73 炎の道
ルークは吐き気が込み上げて、震える手で口もとを覆った。目の前が暗くなる気がして、騎士たちの輪から離れ、まばらに生えている草の上に腰を下ろす。
三国国境で、クロードがつらそうな顔で語っていた話の詳細が、胃を大きくうねらせたのだ。食欲を失うのが理解できる。
日々重ねられる柔らかな手、価値のある人の手、皆が守り続ける手――愛しい人の手の酷いありさまが、暗くなった視界にちらつき、冷や汗がにじむ。
五つであったエルーシアをそんな状態へと追い込んだオアマンドへの憎しみが、今さらながらに増加し、体の内側が冷え、左脇腹に痛みが走り、顔を歪めて胸もとで拳を握る。
「俺らは、いつ何があるか分からないだろ?だから正規隊員は、同じ部署に配属できないんだ」
「遠征で長期留守にするし、複数同時に引退……なんてこともあるからな」
「俺は、神子の館の門前警備に配属されてるんだぜ」
「隊長の下につくなら、ロズは――」
騎士たちは早くも衝撃から抜けたか、何事もなかったかのようにロズに騎士事情の説明を始めたが、ルークには無理だった。気の晴らし方は、まだ身につけていない。
そこへアインが近寄り、顔がよく見えるよう正面に腰を下ろした。
「ずいぶんと、クロードもあの子も気を許しているが、信頼していいのか?」
「何をもって信頼されてるか分からんが、守りたい気持ちは揺るがないぞ。半獣人だから、この言葉も信じられないだろうがな」
「その偏見はない。獣人のベナットを隊に入れたのは、誰だと思っているんだ。領内にも獣人や半獣人の騎士はいるし、身体強化魔法の使い手には助けられている……側にいる気なら、あの二人を裏切るなよ」
睨みつけるアインの瞳がぎらりと光るが、かすかな足音を拾ったルークは厩舎に視線を向けた。クロードのエスコートで、エルーシアが戻ってきたのだ。
自身の覚えていない悲惨な過去を聞いても、衝撃はどこへ隠しているのか、いつものように微笑んでいる。
「アイン。説明の前に、ちょっと試してみるわ。もし上手くいかなかったら、別の説を考えないといけないから」
「助かる。だが、危険はないように頼むぞ。国境での大事な任務の前に、怪我はしてほしくないからな」
厩舎内で拾ったのか、クロードは薪のような木の棒の先に火をつけ、少し離れた場所に置いた。
ルークとアインは立ち上がり、騎士たちも集まるが、エルーシアは近寄りすぎないよう皆に注意する――初めて行う操作だ。集中する以外にも、被害が及ばないように気をつける必要がある。
地べたにある松明のような炎に右手をかざし、視線を空に向ける――雲は少なく、満月を過ぎて色味を薄くした青白い月が昇り始め、金の月はまだ姿を隠している。頭上には星が瞬いているだけだ。
深く息を吐いたエルーシアは、炎にかざしている右手を空へと上げながら、想像を引き出す言葉を呟く。
「炎の道を」
その刹那、炎は木の棒から引き離されて空に打ち上げられ、星々の中へ吸い込まれるように消えた――成功である。
風魔法で炎を操ったのは、この方法で当たりのようで、アインに説明できることでエルーシアは胸を撫で下ろしたが、炎と同時に、目撃した皆の冷静さも消し飛ばしたらしい。
「まさか、たった一度で成功させるのか」
「適性がなくて、なぜ簡単に操るんだ」
「ちょっと、今のはなんでしょうか」
「エルーシア……様、攻撃魔法にしか見えないぜ」
驚きから頬を引きつらせ、ざわつき、言葉を漏らす中、ぽつりとクロードも呟く。
「恐ろしい生き物ですから……」
※ ※ ※ ※
「大気の中には、物が燃えるのに必要な、酸素という気体があります。それを寄せ集めて炎の道をつくり、飛ばすように操るんです。風魔法で操っているから、火の魔法のように空中に留めて置くことは、たぶん無理ね。気体を操るだけだから、攻撃魔法に分類されないみたいです」
第三の騎士が食事を終え、皆で倉庫に戻り、明日も朝が早いマコンや雑務員たちが隅に張ったテントに姿を消したあと、テーブルを囲んでエルーシアの説明が始まった。が、アインを筆頭に、皆の顔は不可解だと曇る。
「留まらない……だから引き寄せて、腕を中継して、弾き飛ばした?一成分だけを操ることは可能なのか?」
「大気でマナと瘴気のほかなんて考えたことないぞ。風以外に何があるんだ」
「難解ですよ。意味が分かりません」
「危険な魔法ではない、ということですか?エルーシア、もう少し分かりやすく説明を」
エルーシアは、テーブルの端に片付けられた食器から小皿を取ると、見えやすいようにと中央に置き、次にナッツの下にある敷紙を抜き取り、くしゃりと丸めて小皿に載せ、クロードに頼んで火をつけてもらう。と、サラダの入っていた空のガラスボウルを被せた。
何が始まったのかと皆が注目する前で、紙クズが燃え尽きる前に火は消え、煙が漂う。
「大気には、目に見えませんが、世界樹のマナや瘴気のほかにも、酸素や窒素などの気体が存在しています。呼吸で体の内に入れているのも酸素です。酸素がなければ、物が燃えることも呼吸をすることもできません。今この火が消えたのは、ガラスボウルの中の酸素が足りなくなったからです。見えませんが、存在するものだと理解してください。理解があれば操れます」
難解だと口にしつつも、顎を撫でて考えを巡らせていたロズは閃いた。
「あっ、紅葉の熊を倒したときの風魔法。あのときも、酸素ってのを操ってましたよね」
「あれは逆の操作になりますね。窒素で膜を張ってから酸素を抜いて、このガラスボウルの中のようになったんです。それで窒息を……」
「酸素のほかに、窒素……があるんですね」
「ああ、あれの逆なんですね。抜くのではなく、集めて軌道をつくって飛ばすと……エルーシアが操る分には危険はなさそうですが、アイン隊長はできそうですか?」
「訓練するしかないな」
閃きから理解が広がるのか、クロードとアインは納得顔をするが、理解に辿り着けない者のほうが多い。ルークも眉間にシワを寄せたが、すぐさまジェイに肩を叩かれた。
「深く考えるな。幼いころから神子の館に引きこもっている本の虫と、ずっと相手していた二人だぞ。ついていけるロズのが変なんだ」
「……本の虫」
「神子の館だぞ。絵本じゃなく、専門書や文献ばかりだぜ。それに……あれだ……うう」
説明の途中で言葉が出なくなったジェイを見て、一つの言葉が頭を過り、ルークは納得して頷き、肩を叩き返す――転生者の知識だ。この場に知らない者がいて、破れない誓約書の効力で発言ができなくなったのだ。
一介の冒険者には知らされたが、正規隊員の中に知らない者がいる。不可解だと騎士たちに顔を向けると、ぽそぽそと会話をしていた。
「エルーシア様は五つで、これを理解していたってことだよな」
「魔力暴走でも理解は必要なのか?」
「理解と制御がないから暴走するんだぞ。でも、想像は必要だよな」
「想像だけで五十メートルも操れるのか」
「祖母さんから何か聞いてたんだろ、風読みの民だぜ。風を研究しているんだ、大気にも詳しいはずだろ」
ルークの視線を追って顔を向けたジェイは、まずい流れだと割って入り、それならと皆が納得した。後継者として学んでいた息子嫁を亡くし、孫娘を育てながら知識を託したんだろうと。
現に祖母の資料はエルーシアへと残され、祖母の存命中は、後継者として育てられていたのは明白。研究する村から離れることのない風読みの民は、皆が女性だからだ。
癒しの魔力がなければ、デルミーラに引き取られてなければ、神子に選ばれてなければ――風読みの民になる未来があったか。
説明を終えたエルーシアは、手のひらに視線を落としながら皆から離れ、ぽそりと呟き、拾った愛しい人の声に、ルークは思わず息をのんだ。
※ ※ ※ ※
きつい任務を控えた気晴らしの夜であり、騎士たちはナッツや残った料理をつまみながら宴会を再開した。
理解できないことは、深追いしない。考え、訓練するなら、王都に戻ってからだ。悩み事を抱えていたら、雑念から任務に集中できない。
エルーシアは、まだ戻らないクルルを探して倉庫の入り口に佇んでいたが、クロードを呼び、馬車へと誘った。
倉庫の片隅で、ポニーテールにしている理由をアインに説明していたクロードは、軽い気持ちで応じた。
不穏な空気は、すでに消えている。ここ数日、エルーシアは寂しげに微笑んでいるが、過去の話で落ち込んでいるようには見えない。
先ほどの失言に対してのお小言か、脅しの種に関して咎められるかと考えた――どちらも、軽く流せるだろうと。
エルーシアに続いて馬車に乗り込んだクロードは、ミモザが吊るされているのを見て、頬を緩めた。
ドライフラワーに向いている花だから、長く目を楽しませてくれるはずだ。
「ほかにも……あるかな?」
腰を下ろすのと同時に聞こえた問いかけに、クロードは眉をひそめる。思っていた話題とは違うようだ。
「何がでしょうか?」
「兄や私の過去の話で、聞かせたくないからって秘密にしていること……子供じゃないもの、受け止めるわよ。ちゃんと過去と向き合うわ」
「……今は、いいタイミングではありませんよ。国境での任務が控えています。これ以上、蒸し返すのはやめませんか」
気を許し合っている二人しかいない。エルーシアは神子の表情ではないが、静かに微笑んでいる。
「私は、ここで目覚めたのよね。あの晩のことは忘れないわ。あれから、十五年よ」
「ずいぶん前ですが、私も覚えていますよ。幼いあなたが、ぺらぺらと大人のように話すから……戸惑いました」
「あの晩は大人だったのよ。数日の記憶だけ残して、前世の記憶も手放して子供に戻ったけどね……戻ってから二年間の記憶もないのに、あの晩のことは覚えてるって、不思議ね」
「その二年は、忘れたままでお願いします。側にいるのに懐いてもらえなくて、悩みましたよ。背後に立つのもベナットに先を越されて、私にとっては敗北の二年ですからね」
その二年は忘れたままでとエルーシアは小さく笑い、息を深く吐くと、真剣な眼差しをクロードに向ける。
「村を離れて十五年経ったの、今は心も体も大人になったのよ。前世の記憶と折り合いをつけて、過去とも向き合いたいの。お願い、毅然と立つために強くなりたいの。つらくても構わないから、忘れていることや秘密にしていることを教えて」
※ ※ ※ ※
飲み交わす楽しさから指南を忘れたジェイが酔い、ルークの剣の指南をアインが買って出た。護衛の腕を見極めたいのだろう。
しかし炎をまとわせる剣だ。危険だから打ち合うことはせず、声を張りあげて厳しい指示を飛ばす。
「腰を落として重心を固めろ。脇が開きすぎだ。背を丸めるな。手首の動きを意識しろ。軸足の爪先は進行方向へ向けろ!」
ジェイとは異なる細かい指示に、剣を振るルークの動きはぎこちない。汗だくになって肩で息をし、素早さもない。
会話の時を終えて馬車から降りた二人は、何事かと見学しているロズの隣へ並んだ。
「炎をまとわせる訓練を終えて、ぎりぎりの魔力で剣を振りまわしているんですよ。魔力の指南がまだだから、魔力切れしないように維持してます」
告げられる言葉に、エルーシアは慌ててアインのもとにぱたぱた走る――魔力切れ寸前での剣の指南は、無謀でしかない。
設定小話
学校で学ぶ授業は、将来の仕事につながるものが多く、大気の成分や科学は一般的な知識ではありません
騎士科は、酸素が何なのかより、馬の扱いや戦技、法律や地理や魔物を学ぶのが優先です




