10 刺さった棘
「それで、公爵家での生活はどうなの? お姉様」
三日後、リゼットは実家の伯爵邸の客間で、心配顔のミシェルと向かい合っていた。
「ええ、良くして頂いているわ」
ゆったりとした仕草でティーカップを置いてから、リゼットは微笑んだ。
けれどミシェルの表情は晴れない。
「無理してない? 本当は冷遇されているんじゃないの? 今日だってそんな地味な格好をして……」
ミシェルは値踏みをするように、リゼットの頭の先から靴の先まで視線を往復させる。
リゼットの今日のドレスは紺色の落ち着いたもの。装飾品はシンプルな真珠のイヤリングとネックレス。
いずれも公爵家に輿入れしてから誂えたものだ。
ハンカチのお返しをしたいと、業者を屋敷に呼んだのはアルベール。選んだのはリゼット自身。
確かに一見すると地味かもしれないが、今日ミシェルが身につけている派手なドレスやアクセサリーよりも、よほど質の良いものだ。
「私が好きで身につけているのよ。それに公爵家で用意して下さるものは、どれも素晴らしいものばかりだわ」
久しぶりに実家で紅茶を飲んでみて、公爵家でマーサが淹れてくれる紅茶の美味しさに改めて気が付いた。
(茶葉の質も、マーサの腕もいいのよね)
マーサに限らず使用人達は皆、主人に似て口数は少ないが有能かつ誠実で、リゼットにもよく仕えてくれている。
それなのに冷遇されているなどと誤解されるのはいい気持ちがしない。使用人達の名誉のためにもはっきりと否定しておきたかった。
「執事も侍女も皆よくしてくれて、何不自由なく暮らしているわ。それに可愛い猫さんも遊びに来てくれるし……」
「猫ですって?」
ミシェルが盛大に顔をしかめたのを見て、リゼットは口を滑らせたことに気が付いた。
ミシェルは幼い頃から動物を、特に猫を毛嫌いしているのだ。
両親はいつだってそんな妹の味方。
だからリゼットは実家にいた頃、どんなに切望しても猫を飼うことを許されなかった。
「あんな汚らしくて生意気な生き物を可愛がるなんて、本当にお姉様の気が知れないわ。おかしな病気でも持っていたらどうするつもりなの?」
「あのね、ミシェルは嫌いかもしれないけど、私は好きなのよ……」
だからもう猫の悪口を言うのはやめてほしいと思うのに、ミシェルの口は止まらない。
「王妃様のお茶会のときだって、お姉様ったらあんな薄汚い猫を抱き上げたりして。皆さん眉をひそめておられたわ。王妃様もじっと見ておられて、わたし、恥ずかしくてたまらなかったのよ」
ミシェルが不愉快そうに唇を尖らせる。
それはルシアンとの婚約が整う少し前、数人の未婚の令嬢達と共に、王妃殿下のお茶会に招かれたときのことだ。
王宮の庭園で開かれていたお茶会の最中、一匹の猫が会場に紛れ込んできた。
いかにも野良猫といった風情の痩せこけたトラ猫は、怯えた様子であちこち走り回った末に、リゼット達のテーブルの下に入り込んで出てこなくなってしまった。
他の令嬢達が悲鳴をあげたり顔をしかめながら猫を遠巻きにする中、リゼットは地べたに膝をついてトラ猫に手をのばした。
引っ掻かれるのも構わずトラ猫を優しく抱き上げ、護衛騎士に託して会場の外に連れ出してもらった。どうか酷いお仕置きはしないで欲しいと頼み込んで。
後日、トラ猫のことが気になり、伝手を頼って問い合わせたところ、王宮の使用人達にエサを貰って元気に過ごしていると聞き、ホッと胸をなで下ろしたものだ。
「猫のことなんてどうでもいいわ。それよりお姉様のことよ」
ようやく話題を変え、ミシェルはリゼットの顔をのぞき込んだ。
「お姉様、アルベール様にちゃんと相手にされているの?」
「それは、もちろん……」
「わたし、お姉様のことが心配なのよ。だって、結婚式のときにお見かけしたアルベール様、ものすごく綺麗なお顔だったけど、冷たい目をしてにこりともされなかったわ。人嫌いという噂は本当みたいね」
「それはただの噂だと思うわ。確かに交友関係はあまり広い方ではないのかもしれないけど……」
それは公爵家の使用人達を見ていて気付いたこと。
公爵邸で働く使用人は、数は多くないものの、皆長く勤めている者ばかりなのだ。マーサの話では、ほとんどの者がアルベールの幼少時から仕えているらしい。
これはアルベールが使用人達から慕われている証拠。本当に人嫌いであれば、そうはいかないはずだ。
「本当かしら。でももしそうだとしたら、よっぽどお姉様に興味がないということにならない? だって、誓いのキスって、普通は唇にするものでしょう? なのに、おでこにだなんて、お姉様がお気の毒だわ」
ミシェルの言葉に、リゼットの胸がツキリと痛む。
「……旦那様はあまり表情の変わらない方だけど、私のことを気遣って下さってるわ」
リゼットはどうにか微笑みを作る。
けれど、ミシェルは納得できない様子で顔をしかめたままだ。挑むように片眉を上げる。
「それじゃあ、妻としてちゃんとアルベール様に愛されてるの?」
「ちゃんと、って……」
ミシェルの唇が歪な弧を描いた。
「いやだわ、決まってるでしょう? 夫婦の夜の営みのことよ」
「……っ」
リゼットは咄嗟に言葉に詰まってしまう。
ミシェルは我が意を得たりとばかりに顔を輝かせた。
「ほら、やっぱり! 結婚して二ヵ月以上にもなるのに、妻に手を出さないなんて信じられないわ!」
「……旦那様は夜はお忙しくされているの。お仕事で……」
思わずうつむくリゼットに、ミシェルは呆れ顔で首を振った。
「お姉様ったらお馬鹿さんね。そんなの嘘に決まってるじゃない。殿方というのはね、愛する女が目の前にいたら抱かずにはいられないものなのよ。ルシアンだってそうだったもの」
勝ち誇ったような笑みを浮かべてから、ミシェルはリゼットに身を寄せ、声を潜めた。
「ねぇ、お姉様。アルベール様、よそに愛人を囲っているんじゃないの?」
ミシェルの纏う甘い香水の匂いが、リゼットを息苦しくさせた。
リゼットは胸に手を当て、ますます顔をうつむける。
愛人がいるのではないか。それは、リゼット自身も疑いつつ、確かめることができずにいたこと。
「そんなこと、ないと思うわ……」
願望を込めた否定の言葉は、小さく震えた。
「絶対に怪しいわよ。もし本当に夫婦円満だというなら、来月のわたしの誕生パーティーには、アルベール様も一緒に参加して下さるわよね?」
手渡された招待状に目を落とす。
ミシェルの誕生日を祝う夜会。そこでルシアンとの婚約もお披露目するのだという。
「旦那様は、夜会には参加されない、から……」
王家主催の夜会にすら出席しないアルベールが、伯爵家の夜会ごときに参加するとは思えない。
「あら、愛する妻の実家の夜会なのよ? この際、ちゃんと確認した方がお姉様のためだわ。参加できないとしたらよほどの事情があるか……」
妻を愛していないからでしょうね。
ミシェルの言葉が、棘となってリゼットの心に深く突き刺さった。