻に打ち明けるつもりなどなかった。話したところで、受け入れられるとは到底思えなかったからだ。
自分には人を愛する資格も、愛される資格もない。
まともな夫婦になることを期待されても、それに応えることはできない。
だからはじめに、はっきりと告げた。
「すまないが、君を愛することはできない」
酷いと怒り出すか、それとも泣き出すか。
いずれにしても面倒なことだと思っていたら、妻となった女性、リゼットの反応はそのどちらとも違っていた。
若草色の凪いだ瞳が、妙に気になった。
それでその夜、黒猫の姿でこっそり、バルコニーからリゼットの部屋を訪ねたのだ。
姿を見せるつもりなんかなかったし、ましてや部屋に入り込むつもりなどカケラもなかった。
けれど、
「私ね、新婚の旦那様に初夜をすっぽかされてしまったの。代わりに猫さんが話し相手になってくれたら嬉しいのだけど……」
そう言われてしまうと、すっぽかした張本人としては罪悪感を覚えずにはいられない。
無視することができず、アルベールは初夜の夜、新婚の妻の部屋に黒猫姿で足を踏み入れた。
アルベールの呪われた運命が、静かに動き始めた瞬間だった。