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11 身に回る毒

 リゼットが公爵邸に帰り着いたのは、日が落ちた直後のことだった。

 帰宅の挨拶がてら、伯爵家での夜会のことを話したかったのだが、アルベールに会うことはできなかった。


「申し訳ございません、奥様。旦那様はただいまお仕事中で、手が離せないとのことでございます」

「そう……。お仕事の邪魔をしてはいけないわね。手が空いたらお目にかかりたいと、旦那様に伝えてもらえる?」


 聞き分けよく引き下がったが、帰宅と同時に部屋に駆け込んできた黒猫と共に夕食を終えてもまだ、アルベールから声はかからなかった。


「はぁ……」


 思わず溜息がこぼれる。

 膝の上で黒猫が、「ニャア」と気遣うような声をあげた。


 初めて抱いて寝て以来、黒猫は毎日リゼットと一緒に就寝している。

 いつも朝には姿を消しているのが少し残念だが、ふわふわで温かな黒猫を抱いてベッドに潜り込むのは至福のひとときだ。きっと今夜も一緒に眠りについてくれるだろう。それを思っても、リゼットの気は晴れない。


 じっと見上げてくる黒猫にぎこちない微笑みを返し、リゼットはもう一度溜息をついた。


「旦那様はまだお仕事なのかしら……」


 リゼットが帰宅してから、ゆうに三時間は経っている。

 これだけ待っても手が空かないなどということがあるだろうか。


『そんなの嘘に決まってるじゃない』


 脳裏に響いたミシェルの声を追い出すように、リゼットは首を振った。

 けれど心に刺さった棘は抜けず、リゼットはチクチクとした胸の痛みに眉をひそめた。


(本当にお仕事なの……? いいえ、そもそも旦那様はこのお屋敷の中にいらっしゃるの……?)


 思えば嫁いできてからの二ヵ月、日が暮れてからアルベールと顔を合わせたことは一度もない。

 いつも朝食の場には姿を見せるが――。


『よそに愛人を囲っているんじゃないの?』


 棘から染み出た毒が、ジュクジュクとリゼットの全身に回っていく。

 

(そういえばこの数日、旦那様は寝不足の様子だったわ……。もしかして、夜の間は出かけてらっしゃるの……?)


 本当に愛する人のもとへ。

 そしてその愛しい人と夜を過ごしているのでは――。


 ミシェルのまとっていた甘い香水の匂いが甦る。

 胸の奥から込み上げる吐き気のような息苦しさに、リゼットは胸を押さえた。


「ニャーウ、ニャーウ」


 黒猫が何度も鳴き声をあげるが、それに応える余裕はない。

 時計に目をやる。就寝するにはまだ早い時間だ。

 黒猫をそっと隣のソファに下ろし、リゼットはふらりと立ち上がった。


「ごめんなさい、アル。私、旦那様のお部屋に行ってくるわ。どうしても、今すぐにお会いしなければならないの」


 本当に忙しいのなら、話は明日でいいのだ。ただ、一目姿を見ることができればそれでいい。

 アルベールが屋敷の中にいることを、確かめずにはいられなかった。


 静かな廊下を、アルベールの部屋に向かって歩く。

 黒猫がミャアミャアと騒ぎながらまとわりついてきたが、リゼットは足を止めなかった。


 アルベールの部屋の扉の前で、リゼットは息を整える。


「旦那様、リゼットです」


 意を決してノックしたが返答はなかった。

 二度、三度とノックを繰り返し、耳をそばだてるも、室内からは何の物音もしない。人のいる気配は感じられなかった。

 息苦しさが増していく。


 そこへ、慌てた様子でセバスチャンが駆けつけてきた。


「奥様、申し訳ございません、その、旦那様はまだお仕事中でございまして……」

「何度も声をおかけしたけれど、お返事はなかったわ……」


『ちゃんと確認した方がお姉様のためだわ』


 冷たくなった手をぎゅっと握りしめ、リゼットはセバスチャンを真っ直ぐに見据える。 


「……セバスチャン、正直に答えて下さい。旦那様はお部屋に……いえ、このお屋敷にはいらっしゃらないのではないの? 毎晩、どちらかにお出かけになっているのではないの……?」

「いえ、決してそのようなことはございません。旦那様はお屋敷の中にいらっしゃいます」


 セバスチャンの言葉に、リゼットはきゅっと眉を寄せた。


「……ではどちらにいらっしゃるのですか? 本当にいらっしゃるというのなら、今すぐお目にかかりたいの。どうしても。ほんの少しの時間でいいのです……」

「それは……」


 セバスチャンが口ごもる。

 祈るように見つめるリゼットの前で、セバスチャンは足元に視線を彷徨わせ、それから深く腰を折った。


「申し訳ございません、奥様。私の口からは申し上げられません」


 その答えに、リゼットの最後の希望が潰えた。


「……そう。わかりました」

「奥様、どうか明日の朝、旦那様とお話を……」


 呼びかけるセバスチャンには応えず、リゼットはふらふらとした足取りで自室に戻った。


 扉を閉め、ソファに身を沈めた途端、こらえていた涙が溢れ出した。


「ニャーオ! ニャーウ!」

「アル……」


 膝に飛び乗ってきた黒猫を抱きしめても、涙は止まらない。


 やはりアルベールは屋敷にはいないのだ。

 突きつけられた事実に、リゼットの心が凍りついていく。


「期待なんかしてはいけなかったのに。旦那様ははっきりそう仰ったのに……」


 『君を愛することはできない』と、そう言われていたのに。

 けれど共に食卓を囲む時間は穏やかで。

 アルベールが口元を綻ばせると胸が温かくなって。 


「私が馬鹿だったのよ、アル……」


 黒猫が、慰めるように何度もリゼットの手に頭を擦りつける。

 ふわふわと温かい感触に、さらに胸が締め付けられる。


 期待して叶えられないのは辛く悲しい。

 そのことを知っていたはずなのに。


「それなのに私、いつの間にか旦那様のこと好きになってしまった……」


 黒猫が動きを止めた。

 アルベールと同じ金の瞳を丸くして、じっとリゼットを見上げる。


「アル、大好きよ。でもあなたも、私とずっと一緒にはいてくれないのね……」


 夜の間しか姿を見せない黒猫。

 夜な夜な愛する人のもとへ出かけていく夫。


(私には誰もいない。誰も……)


 新たな涙が頬を伝う。


「ミャウ……」


 黒猫が力なく鳴いた。

 そっとリゼットの胸に前脚を置いて後ろ脚で立つ。

 涙を拭うようにリゼットの頬に頭を擦りつけ、ちろりとリゼットの頬を舐めた。


「アル……」


 一生懸命に自分を慰めようとする黒猫の姿に、さらに涙が溢れる。

 その涙を、黒猫がチロチロと舐めて拭っていく。

 そしてその小さな舌が、リゼットの唇の端に触れたときだった。

 

 突如、黒猫が眩い光に包まれ、リゼットはぎゅっと目をつむった。


 が、先ほどよりも柔らかな感触を頬に感じ、おそるおそる目を開く。

 そして息をのんだ。


 焦点が合わないほど近い距離で、金色の瞳がリゼットを見つめていた。

 猫ではない、人間の男の瞳が。


「すまない、リゼット、どうか泣かないで……」


 切なくそう言って、アルベールと同じ顔をした男は、リゼットの両肩に手を置き、ぺろりとリゼットの頬の涙を舐め取った。

 リゼットは目を見開いて固まる。状況に理解が追いつかない。


「え、あ……」

「不甲斐ない俺を許してくれ、リゼット……」

「あ、あ、アル……? え、旦那、様……?」


 どうにか声を絞り出すと、男が動きを止めた。


「え? 喋れてる……!?」


 自身の口を手で覆い、その手をまじまじと見つめてから、ぽかんと口を開ける。


「人の姿に戻ってる……信じられない……。これはいったい……まさか呪いが解けたのか……?」

「あ、あの……」


 両手で顔を覆い、リゼットはか細い声で口を挟んだ。


「あ、アルでも旦那様でもいいので、と、と、とりあえず服を着て下さい……」


 リゼットに覆い被さるようにソファに乗り上げていた男は、自身の素っ裸の体を見下ろし、それから真っ赤な顔で固まるリゼットを見て――。


「うわああああああぁぁぁぁっ!?」


 夜の公爵邸に、情けない男の悲鳴が響き渡った。

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