268 現地で知り得ること
昼から飲み続けて酔ったカティは早くに就寝し、エルーシアは書き物机に向かい、背けたくなるような文章を次々と目で追う。
落ち着きがなく会話が成立しない、満足な睡眠がとれずに倒れた、誰かを探して食事にすら興味を示さない、魔力が枯渇するまで暴れる、下を向いて動く気配がない――すべて奴隷紋を焼きつけられた者たちの記録である。
皮膚再生の施術を諦めたのちは、鎮静など内服薬での治療に移ったようだが、上手くいかず、命令を下す主を失った結果だと推測が書かれている。
最終的には、穏やかに過ごさせるとの名目で郊外に療養の村を用意して移住させているが、面倒事に蓋をした隔離にしか思えない。しかし当時の状況を考えれば、衣食住を整えるだけでも苦労しただろう。
目を通した分の記録に体の苦痛や冷えを訴える者はなく、ルークとは異なる奴隷紋だと判断できる。
このころは人工瘴気は計画になかったか、もしくは奴隷紋の苦痛で国から脱出できなかったか――何を考えても重苦しさがまとわりつく。
「大体、何が目的でこんな技術を開発するのよ」
亡国ベテルは魔法文字に精通し、多くの魔道具を開発している。水を出す、火をつける、そんな単純な魔道具は他国からも生まれたが、複雑なつくりの魔道具は殆どがベテルだ。
世界樹やエルフからもたらされた知識、世の発展に向けられるならよかったが、侵略を目論んだ途端に滅亡へ走り、失ったものは大きすぎる。何があって飛竜は咆哮し、災害が引き起こされたのか。
「人が手を出してはいけない領域……かもね」
読んでいた記録を木箱に片付け、エルーシアは手のひらを見つめる。それなら、火薬で瘴気を生み、危険な実験をする自身はどうなのかと――あの火傷のような痛みは、中断しろとの戒めなのか。
しかし実験から一週間経ったが、異変の報告はまだない。上手く祓えたのなら、このまま継続したい――就寝前の挨拶か、ノックが聞こえたので扉に向かう。
どれほど心配をかけているのかは理解している。でも、歩む先を守りたい。愛しい人は諦めに塗り固めた世界から出て、好きに選択できるようになったのだから。
強張った顔なんて見せたら、また不安を重ねるから、頬を緩める。きっと楽しい話題も携えてるはずだ――世界樹での写真が仕上がったとか。
※ ※ ※ ※
翌朝、空色の馬車にカティと一緒に乗り込んだエルーシアは、日帰りの遠出で、兄公爵や護衛たちを先導にして首都を離れた。
片道三時間ほどかけた町に、見学したい条件に見合った工房があったからだ。アルニラムを発つ前に追加した予定である。
「エルーシアが工房見学を希望するなんて珍しいよね。それも楽しくもない見慣れたインクの調合だなんて。わざわざ他国でよ。なんでなの?」
カティが不思議に思うのも当然か。希望しているのは魔力を覚えさせるインクを製造する工房で、アルニラムにもあるのだ。
「アルニラムは材料の半分を加工品に頼って輸入してるけど、サイフはすべて栽培から手がけてるからよ。工房が兄公爵の領地にもあって助かったわ。お陰で問題なく予定に組み込めたもの」
「破れない誓約書とかもエルーシアは自作するから、インクまでつくる気になったの?それとも新しい魔道具の開発?」
「……気になってたから、一度見てみたかったのよ。ほら、私は植物学が苦手でしょ」
深い意味はないと告げるようにエルーシアは説明するが、悟られたくない意図がある。
見破られてないかと窺うも、他国の風景に興味を変えたカティは、視線を窓の外に向けた。が、いつもより少し寂しげでもあるか。
「アクセルは首都にお留守番だけど、レイはいるし、ユアンのほかにジェイを護衛につけるから、カティは別行動で楽しんでね」
「なっ!お留守番はソニアやロズもでしょ。アクセルだけじゃないし関係ない、まだ恋人じゃないもん」
いきなりの話題に頬を膨らませるが、アクセルはこの一日をサイフが保管する亡国ベテルの記録を洗うと決めていたようで、同行しないと告げたときもカティは不機嫌そうにしていた。
出先で一緒に遊ぶのだと期待していたのだろう。気を逸らすためにか双眼鏡を覗き始めた。
通常の国巡りでは絶対に足を向けない首都より南部を目指しているので、道中は見たことのない景観であり、エルーシアも窓に視線を向ける。
「全部落ち着いたら、こんな慌ただしい移動じゃなくて、ノイエも連れてゆっくり旅行したら?アクセルも誘ったら喜ぶと思うわよ」
サイフの南部、この先の街道を突き進めば海に出る。朱の馬で片道五日ほどか。王太子は三年前の訪問時、追加支援の見極めで一月かけて沿岸部をまわった。
報告を受けるだけで立ち寄ったことはないが、神子の務めは放り出せないので、きっと今世で潮風を受ける機会はない。
※ ※ ※ ※
町に到着すると手配していたとの一流の宿に入り、食堂でまずは昼食をとり、エルーシアはルークや隊の者たちを護衛にして工房見学に出た。
工房の責任者は案内する栄誉に高揚し、材料の加工の様子から保管方法、調合や出荷まで質問されれば細かに返した。
「すべての材料を未加工から手がけていると伺いましたが、すでに粉末になって運ばれる品もあるんですね」
「はい。刈り取りと同時に乾燥と粉末にする処理をしています。神子様の開発品がありますので、運搬時の負担が減りました」
工房責任者は乾燥木箱や粉砕木箱のお陰だと感謝を伝えるが、エルーシアは複雑そうに眉尻を下げる。加工する前の状態を確認したかったのだ。
それで、帰路は自生地に立ち寄ってほしいとクロードに伝える。少し遠回りになるが、予備ルートとして情報は押さえている。
ビンや器具などに囲まれた場とは異なり、カティたちは兄公爵の案内で名所巡りをし、貝殻を壁の装飾にした教会や鐘楼、小さな噴水が並ぶ水路のある広場などを楽しんだ。
町はずれに布の染色工房が幾つかあり、川から引き込んだ水はその時々で色がつくとのことで、このときの噴水は鮮やかな茜色だった。
「この水は触っても大丈夫なの?」
「染色の原料は無毒の植物なので肌に優しいですが、刺激を受ける方もいますね。色水のときの噴水は観賞用とし、不用意に触れないほうがよろしいです」
「このまま川に戻したら魚も染まるんじゃない?」
「その前に排水処理をしますので心配は不要ですよ。海の恩恵はサイフの主要産業ですからね、川を汚す真似はいたしません」
「じゃあ、次は布製品のお店にいきたい」
領主であるとともに次期君主でもある兄公爵の案内に手落ちはなく、安全に買い物まで堪能して一同は合流し、首都へと戻るのだが、途中で休憩を挟んだ。
場所は幅広の川沿いで、湿原粗放の赤睡蓮が目の前に群生している。
大陸のあちこちで自生するが、栽培を試みても生育が難しい品種で、花びらがインクの原料なのに自生に頼るのが現状であり、街道整備を進めたり飛竜の災害で地を荒らされたアルニラムにこれほどの群生地はない。
休憩の口実は茶の時間としているので、皆が飲み物や菓子を頬張るのを横目に、エルーシアはルークとクロードを連れて睡蓮の群生に近寄った。
午前のうちに素材は摘み取ったのだろう、見渡しても咲いている花はなく、遠くに作業小屋らしきものはあるが人の姿はない。
「あなたがこんなにも興味を持つんです。使い慣れたインクの、ただの一素材、というわけではないですよね。この睡蓮に何があるんですか?」
「奴隷紋の焼きごてに振りかける液体の調合で、この睡蓮はインクより使用量が倍近く増えるから気になったの。それに、奴隷紋の瘴気が生み出した大型の発生地には、自生している可能性があるのよ」
調べを重ねる中で見つけた共通点だ。サイフの毒棘ナマケモノ、亡国の紫の大蜥蜴、アルニラムで絶滅した青月三つ目の大黒豹、発生地には池や沼があって群生していた。
斑大蝙蝠はリゲル南端の山岳地帯から飛んでくる。険しい山の奥は調査できずに詳しい発生地の特定情報はないが、山間に水場があり、睡蓮が咲いている可能性はある。
それらを伝えるエルーシアは、大シャチの発生地が赤湖と名付けられたのも、この赤い花が咲き乱れた湖だからではないかと推測を教える。
発生した魔物はすべて毒持ちの大型、それ以外にも出てきた共通点。五種のうち三種が確定で、不確定の一種も水辺なら、読みは正解に近いか。
「破れない誓約書を綴り、魔力を覚えさせるインク。手を加えれば奴隷紋を押しつける液体よ。この睡蓮には何が秘められてるんだろ」
「触れても大丈夫なのか?」
「この睡蓮は無毒ですよ。インクに開発される前は、各地で染色にも使用されていたそうです」
それならとルークは手を伸ばして睡蓮のつぼみを一輪取り、よく観察したいはずのエルーシアに渡す。
色づく前でまだ硬いが、人の手で生育が難しくても魔力を流してグラスに挿しておけば咲くか――滅亡に誘った甘美な夢を見せる花が。
※ ※ ※ ※
翌日は休暇にあてているので、他国での夜の町の賑わいも楽しもうと、迎賓館に戻ると騎士たちは外出し、レイも後を追った。
そして残ったのは密談のメンバーであり、先に入浴するようカティとユアンに勧め、娯楽室で情報交換が始まった。
まず口を開いたのはアクセルで、大した情報は探せなかったと苛ついた様子で愚痴る――こんな結果なら一緒に出かければと思ってか。
八号が記録保管庫に手引きしてくれたが、亡国ベテルとの交流は深くなかったようで、アルニラムを挟んだ授受ばかりで真新しいものはなかったのだ。
「滅亡時に避難してきたのも地方に住む庶民や捨て駒の兵士や雑務員ばかりで、権力者はいなかったようだ。追加できる情報は何もない」
ルークからは今日の移動で付かず離れずの距離で追跡する馬車があったことを――これは睡蓮の群生地でクロードに報告し、兄公爵の護衛がそれとなく監視にまわっている。
ベナットからは不穏な接触は騎士たちに見られないことが報告され、ほかにも細々と皆が続き、クロードは踊っているときにアリッサからささやかれた情報を周知する。カティの手に火傷メイクを施す話題に、輸入でリゲルと関わり深い貴族が聞き耳を立てていたと。
「アリッサ様は上手くタイミングをみてくれたようですね。情報はリゲルに流れるでしょう」
「そう。明日訪ねたときにお礼を伝えておくわ……あっ、そういえば会談で聞いたんだけど、生まれ変わるまで六十年の開きをもったらしき人の記録があったそうよ」
アルニラムの記録からは三十年だったが、いきなり倍である。転生者ならいざ知らず、どんな有益情報を夢に見たから書類に残されたのか。
これにエルーシアは、大陸以外からの生まれ変わりで、信憑性に欠ける内容のため追加情報を待っていたがなく、書類は膨大な記録に埋もれていたらしいと続ける。
「世界樹のない島に住んでて、飛竜を目撃した記憶があったそうよ。残念なことに報告後の道中で魔物の被害にあって命を落としたの」
「エルーシア様、ちょっと待ってくれ。ここ以外にも人っているのか?」
ルークやロズは館でエルーシアから学び、クロードやアクセルは色々な情報に精通し、ベナットも同居で日常的にやり取りは多い。それであり得ることかと耳を傾けていたが、ジェイだけは知らずに驚いた。
「渡り鳥はどこかに飛び去るのよ。この大陸以外にも陸地があるなら、どこかで国が栄えていたとしても変じゃないわよ。広大な海があって魔物がいるから行き来が難しいだけなの」
「いつか予告なく飛行機が飛んできたら……考えたら怖いですよね」
ロズがふるりと震えながら口にし、皆もそれは怖いと同意する――この大陸は百年近く転生者が現れなかったが、どこかに世界樹があって転生者も途切れずに発展し続けた文明があるかも知れないのだ。
不戦の誓いのない、未知の者が亡国ベテルのような侵略の考えを持ってないとは言い切れない。
入浴を終えた二人も加わると、マコンが待つ食堂に移り、輪になって夕食とワインを楽しみながら、皆の前でできる報告へと話題も移った。
シリアルバーの試作ができそうだから明日の朝食で並べるとか、瘴気の実験経過が順調そうなので、リゲルでの国巡りにも兄公爵は手を貸してくれるとか、ソニアは受け持っていた孤児院に出かけたとか。
「今夜は残してきた寮の部屋に泊まって、明日の夕刻には戻るそうです」
「そうですか。それで、大公には辞めさせずに親切丁寧に懇々と諭せと伝えましたが、留置施設にいる彼はどんな状態でしたか?」
遠出に同行しなかったロズとソニアは、サイフの騎士に案内され、遺恨を残さないために拘束中の茶髪の騎士に会ってきたのだ。
ソニアとの縁は十年も前に切れ、売った喧嘩は理不尽なものであり、下手するとアルニラムとの国交にひびが入ると理解したようで、茶髪の騎士はしおらしく頭を下げた。
ソニアが初恋相手で持参金がなくても迎えるつもりだったが、いくら待っても領地に戻ってこず、行方知れずになり、想いを長年燻らせた結果らしい。
レイに敵意を向けたのは手を取り合い踊っていたからで、ロズにも牙を剥いたのは、ソニアのドレスがロズの瞳の色で、他国の騎士が権力で奪い去ったと勘違いしたからだった。
ちゃんとその誤解も解いてきた。修道院に入った経緯を伝え、実家との交流も隠しているのだと。
「忘れられずに暴走したけど、立場を理解したので、今後一切の関わりを望まないそうです。でも、調べは親切丁寧だったんでしょうか、痣だらけでしたよ」
「あれほどの不祥事を起こしたのですから、騎士として残留するための鍛え直しは必要でしょう。心を入れ替えられたようでよかったですね」
クロードは涼しげな顔をするが、この性格と騎士の世界をよく理解しているアクセルやジェイは、茶髪騎士の未来は暗雲だと顔から表情を消す。
自業自得だが、華々しい公の場で騎士らしからぬ醜態を演じたのだ、どこに身を置いても恥さらしだと邪険にされる。しかし、これまでの努力と先の生活を考えれば辞めるのも踏ん切りがつきにくい――どれほど耐えられるかとベナットも胸に秘める。
深読みせずに反省を願うエルーシアは、マコンとユアンがいるため誰の撮影かは口にしないが、写真をまわし、皆の目に世界樹や妖精を披露した。
信仰の対象である世界樹の神秘に触れて感激した皆は、新技術の紙に写し出されて十秒ほどだが動画になり、ふわふわ漂うサイフの妖精の姿に首を傾けた。
「この妖精、ただの丸い光なんだね……虫か綿埃みたい」
「雲虫の写真って言われたら、そのまま信じますね」
カティやロズの感想に、なぜこんな写り方になったのかエルーシアも首を傾ける。撮影したルークの目にこう映るのが原因なら、自身が撮ったら表情まで確認できるのか。
機会があれば試そうと、合図を送るようにルークに視線を向ける――検証を重ねてきたから発見できたことだ。深層でも既存の紙では無理だったが、新技術の動画紙なら妖精は写真に残る。
設定小話
世界樹の領域での撮影者はルークなので、ルークに張りつく必要のある双葉ちゃんは写してません
撮影したら、虫っぽさは増えたか……
カティが撮影者なら光に羽が生えるのか?これも虫っぽいね