192 給金の基準
夕食を終えたエルーシアは、デザートは研究部屋に運ぶようモウに頼み、ベナットに夜更かしするのかと注意されたが、明日の準備をするだけだと返し、廊下を進んだ。
扉の先は、何年もよくこもっていた部屋なのに、春の遠征から、数回しか入っていない。
前に入ったのは、人骨を調べたときか。通された医師たちは、魔道具製作の器具や材料などの多さに驚いていた。このような環境だから、学生のころから開発ができたのかと。
だが、かつて館で開発に勤しんでいた神子たちが残した器具もあるが、殆どが、デルミーラとクロードが用意した品だ――深い愛情に感謝している。
片付いたテーブルに、あれこれとビンや缶や器具を並べ、最後に引き出しから魔石の粉が入った小ビンを取り出す。ルークの剣に魔法文字を刻む準備である。
前にインクを調合したのは遠征前で、北西で合流するジェイの剣が折れたとき用だった。
「あっ、予備でジェイに渡した剣……返してもらってないわね」
ふと思い出して独り言がこぼれるが、保管はしているはずで大した問題ではないから、意識を足りない材料はあるかと残量確認に向けて、缶の蓋を次々とあける。
インクの調合は立ち会いのもとでと約束させられたので、今夜はここまで。
あとは、デザートを食べながら、見せかけの魔法文字は何を刻み、どのインクを使うか考えるだけ。
重苦しいことで日々を追われているが、身を守る術を渡せるのだと、嬉しさを胸に広げつつ、昼にジェイから取り上げた爆弾のピンをくるくる回す。
※ ※ ※ ※
懐中時計をちらりと確認したルークは、読んでいた指南書を閉じてサイドテーブルにのせ、ランタンの明かりを消そうとして立て掛けた剣が目にとまり、一拍置いて、伸ばした手でそのまま持ち上げた。
抜刀すると、これまで使用していた剣との違いは新しくなったくらいだが、まだ魔法文字は刻んでない。ただの珍しい型の剣だ。
世界樹や王城での護衛に丸腰で挑むわけにもいかないので、倉庫から予備の剣を出して、鞘に収めたのだ――これを機会に地味な鞘に変更するかと問われたが、断った。
同じ剣を持つジェイは、騎士団で使用する鞘に寄せて仕立て、ルークの持つ鞘は、別の特別仕立て。
剣が折れても、鞘をそのまま使用できるように、細かい指定で予備の剣は準備されていた。
それでも研ぎ方の違いか、渡された剣は、収めるときに引っかかりがあり、別の剣に交換して、違和感なく収め、抜刀もできたので、そのまま腰ベルトに装着した。
仕方のないことだと分かっているが、折れた剣に未練がある。盗難を危惧して、さらに折って処分するようクロードに助言されたが、躊躇している――剣技の訓練を重ね、守るために振り続け、誓った剣だ。
これまで、物に執着したことなどなかった。荒々しい場に身を置き、盗まれることも多く、大した品を持たず、壊れたり破れたりすると、すぐに買い替えてきたから。
使用していたリュックが破れたときは、ちょうどいい機会だと、鞍に取りつけるサドルバッグとポーチを合わせて買ったりもしたが、これにも執着はない。ダメになったら、また買い替えればいいだけ。
なのに、想いが詰まり、折れて残った刃を処分できない――盗難防止の木箱にも入らない、書き物机にある長い布包みを見て、ため息をつく。
※ ※ ※ ※
優しい居心地のよさに包まれて目を覚ましたエルーシアは、ほうっと息を吐いた。
覚えてないが、温かい気持ちになる夢を見ていた気がして、花の香りが漂うような部屋で瞼をあける――行いがすべて上手くいく、そんな予感を与えてくれる夜明けだ。
窓の外を覗くと、屋上の向こう側にある木立の枝がさわさわ揺れているのが分かり、身支度を整えて塔に向かう。
扉をあけると馬車置き場の屋根を駆けてクルルが飛び移ってきたので、ともに入り、階段をのぼりながら明かり取りの窓から手を伸ばして、月桂樹の葉を一枚摘み、夏らしい香りを堪能する。
塔の最上階から庭を眺め、王城や騎士宿舎の人影も確認し、世界樹の森に広がる力強い緑色に頬を緩め、両手をかかげて魔力を溶かす。
どんな画策があろうと潰す、世界樹の悪夢も乗り越える。神子として王国の安寧を、大陸の平穏を願い――ただの一人の者として、愛しい人の幸せを想って鼻歌を口ずさむ。
風の強い日の務めが終わるころ、窓をあけて塔の上に佇む姿を発見したルークは、眉間にシワを寄せて身を乗り出すが、流れる髪を押さえてこちらを向いたあと、手で制するような動きを確認する。
表情までは読み取れないが、昨夜は雨が降った様子はなく、クルルが一緒で危険はないのかと理解できる。
だが、何かあれば駆けつけたくて、館に入るまでは見送ろうと眺め――くるくる不思議な動きで飛んできた一枚の葉を掴む。と、爽やかな香りを放つ葉に、大丈夫と一語が刻まれている。
紙飛行機の伝令から思いついたのかと頬が緩み、視線を戻すと姿はもう消えていた。
受けたことのない朝の挨拶が増えて嬉しさが胸を埋め、葉を書き物机の布包みの上に置いて、途中だった身支度に戻る。
なぜか空腹感も刺激され、食堂に一番乗りで向かうと決める。しかし、多忙なクロードがすでに座り、二月目の報酬だと二枚の小切手を渡してきた。
「魔力研究の分だけのはずだろ、なぜ前渡しされた護衛依頼の分もあるんだ」
「前回渡した小切手は、ギルドに報告し、手数料も払っています。ですが、これは内密に願いますよ。前渡しした期間、同額を毎月渡します。あちらで安全な家を用意する費用の足しにでもしてください」
いつから考えていたのか、涼しげな顔で告げるのは、半年の間に三年分の報酬を渡す計画。
ギルドへは秘密裏に行い、教会の通貨取引課でも、受付の職員や来客の多さで、一人の冒険者が毎月入金する額ではないと気づきにくい。策略にはまったとルークは口を歪める。
※ ※ ※ ※
依頼時の契約やギルドのやり取りをしているのはクロードだが、これは代理である。書類に書かれる依頼人の名はエルーシアであり、どれだけ内容を把握しているかは知らないが、ルークは真の依頼者へ苦言を伝えることにした。
世界樹に向かう小道を踏みながら、報酬をもらいすぎだと。返ってきた言葉で、眉間にシワを寄せることになったが。
「当然の権利だと思うわよ。渓谷に飛び下りるなんて危険な目にもあわせたから、今回は多めにってお願いしたの」
フードに隠れて表情が見えにくいからか、言葉はどんどん続く。毎日世界樹に通うから休日を設けられない分、務め以外にも気遣いや手伝いをしてもらっている分、長時間の護衛や付き添いの分もだとか。
幾らの小切手を渡されたか知っているのか尋ねるが、金額は聞かされてないらしい。
「遠征中に契約したとき、冒険者を雇う金額は知らないから、護衛騎士の給金を基準にしてほしいって頼んだの。高ランクで、斑大蝙蝠も簡単に討伐したでしょ?だから、報酬以外は待遇で考慮もするように」
「ああ、そうか……騎士を基準に……」
高ランクとはいえ、他国の冒険者、しかも半獣人。最初に交わした契約から太っ腹な報酬だと感じていたが、選ばれし騎士隊の給金が基準とは考えていなかった――エルーシアらしいとも取れるか。
経験年数や役職などで皆が同じ給金とは思えないが、ルークがもらうのは、半年分。期間限定だとしても、きっと最高額だろう。
「いや、半年後には、また別の策を考えていそうだな」
呟きに反応して、何か問題があったかと見上げる顔に、ありがたく受け取っておくと伝えて、ここ最近の定位置である中層と深層の境界から見送る。
多い報酬を渡されているのは、万が一に備えてだ。そうなったとしても、討伐の腕があるから、何かしらの職には就けるだろう。だから断りたかったが、理由を告げることはできない。
これまで考えてもなかった不安で頭を悩ませることは増えたが、皆が世界樹の悪夢を対処しようと努めている――希望はある。
万が一の時を乗り越えたら、どうなるのか。地方なら家でも買えそうな大金は、返却可能か。これも悩みの一つになりそうだ。
いつもより優しく聞こえる鼻歌に、妖精とクルルが参加した幻想的な風景。口角を上げていると、かさりかさりと草を踏む雑音も混ざり始めて振り返り、近づいてくる姿に警戒する。
派手なワンピースと濃い緑色の髪を確認し、フードを深く引いて、マントの内で剣を握る。
「誰にも邪魔されずに取り引きがしたいのよ。いいかしら」
有無も言わせず近寄るガリーナが境界ぎりぎりで止まるのは、ただの癒し手だから。これ以上の侵入は、世界樹に拒まれる。
声をかけられて、小さいままのクルルを添わせ、エルーシアも深層から木々の間に近寄り、取り引きの内容を尋ね、給金が足りないと不満をぶつけられる――国の部署が推し進める研究施設だ、予算や基準がある。
「院に勤めていたころを基準にしたのよ。見習いの額じゃないから、これまでと大差ないと思うけど」
「でも職員宿舎がないわ。宿に泊まり続けるのよ」
もとが伯爵令嬢で、家事ができるはずもなく、整った環境と人の手を望んでいるのだ。住宅街で部屋を借りるなんて発想はなく、同じく安宿でも不満。
使用人や給仕が揃った高値の宿に身を置き続けているが、これが一番の出費。
院に勤めていれば、騎士宿舎と大して変わらない環境もあったが、新設する施設にはない。職員は数人だから、皆が今ある自宅から通勤する。
使用人はいないが、協力者たちの寮が建つ予定であり、移り住むかエルーシアは問い、鼻で笑われる。
「私は折れて、半獣人と手を重ねてもいいと言っているのよ。もっと譲って、同じ寮に住めと言うの?専属の使用人をつけられても嫌よ」
「それなら、三割を私から増やしてもいいわよ。その代わり、施設内に医務室をつくるから治療を担当して――」
「足りないわね。三割なんて、宿の質を下げるじゃない。私にお茶を我慢させて、洗濯までさせる気?冗談じゃないわ。研究以外での治療もお断りよ」
エルーシアは少し首を傾けて考え、それなら交渉は決裂だと口にする。別の者たちに声をかけるからと。
また鼻で笑うガリーナは、ほかに頼れる癒し手はいないはずだと返す。だから追放した者に声をかけ、取り決めを考慮するのだろうと続ける。
「そうでもないわよ。一人に任せるのを諦めることになるけど、学生たちに学びの場として経験を積ませるの」
「半獣人の研究を未成年者に任せる気なの?正気じゃないわ、反対されるわよ」
「反対意見は説得すればいいわ。研究に興味を持って、施設に就職を考える子も出てくるかも知れないわね。あなたと違って、差別しないよう教科書で学んだ子たちだから」
別の案を考えるなんて卑劣なやり口だとガリーナは睨むが、決裂に備えて次の手を用意するのは当然であり、給金を無理に吊り上げるのは理に反するとエルーシアは説明する。
追放した癒し手を、院の職員より優遇して別施設に就職させたら、ギルドの面目はない。だから三割の提示は、医務室で治療する分の給金として計上するのだと。人数の少ない施設だ、毎日治療があるとも思えず、三割でも多い。
仮に就職したとして、長期休暇や辞めた場合に引き継ぐ者を探すとき、同じ金額を提示する必要も出てくる。ガリーナより腕のある熟練者なら、さらに高くなるか。
ただでさえ癒し手の給金は高いほうなのだ、ギルドの責任者並みの給金になってしまう。考慮するにも限度がある。
「給金で収まらない贅沢をするのは個人の自由だと思いますが、働き以上の収入を約束はできません。国の施設なんです」
「それなら、あなたの言う考慮って、なんなのよ!」
「院と同じ有給休暇の約束、三割の提示、ただ一人のために制服の準備、施設全員への昼食の手配、郊外にできる施設までの通勤費……考えていたのはこれくらいね」
郊外に通勤なんて聞いてないとガリーナは顔を歪め、まだ新聞にも載ってない決まったばかりの情報だとエルーシアは補足する。
郊外とはいえ、墓所のような街はずれではない。王都外壁のすぐ側なのだ。危険な国境に何年もいたのなら恐怖心を抱く場所ではないが、想定外だったか、無言のまま向きを変えて歩き始めた。
断るのか、まだ考える時間が欲しいのか、判断は難しい。エルーシアは去る姿を目で追うが、見えなくなると思考を切り替え、カゴバッグを持って務めに戻る。
警戒していたが危険はなかったとルークは安堵のため息をつく。さりげなく近寄り、ずっと手の動きに注意していたのだ。
貴族だと大切にされた癒し手が攻撃魔法を学んだとは考えにくいが、国境に身を置き、騎士と付き合っていたから、教えてもらった可能性は高い。
途切れた鼻歌が再開しないことを残念に思いつつ、回収の手は貸せないが、カゴバッグを持とうと寄り添う。
帰りの道で、雇うときの給金に基準を決め、吊り上げに乗らないんだなと感想を伝えると、当然だと返ってくる。
頑張りや働きに見合った給金を設定しなければ、不平や不満につながり、理不尽な職場になると――騎士の給金半年分の月収を払ってると知ったら、どんな顔を見せるのか、胸の内で考える。
「三割増えたら私の基本給より高いのに、どんな宿に住んでるんだろ」
「あ?神子はギルドの責任者だろ。一番高いんじゃないのか」
「神子は関わる実務の少ないお飾りだから、基本給はそうでもないわよ。国からも世界樹を任された報酬があるし、住む館と家政婦と護衛は揃ってるから、責任者の中で一番安く設定しても困らないの。でも、渡す素材で歩合給が支給されるから、色々と院にも支援してて――」
エルーシアの言葉は、基本給はそのまま院内図書室へ寄付するとか、地方で患者搬送の馬車を昨年から増やしているとか、その前は付き添う家族が利用する宿泊施設を建てたとかに続き、ふと思いついて、考慮する内容に住宅手当を追加しようか考え始める。
耳を傾けていたルークは、下げたカゴバッグを覗き込む――日々癒されて喜んでいるのか、通い始めたときより落とす素材は倍ほどに増えているが、収入差を広げている原因の一つだった。
※ ※ ※ ※
昼食後は学びの時間だが、ロズは二日の間に溜まった手紙や荷の検閲に追われて館を訪れることはなく、鋭い目をしたルークの前で、エルーシアはインクの調合を行った。
使う器具はビーカーやガラス棒や計量器など、危険はないと告げても監視は続き、銀粉を混ぜたインクを仕上げたあと、熟れた赤レモンを絞る作業は、取り上げられた。
「このあとは魔法文字を刻む作業だけど……ずっと目の前で凝視する気なの?集中できないわよ」
クロードでもここまで心配はしない、少し離れた椅子で回復薬をポケットに隠して読書していた。ルークも何かしていてほしいと頼む――集中力を欠いたら、それこそ危険な場になる。
「サイフの図鑑はもうすぐ読み終えるんだ。ほかにも借りるなら……ベラトリか。いや、今はロズが借りたままだな。毒草図鑑を読むか……」
「あっ、ルークは手先が器用なんだから、まだ粉砕木箱に入れてないなら加工してみたら?道具は揃っているわよ」
思いつきにエルーシアは花のように微笑み、提案を聞いたルークは、急いで戻ると告げて宿舎に駆けた。
折れた剣の刃先を利用して、小刀の製作をするのだ。二十センチ、三十センチほどを利用するなら、魔法文字が残っていても、解読は無理。不安なら、赤レモン果汁で文字を潰してもいい。
ルーペを覗きながら、専用のピンセットに固定したグミの棘を操るエルーシアの向かいで、ルークも口角を上げて時を過ごした。
ヤスリで切り離して、研いで、革を巻いて持ち手と鞘を整えたら、まだ十分に使える――手持ちの小刀は川で紛失したから、ちょうどいい機会だったか。
設定小話
月桂樹は、花と葉で花言葉が違っていました。知らなかった
花→裏切り
葉→私は死ぬまで変わりません・愛の証
でも、厄除けにもなる枝葉は→栄光・勝利・栄誉
ローリエです。シチューに肉料理に魚料理、大活躍のハーブ……ルークは何を思い出して空腹感が刺激されたのか




