40 サイフ公国の神子
箱小屋の隣人たちは早朝の薄暗い中を出立し、夜番の騎士がそれを報告すると、警戒する相手ではなかったと皆は安堵し、普段と変わらない野営地の朝を過ごした。
しかし昨夜の遅い時刻、クロードは外傷回復薬の缶にメモを入れ、薄い布包みの上に重ねると、見張りの騎士が巡回している隙をついて、隣の小屋のぴたりと張ったシートの隙間に差し込んでいた。
先日の夜、拳の怪我をエルーシアに知られないようにと、一晩に何度も塗りつけて空にした缶が、ここで使われたことは誰も知らない。
※ ※ ※ ※
サイフ公国は、大陸の中で、海に面した唯一の国である。
かつてこの地は、塩や海産物が豊富にあるのに、痩せた土地が広がる中に世界樹の森が存在していたため、森の近くで農業や畜産を行えず、小国と小さな集落が点在するだけで、魔物におびえて暮らしていた。
しかし、アルニラム王国の地盤が固まりつつあった時代、当時の王弟殿下が小国の姫と縁を結び、大公となって建国した。
そのため、アルニラム王国とサイフ公国は親交が深く、二国間だけの取り決めも多くあり、長く続いた支援によって、痩せていた土地は肥沃なものへと変わり、それとともに国も発展していった。
サイフ公国の街道も、流通の利便性のために整備されており、一行は緑の鮮やかな竹林を眺めながら、目的の町に向かった。
幾つかある町の門のうち、寂れた小さな門をくぐると、すぐに街道をはずれて田舎道から丘を登り、夕刻前には公爵家の館に到着した。門前で待っていた執事の案内で別館に通されると、秋の国巡りで何度か見たことのある侍女二人の手で、エルーシアは二階の寝室に連れられ、飾りたてられた。
光沢のある淡藤色の生地に、レースをふんだんに使ったドレスは、肩や背中も隠した肌の露出の少ない上品な仕立てで、胸の下の切り返しから、ふんわり膨らんでいる。
いつもは簡単に結っている髪も、ハーフアップではあるが、細かく編み込まれて真珠のついた髪ピンが挿され、されるがままのエルーシアは、紅茶を飲みながら侍女たちに尋ねた。
「ドレスのサイズが合っているのですが、なぜでしょうか?」
「エルーシア様がお国でドレスを仕立てている工房は、支店がサイフにもございます」
「このドレスは、多少のサイズ違いなら、背中のリボンで調節できるデザインに仕立ててあります」
侍女たちから返される言葉に、いつ用意したのかとの疑問も頭に浮かび、再び尋ねると、すぐに返答がくる。
「季節を問わず、いつでも対処できるようにと、ご用意いたしております」
「アリッサ様は、エルーシア様を大切なご友人と想われております。ドレスと真珠は、贈り物としてお受け取りください」
大切に想われるのは嬉しいが、ドレスは決して安い物ではないし、真珠のピンも幾つ挿したのか数えていない――お返しが、絵本数冊では釣り合わない。
あとでクロードに相談しようと、化粧された頬を少し引きつらせ、エルーシアは心に決めた。
サイズの合ったパンプスを履くころには、日が落ちて晩餐の時間も近づき、いつもと同じ濃灰色の騎士服のクロードが迎えにきた。
滅多にドレスに身を包まないエルーシアの変貌に、侍女たちの目も気にすることなく、満面の笑みを浮かべる。
「とてもきれいですよ。エスコートできる光栄をいただき、感謝しなくてはいけませんね」
「なぜ、クロードは騎士服のままなの」
「私は護衛騎士ですからね。今夜のドレスは爪がレースに引っかかるといけませんから、クルルは私の肩か、胸ポケットに入りなさい」
寝室に通されてから、仮面とマントを脱ぎ捨て、小さい体で部屋のあちらこちらと駆けて遊んでいたクルルは、後ろ脚で立ち上がるとキュルキュル鳴く。
「警戒しなくても、つまみませんよ」
クロードの言葉を聞いて、クルルはジャケットに飛びかかると、そのまま駆け上がって肩に落ち着いた。
ルークと騎士たちは先に向かったとのことで、ランタンに照らされた飛び石の散歩道から、本館へと二人だけで歩を進める。
「雑務員の二人は、こちらの馬車で発ちました。マコンは他国の料理人たちと話がしたいらしくて、晩餐の席ではなく、使用人食堂で食べるそうです」
「ルークは、今夜も騎士服に着替えたの?」
「いいえ。着替えさせましたが、いつもの服ですよ」
無地の襟付きシャツに、ポケットの多いゆとりのあるパンツ、ごついベルトに剣まで下げている。冒険者に多く見られる服装は、公爵家の使用人にはどう受け取られるのか――眉をひそめたエルーシアを、エスコートしながらクロードが覗き込む。
幼いときから見てきたのだ。話の流れから、何を思案するのかは読める。
「大丈夫ですよ、アリッサ様は騙せません。使用人もよく教育されていますので、客人に不快は与えませんよ」
「そうならいいけど……」
小さくため息をついて、ルークのことを思い浮かべる。恋心を隠そうと神子の表情を貼りつけるが、上手くいかないときが増えている。
視線を逸らし、ぎこちない態度で不快感は与えてないか、不安になる。
昼の川べりでは、二人きりになった焦りから、聞くべきではない質問までしてしまったが、重い空気を取り払うような軽口に、救われた。
街道を走る馬車から隠すように庇われたときは、危機感より先に、広い背中に胸が高鳴った。
護衛として、十分に守ってくれている。依頼とは無関係なのに、アリッサとの談話での同席も快諾してくれた。
これ以上、不快な思いをさせないように、迷惑をかけないように、巻き込まないように、気をしっかり持たなくてはいけない。
足を踏み入れた本館の食堂ホールは、広くて豪華であった。壁を飾る絵画は領地の海辺を描いたものが多く、細工の細かいシャンデリアがきらびやかな明かりを灯し、テラス窓からはランタンに照らされた庭が一望できる。
長テーブルには晩餐を始める用意がされ、鮮やかな花も飾られている。しかし、誰一人と座っていない。
先に到着していた皆は、一角にある木目のきれいなピアノの横にスツールを並べて腰を下ろし、耳を傾けていた――騎士の一人が曲を奏でている。
二人の足音が聞こえたのか、ルークだけが顔を動かし、ピアノの音がゆっくりと終わりの旋律になり、最後の鍵盤を弾いたとき、皆の拍手が鳴り響く。クロードも拍手をしながら、その一角に近づいた。
「付き合いは長いのに、そんな特技があるとは知りませんでしたね」
裕福であっても、庶民には楽器は高価なものであり、学ぶ機会は少ない。貴族の出であっても、男性が演奏を身につけるのは、そう多くはない――跡継ぎ以外の子息は、騎士や文官を目指し、剣技や攻撃魔法、法律など学ぶことが多いからだ。
胸を張って自慢してもいいのに、その騎士は鍵盤を撫でて肩をすくめた。
「母が音楽教師だったんですが、多忙で三曲しか習えなかったので……エルーシア様、素晴らしくお似合いです」
振り返り、クロードの腕に手を添えたエルーシアのドレス姿を確認すると、声を大きくした。
つられて、スツールに腰掛けていた騎士たちも振り返り、また拍手する。
「おお、王城の夜会に出るときみたいですね」
「サイフの神子様は、用意がいいですね」
「神子様はドレスも着こなすんですね」
「折角ですから、二人で踊りますか?一曲ですがワルツも弾けますよ」
「いいえ。エルーシアも成人しましたから、やめておきましょう」
「それなら、私と一曲どうかしら?」
突然加わった透きとおるような声の主は、浅緑の目を優しげに細めて、エルーシアを見つめながら、優雅な足取りで入室してきた。
目を引く赤橙色の髪を高い位置で結い、小粒の歪な真珠が幾つもぶら下がる髪飾りを挿し、肩を大きくあけたマーメイドラインのドレスを身にまとう、やや背の高い艶やかな女性。サイフ公国の神子、アリッサである。
「素敵なドレスと髪飾りをありがとう。感謝します」
「ドレスは、急な声かけに応じてくれたお礼よ、よく似合っているわ。そうでしょ、クロードウィッグ」
「はい、久しぶりにドレス姿を目に入れることができました。お心遣いに感謝いたします。アリッサ様も、エルーシアと同じく、今夜のドレスがよくお似合いです」
浅緑色のレースを重ねた琥珀色のドレスは、彼女と彼女の夫の瞳の色。仲の睦まじさを知っている者なら、いくら艶やかであっても、下手に誤解を招くような声はかけない。
「夫に教えていたから、男性パートも踊れるのよ。私のほうが背もあるし、リードするわ」
差し出される手は、断られることを予測していない。が、エルーシアは迷うことなく、感謝の気持ちで手を重ね、再び指を鍵盤に乗せた騎士が尋ねる。
「お二人の神子様、ワルツでよろしいですか?」
二人の神子が頷き、曲がゆっくり流れ始める――アリッサがステップを踏むと、ドレスの裾がひらりひらりと揺れ、エルーシアがターンをすると淡い蜂蜜色の髪が揺れ、裾がふわりと舞う。光沢のある生地がシャンデリアの光を受けてちらちらと輝き、旋律にあわせて真珠がきらきらと輝きを放つ。
女性同士のダンスは華やかで、皆は息をのんで目を奪われる。
「あなたの騎士たちに、質問をしてもいいかしら?」
「断っても質問するでしょ。でも、皆を信頼しているから大丈夫よ」
踊りながらアリッサがささやき、エルーシアも微笑みながら、ささやき返す。
曲が終わり、最後のターンを大きく踏んでまわると、騎士たちから拍手の嵐が送られ――ルークは拍手をしながら、いつの間にか止まっていた呼吸を再開させた。
川べりで見せたような、無邪気さを含んだ笑みから一転し、神子として微笑む、国が敬う絶対的な姿が目に焼きつく。
美しく着飾り、堂々とした存在は、手を伸ばしてはいけないと知らしめるが、次々とあふれてくる魅力から目を逸らすことが敵わず、蓋をする想いは深さを増していく。
ダンスが終わっても、まだ手を重ね合っているアリッサに、クロードは近寄ると頭を下げた。
「食事の前に、願いたいことがあります。エルーシアに癒しをいただけませんか?」
「どこか悪いのかしら」
「どこも悪くないわよ」
アリッサは淑女らしい笑みを浮かべて隣に視線を向け、エルーシアも微笑んで即答するが、クロードは首を横に振る。
「食がずいぶんと細くなっています。これから先の遠征のために、体調を整えたいのです」
「相変わらずの過保護っぷりね」
くすくすと笑い、重ねている手へと癒しの魔力を流し、エルーシアは体に流れ込む温かな魔力に、ほうっと小さく息を吐く。
「ありがとう。アリッサにも必要かしら」
「私は大丈夫よ、癒し手の侍女がいるから。あなたも、一人くらい癒し手を雇ったら?」
「癒し手は貴重だもの、治療院に必要な存在よ」
アリッサは胸の内で貴重の重さが神子とは違うと思いながらも、否定することなく目を伏せた。
「デルミーラも、癒し手を側に置かなかったものね」
晩餐の時間か、使用人たちがワゴンを押して入室し、それを横目に見て、アリッサは騎士たちに声をかける。
「私も、食事の前にお願いがあるのよ。エルーシアを裏切らずに守れるか、皆さんに尋ねてもいいかしら?」
騎士たちは、他国の神子からの突然の問いかけに戸惑い、クロードに視線を寄越すが、信念を胸に抱くジェイが真っ先に口を開いた。
「誓います。身を盾に、何があろうと守り抜く」
それを聞いて、次々とほかの騎士たちも同意の誓いを述べる。
「あなたは、どうなのかしら?」
アリッサの視線の先は、なぜか一人だけ騎士服を着ていない、冒険者らしき男性。
ルークはエルーシアを見つめ、問いかけに応じる。
「誓おう」
やや低い声で返す短い言葉は力強く、エルーシアの胸が大きく跳ねる。
設定小話
アリッサは夫がいるので、親しくても、他の男性を愛称で呼びません
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