76 武運を祈る乾杯
午後の進行も問題はなく、視界の端から端へとどこまでも長く伸びる国境の壁を目の前に、皆は馬の手綱を引いた。
夕刻の空のもとで赤く染まる石壁は、三メートルを越える高さで、奥行きも同じほどあり、配置につく第三騎士団の者たちの姿が壁上にもある。こちらからは確認できないが、壁の向こう側には堀もつくられている。
国境の壁に沿うように、等間隔に箱小屋も並ぶが、街道に建つ箱小屋とは異なって表側にも壁があり、鉄の扉がついている。国境を守る騎士たちの就寝や休憩、救護室などで、用途にあわせて赤や青などの旗が扉上にかかげられ、風を受けている。
国境の壁と小屋の屋根が同じ高さに建てられているので、それを足場に上で戦闘も可能だ。
一行の前にある小屋は三軒分以上の幅で、扉のない大きな入り口がぽかりと一つあり、そこから特製箱馬車を中に入れて馬を離し、入り口には、いつも目隠しに使っている同色の刺繍のある萌黄色の布を掛け、隊の皆は次々と荷馬車から荷を運んだ。
「三人は、退避していいんですよ」
馬車から降りたエルーシアは、マコンと雑務員二人に声をかけるが、そんな気はないと三人は首を横に振る。
「何年目だと思っていますか。遠征や危険には慣れましたし、ここは安全です」
「ご不便がないように務めるのが、雑務員です」
「私が離れるとマコンさんが困ります。ので、残ります」
雑多に積まれた木箱から自身の名の文字を探し、連絡板を取り出していたクロードは、聞こえた会話にすぐさま近寄って割って入り、用件を述べる。
「では、退避させるのは馬たちと荷馬車だけですね。私は部隊長たちとの会議で出ますが、ジェイにあとを任せますので……あっ、あと、ベラトリの神子は到着していますか?」
「あちらも到着したって連絡はきてたわ」
「問題はなさそうですね」
大掛かりな作戦を前にして忙しいようで、確認事項は済んだと連絡板を手に持って足早に小屋を去り、隊や第三の騎士が入り乱れる中、ルークを探し、相棒の背からサドルバッグを取り外している姿を見つける。
「ルーク。隊の馬は戦闘に巻き込まれないように退避させますが、相棒はどうしますか?他者に任せることは可能ですか」
鎧馬は気性が荒くて懐かない。いまだに騎士たちが近寄れば、歯を剥き威嚇する――飼い葉をもらうときでもだ。
「連れていこうとすれば、蹴飛ばして逃げて、ここに戻るだろうな」
「冬にベラトリの国境にいたときは、どうしてましたか」
「依頼で割り振られた場所が山の麓だったから、マントを被せて放していた」
「ここで放すのは危険ですから……小屋の中に相棒の居場所をつくりましょうか。世話はお願いできますか」
「そうしてもらえたら助かるが、小屋の外でも――」
「いいえ、中です。何かあれば、誰でもいいので気軽に聞いてください」
話は終わりだと背を向け、ジェイを捕まえて、あれこれと指示を追加し、少し離れた場所にある白い旗をかかげた小屋へと向かう。
ジェイは土魔法の使い手に指示をし、荷馬車から干し草を降ろし始め――それに気づいたルークは、サドルバッグを背負ったまま近寄った。
「悪いな、相棒の分だろ。オレが運ぼう」
「おう、頼む。急がないと、馬と荷馬車が夜間進行になっちまうからな」
「馬だけじゃなく、荷馬車も退避させるのか?」
「火炎とか、魔法が当たったら壊れるから当たり前だろ……って、初参加じゃ分からないよな。ここは激戦区になるんだぜ、用心しろよ」
皆でばたばたと作業をこなし、第三の騎士に馬と荷馬車を預け、小屋の中で一息つくのは、日が落ちる直前。
広い小屋の一角に特製箱馬車が置かれ、低い簡素な壁に囲まれた、相棒の居場所も隣に設置された――敷き藁を詰めることはできないが、柔らかい砂が敷かれ、寝心地はよさそうだ。
「神子様の馬車も、小屋に入れるんですね」
「馬車の中は安全だけど、出た瞬間に襲われる危険があるからな。作戦が始まれば、一番に狙われるのはエルーシア様だから、まんま小屋に入れるんだよ」
ぽつりと呟いたロズの疑問を騎士が拾い、ルークも疑問が生まれ、確認したくて会話に加わる――エルーシアの安全に関わることなら、情報は必要である。
「エルフからの贈り物らしいが、開かない以外にも何かあるのか?」
「聞いてないのか?物理攻撃は受けないし、攻撃魔法も弾くから安全なんだ……昔、ジェイが火炎をぶつけたら、火の粉になって落ちたぞ」
「あの火炎が……でしょうか?」
「あの火炎がだ。で、エルーシア様が乗ったままだったから、ジェイはデルミーラ様に蹴り殺された」
「……生きてますよ」
「回復薬二本飲んで、一晩寝たから復活したんだ。じゃなきゃ、あれは死んでる。二人も覚えとけよ、エルーシア様に攻撃したら、次は隊長が殺しにくるぞ」
「なんでジェイは火炎を馬車に放ったんだ?魔物が張りついていたのか」
「いや……制御を間違えたって言ってたが、試したかったんだろうな」
夕食のメニューを気にかけ、マコンの後ろに張りつくジェイに、ロズは不可解だと視線を向け、ルークは険しい視線を向けた。
夕食の時間になり、土魔法で壁際につくった細長い棚にスープの深鍋と飲み物のピッチャーを並べ、二台のテーブルに大皿をのせて、昨夜に続き、今夜も皆でテーブルを囲む――小屋が広く使え、一台のテーブルを占領する隊長も不在だからだ。
エルーシアは側に座るようルークとロズに声をかけ、テーブルの端に腰を下ろし、二人は向かい合うように座った。
「食事をとりながらになりますが、明日からの作戦の話をしてもいいですか」
「神子様が指揮をとるんでしょうか?」
「具体的な作戦内容ではなく、大まかな説明と注意事項です。ルークは初参加で、ロズも作戦で国境の中央は初めてなんですよね?」
「なんだ、ロズも初めてなのか」
気になることがあれば、いつも近くにいるロズに尋ねる気だったルークが顔を向けると、頷きがすぐに返ってきた。
「自分はまだ、騎士として未熟ですからね。中央は激戦になるので、訓練生や新人騎士の部隊は、国境の端の方に配備されるんです。でも、魔物が集まる以外に、この作戦に何かあるんでしょうか?」
亡国ベテルに癒しの魔力を放つこの作戦は、四年前の冬、年明けにベラトリ王国の神子が亡くなり、世界樹を癒す要請がデルミーラにきたことで計画が始まった。
世界樹のマナの均衡を崩すわけにはいかない。デルミーラはもちろん請けた――そのことを、エルーシアは二人に説明する。
「私が神子になったと公表した直後に、この作戦が決まりました。それまで、アルニラムは春の遠征で、ベラトリは夏に、それぞれ都合のいい時期に癒しの魔力を放っていましたが、亡国ベテルの瘴気を祓うのに、二国から同時に癒すんです」
エルーシアの魔力で、亡国ベテルの瘴気が落ち着く兆しを見せ始めていた。それほどの魔力だと、他国に気づかれるのは避けたい。
だからデルミーラは、世間の目をエルーシアから逸らすために、二国合同で癒す作戦を思いついた。予定より公表を早めることになるが、十六歳なら許容範囲だと考えて――このことまでは、二人には説明しない。知る者は限られている。
「よくベラトリが、春で合意しましたね」
ロズは実地訓練が始まったばかりだが、北東の街の騎士科に通っていた。隣接する国だから、それなりに情報は持っているだろう。
同意するように頷くルークも、ベラトリの内情をよく知っている。政治など詳しく知らなくても、聞こえてくる噂は酷いものだったからだ。
「世界樹を癒す遠征を請け負うことに、デルミーラは三つの条件をつけましたが、そのうちの一つです。ベラトリは条件をのむ選択しかありません、神子が不在ですから。それで私は、四年前から三日間、癒しの魔力を国境の中央、この小屋の屋根から放っています。ベラトリでも同時に、あちらの国境から、新しい神子が放ちます」
作戦が始まったとき、亡国ベテルとベラトリとの国境は、デルミーラとベラトリの癒し手が担当していたが、二年前の冬、ベラトリでも神子が誕生した。
新しい神子に務めを指南するため、その年もデルミーラは遠征に出発し――作戦終了後の帰路で、この世を去った。
「今の季節は南から風が吹きますので、私は風魔法を発動せずに、魔力の大半を癒しに使い、自然の風に乗せて亡国ベテルに放ちます。自然の風なので、巻く瞬間や止む瞬間が生まれて、私の周囲にいると魔力酔いを起こすんです」
「防御の腕輪を着けるんですか?」
エルーシアは頷く。南街道にある三国国境での作戦に使用した、他者の魔力が体内に入るのを防ぐ魔道具だ。
「もし討伐で重傷を負ったら、腕輪をはずしてください。魔力酔いを起こしますが、出血や毒の進行が止まりますので。また、腕輪をはずして倒れる者がいたら、この小屋に運んでください。雑務員に対処方法を伝えています」
「布しか掛かってないが、作戦中の小屋の入り口は誰が守るんだ、第三か?」
「いえ、あの……騎士隊の皆は知っていることですが、他言しないと約束してもらえますか」
クロード以外の隊員は、皆が小屋の中で食事中だ。今現在、誰も見張りに立っていないのは、第三の騎士が周囲に多くいるからだろうが、激戦だと告げられる作戦中の安全が気になったルークが尋ね、エルーシアの言葉にロズも一緒に頷く。と、掛けてある布の効力で、小屋は安全だと説明される――糸と刺繍に細工があるのだ。
「癒しの魔力を放った直後は、魔物よけも効果がないと聞いたぞ」
「あの布はよけるわけではなく、魔物や瘴気とか、放った魔力の侵入を防いでます。第三騎士団には、クルルの存在が小屋を安全にしていると説明しています。使い魔を詳しく知る者はいませんので」
「瘴気も防ぐんですか、凄い魔道具ですね。秘密なのは、発表を控えているんでしょうか?」
「いえ……偶然の産物なので、同じ品は製作できないんです」
初めてカティを館に招いたとき、大量の魔石と魔石の粉に興奮して、お茶をお願いしに部屋を出たわずかな間に、粘り気のある真っ黒な液体を生み出していた――そして、扉をあける音に驚いてこぼした。
慌てて椅子に掛けてあった布で拭き取り、黒い染みが広がった露草色のショールを見て後悔し、少し考えて、あとで燃やすつもりでブリキ缶に仕舞った。
帰宅するカティを見送って部屋に戻ると、ブリキ缶は消え、ティーセットを下げたついでにハリエットが片付けたかと考え、尋ねにキッチンに入ると、館の使い魔がショールの糸をほどいていた。
デルミーラに相談したら、放っておけと言葉が返ってきたが、複数の魔石の粉が溶けた液体を吸い込んでいる。何が起こるか分からず、気になって観察することにした――きれいに解いた糸は束ねられ、乾くと針金のように硬かったが、使い魔はその糸で難なく刺繍を施したのだ。
「それで仕上がったのが、あの掛け布なんです。カティは何を配合したのか覚えてないらしくて、再現が難しいんです」
「刺繍糸の色が違いますが、染めたんでしょうか?」
「不思議なんですが、仕上がると、布と同色に変化しました。完成と同時に、普通の刺繍とは違うと知らせるように」
「使い魔相手じゃ、何をしたのか説明も聞けないな」
自然とルークの視線はクルルに向かい、ロズも続いた。いつもエルーシアにべったりしているのに、今夜は相棒の背で丸くなっている――もちろん、小さい姿でだが。
クルルの行動は、分かるようで、いまいち分からないことが多い。紹介で意思の疎通は可能だと告げていたが、ただの生き物でペットだと説明した、クロードの言葉のほうが理解できるかと二人は思う。
「クルルさん、今夜は拗ねてますか?食事もとらないで寝てますよ」
「まだ満腹のはずです。拗ねているのは……私が避けているのが分かっているんです」
「避けているのか?」
「村で一晩中……生態図鑑の、紅栗鼠の三行目を読んでください」
エルーシアの眉が動き、昼前までの不機嫌そうな表情を思い出したルークは、話題を戻すことにした――嫌なことは与えたくない。
「あの刺繍も、ただの模様だと思っていたが、魔道具ならエルフの魔法文字なんだな」
「何が書かれてるか分かれば、再現できそうですね」
「私にも、模様にしか見えません。正直なところ、魔道具と呼んでいいのかも……不明ですね」
危険な遠征中、クロードは何度か昏睡時の安全は約束すると口にしていたが、就寝用の小屋表にこの布を掛けるからだろう。
ただの目隠しではなかったのだ。が、説明を聞けば聞くほど謎が深まる、不可解な布である。
三人が同じ思いで入り口の掛け布を見つめていると、クロードがめくって戻ってきた。
いつものようにエルーシアに寄り添うので、ロズが木箱をずらして座る空間をつくる。
「ようやく解放されました。空腹なんですが、私の分も残っていますか?」
「会議では食事が用意されてるんじゃなかったの」
「館とマコンの料理を食べ慣れていたら、あれは喉を通りませんよ」
「副料理長と呼んでくださいな。クロード隊長の分も取ってありますよ」
クロードも腰を下ろし、目の前に料理を盛った皿が用意されると、雑務員の二人が皆にワインの入ったグラスを配った――武運を祈る、乾杯のグラスだ。
魔力上げを始めてから、魔法の操作に集中できるように、ルークは酒を口にせず、いつもレモン水やコーヒーを飲んでいたが、グラスを受け取ると皆と同じくかかげた。
このあと、魔力と剣の指南があるが、一杯で集中力を失うことはない――だから、エルーシアの無事を祈るために。背中を守る皆の武運のために。
「皆の働きを信じていますよ。明日からの三日間を、無事に乗り切りましょう!」
「「「おう!」」」
設定小話
国境の壁が三メートルほどの高さしかないのは、討伐中に落ちたときのためです
だからベテル側には、魔物が越えられないようにと堀がある
で、訓練生だったロズはそちら側へと落ちた……骨折で済んだのは、運がいいから?




