182 目の前で寝てるだけ
明け方が近づく中、ルークはぱらりと魔物図鑑のページをめくった。アルニラムは東街道で討伐経験があった、リゲルの図鑑は何度も目を落としていた。しかしサイフの知識は皆無で、読み進めるのに時間がかかっている。
別に気は焦っていない。身につけるため、じっくりと、余白を埋めるエルーシアの補足情報まで頭に入れる。
解毒方法を書いた読みやすい字を撫で、顔を上げると、ソファで丸くなり、ブランケットに顔をうずめて寝息を立てるエルーシアがいる。
ずっとここで寝ていたわけではない。先ほど交代して、瞼を閉じたばかりだ。
クロードを担ぎ込んで、意識ないままに治療し、魔力を満たしてカウチで昏睡させた。
朝には元気になるとの言葉で胸を撫で下ろし、翌日も任務のあるロズと、容態を確認しに訪ねたアクセルを夕食後に帰し、ベナットも部屋に下がった。
異変があったらすぐに対処できるよう、エルーシアが寝ずの番をすると言うので、ルークは付き添ったのだ。が、体も気も張る護衛、休むように促された。
一晩寝なくても平気だと伝えるが、なら昏睡させると手のひらを振りながら返され、五時間ほどソファで休んで、起きたとき、心配する優しい声を聞いた。
「訂正しないまま、残していかないでよ。朝には必ず目覚めてね」
皆の前では気丈に振る舞っていたが、不安を胸に抱えていたのか。一人で耐えてほしくなくて、やるせなさが広がった――起きたことを伝え、エルーシアも仮眠で休むようブランケットを被せ、寝るまでと、静かにぽつぽつ会話を交わした。
何を訂正するのか問い、父親ではなく、兄のように思っているとの告白に驚く。オアマンドと同じ立ち位置は、殺気を放つほどクロードは嫌がるはずだ。
「でも、仕方ないのよ。学生のころは何度もクロード宛の手紙を押しつけられたし、囲まれて騒がれるのも見てたの。カティもよく抱きつくし、父親って風に見えないのよ。十五しか離れてないもの」
「まあ、クロードは若く見えるから余計か」
「初対面で、年が近いって感想も持っちゃったし、実の兄の記憶がなかったせいもあるかもね。優しくて、時々厳しい、頼りになる理想のお兄さんって感じよ」
幼いころ、ベナットに先を越され、尻尾を追うのを見て、これが懐く原因かと考え、毛皮でつくった尻尾をベルトから垂らしたこともあったらしいと、寂しげに笑うのに寄り添って耳を傾けた――覚えていたら、大切な思い出になっていただろう逸話か。
昏睡中に話しかけて聞こえているのか尋ね、届いてほしいと呟き、瞼を閉じたのだ。それで、髪に祈りのキスをして、向かいのソファに移動した。
そっと物音を立てずにモウが現れ、サイドテーブルにコーヒーを置いていくので、ありがたく頂き、クロードの顔を確認する。ただ寝ているだけに見える。
これまで画策でどれだけ攻撃されたのか、皆の対処は滞りなく素早かった。
シャツを脱がされたクロードは、目立った傷痕のない、きれいな体だったが、この情報は当てにならない。手のひらと同じく、治療を繰り返してきたからだろう。
切なくなり、思わずため息がこぼれ、視線は自然とエルーシアに向かう。
「ルークの古傷も、奴隷紋と一緒に消せるけど、治療する?」
ふと思い出す、寝る前、二人きりになったときの問いかけ。傷痕のない背中を見ていたからか。断りの返事をした。魔物と対峙してきたのだ、とくに気にしていない。
背中を見ていたのは、この術で、きれいにしたい者がいるから――軽傷回復薬で消せるとして、どれほどの期間、塗り続けるのか。
ドングリの飾りが熱を帯びた気がして、カップから手を離し、胸もとを押さえる。目の前で寝る姿や寝息に異変はないが、ちりりと確かに熱くなり始めている。
図鑑を残して駆け寄り、肩を揺らす――寝入ったばかりの睡眠を邪魔したいわけではない。しかし、これは、悪夢の前触れだ。叫んでほしくない。
「エル、どうした。エル、少しだけ起きてくれ。エル?エル?」
「ん……ベナット……あれ、ルーク?」
夢から覚めたことに安堵し、邪魔したことをルークは謝る。まだ三十分も寝てない。
「今度は起こさないから、もう一度寝直してくれ」
「大丈夫。ちょっと苦しい夢だったから、このまま起きてるわ」
エルーシアは小さく首を振って眠気を追い払うと、クロードの容態を診て、モウを呼び、蜂蜜入りのミルクを頼む。
起こしてしまったが、本当にこのまま睡眠不足にさせていいものか、ルークは心配そうに顔を覗く。しかし、寝るように強要するのも怖い。
「ありがとう。もしかして、叫びそうだった?」
「ああ、ドングリが熱くなり始めたんだ……妖精も、何か感じているのか?」
ルークが気づいて示すのは、暖炉の上に飾ってある花に止まっていたはずの妖精。ぐるぐる飛びまわっている。
エルーシアが手を伸ばして呼ぶと、ふわりと乗り、魔力を少し流してあげると花に戻った。
「少し困った表情ね。あの子も関わった夢だからかな……溺れたときの夢を見て、図書館の夢に変わったところだったの」
「川に流された夢でも叫ぶのか?」
「叫ぶときはいつも同じだけど、その前に、落ち着かない夢をころころ見るの。今のは、沈んだ川底から助け出されたときの夢よ。水中だと、ルークの瞳が不思議とベナットに重なって……たぶん、走馬灯を見ながら流されたからね」
モウから渡されたミルクを飲みつつ、いつもの夢の一片だと、なんでもないことのようにエルーシアは説明するが、ルークは腑に落ちないと眉間にシワを寄せる。
「オレがエルを見つけたのは、水中の川底じゃない。川岸だ。目が合ったのも、抱き上げてからだ」
「えっ?でも、水中で腕を引っ張られて……色々と見すぎて、現実と夢が混ざったのかな」
こんなことは今まで経験がない。未知の感覚に身をぶるりと震わせ、それを見て、ルークは優しくブランケットを肩から掛け直す。
発見したときも、そのあとも、人影なんてなかった。今から調査をしても、痕跡を見つけるのは無理だろう。なら、不可解なことも、走馬灯も悪夢も、遠ざけたい。安心させたくて、温かに包んで背中を撫でる。
すぐ裏が森だからか、夜中に雨が降ったからか、窓辺に置いた冷凍木箱は蓋を閉めているが、明け方が近づくにつれ、室内の温度は下がっている。震える原因が多い。
不安を煽ることが多すぎるのだ。目の前で寝るクロードのように――
※ ※ ※ ※
――あちこちぶつけたようで体中が痛くてルークは起きるが、何があったか分からない。一番の激痛を伝える右胸を押さえると、ぬるりと嫌な感触が手のひらに伝わる。
首の痛みを我慢して視線を向け、破れて赤く染まったシャツと、先に転がって寝る獣人の背中で思い出す。短角の灰赤ぶち大牛だ。予想外にいきなり飛び出してきた。
なぜ二人だけで転がっているのか、ほかの二人はどこか。視線を巡らせるが、探せない。確か、あとは任せろ、火炎を放て、すぐにとどめを刺すとの声で魔法を発動したはずだ。
魔力切れから目覚めるまで手当てもされないということは、捨てられたらしい。
痛みを我慢して息を深く吸い、リュックまで這って中身をかき出す。ぼろ切れのような靴下に隠した回復薬は、割れてない。よかった。
一本しかないが、二人で分けるべきか。一人で飲むべきか――別に見捨てても、気になる奴じゃない。
「三人じゃ請けられない、荷の配達の要請が出てるんだ、リゲルまでついてこい。新人のときは、冒険者の生き方って奴を先輩に教わるもんだぜ」
「荷物持ちをする気はない」
「荷はギルドのロバが運ぶから、俺たちも半獣人に預ける気はない。討伐だけ協力、魔核は全部こっちの物だ。レイク、それで手を打て」
ギルドに登録して、すぐに国境警備を請けた。手持ちの金がなかったのと、他者の戦技を見たくて――依頼を終えたギルドでの、初めて会ったときの会話を思い出す。
荷の引き渡しを終えたあとも引き止められ、一緒にいるのに、まだ名も覚えない奴だ。だが、声をかけてくれた。お陰で知る情報が多かったのは事実だ。
ロバが引く荷車の木箱の山、なぜ要請で荷の配達があるのか。運送ギルドに頼めばいいと思ったが、中身は魔石とのことで、獣人を使い走りにすると、話し好きのようで聞くより先に教えられた。
騙された獣人たちが過去に暴動を起こし、以降ギルド口座の管理は信頼できること。早春の嵐のあとは、東街道で神子の遠征が見られること。三国国境の森は旨味が多いことも、こいつのおしゃべりから知った。
このまま見捨てたら後味が悪くて、なんとか体をずらして服を引っ張って顔を向ける。が、遅かった。光を失った瞳に、だから置き捨てられたのだと理解し、瞼を被せる。
回復薬の栓をあけて一気に喉に流し込む――ほかの二人は、討伐を終えて去ったのか、手に余ると逃げたのか。無事か。奴らとの会話も頭に過る。
「なんだよ。魔道具に補充してほしかったのに、俺らと同じでできないのかよ。兄貴、今からでも戻って、ほかの新人に声かけようぜ」
「うちら兄妹と違って火炎は放てるんだ、爆弾が切れたときに助かるじゃないか。これから仲間になるんだ、公私ともによろしくな」
「半獣人だぞ、仲間になんて思えるか!妹に指一本でも触れたら、酷い目にあわせてやるからな――」
魔物に襲われないまま、魔力切れの昏睡から目覚めたのは運か、次も目覚めることはできるか。無事では済まないだろうが、もうこれ以上は動けない。
ただ寝ているだけに見える目の前の獣人。同じようになるかも知れないが、何も考えたくないから、目を閉じる――
※ ※ ※ ※
昏睡から十三時間が経ち、モウが朝食の配膳を始めたころロズも再び館を訪ね、皆の前で目を覚ましたクロードはすっきりとした顔で、問題なく全快しており、囲んで朝から報告会になった。
怪しいやり取りはバーニーの前で行いたくないので、ハリエットと二人、今日は自室で食べてもらう。
「右の腰に、毒針を刺されたのよ。早くに回復薬を飲ませたのがよかったわ」
「毒の強さは?」
「耐性がなくて処置が遅れれば、呼吸困難で一時間くらいね。ロズが駆けつけて飲ませてくれたのよ」
「頼りになる部下がいて助かりましたね。最善の対処、感謝しますよ、ロズ」
「終業の挨拶に寄ったら、隊長が倒れて騒いでて……自分の鞄に回復薬があっただけです。でも、これからは、絶対に常備します」
催眠不足のエルーシアと病み上がりのクロードの前にはリゾットしかないが、皆の前にはほかにも、芋とベーコンのガレットや、レバーケーゼをのせたバゲット、チーズオムレツやミートボールなどの皿が並んでいる。
カチャカチャ取り皿に盛りながら、ベナットは目を鋭くさせた。
「自分は、呼ばれて駆けつけた。クロード隊長、取調室で、何があったんだ」
「報告を受けているときに、真実の椅子に座っていた騎士が暴れて取り押さえに加わったんですが、どさくさに紛れて、ちくりと刺されたようですね。誰が刺したのか、あの場にいた全員、これから呼び出して座らせますよ」
「命を狙われたんだぞ。のこのこ顔を合わせて、無事で済むわけがないだろ」
病み上がりだ、取り調べは他者に任せるべきだとルークは口を挟むが、一時間で命を落とす毒を刺したのに、平然と姿を現したら、敵を震え上がらせて動揺を誘えると、涼しげな笑みを向けられる。
これが場数を踏んだ者の対処方法か、強がりや無理をしているようには見えない。ルークだけでなく、ロズも顔を強張らせた。
そのタイミングで倒れたなら報告はまだだろうと、ガリーナとの会談内容や、神妙な面持ちで館を離れたから好感触だとか、次は院を説得だとか、部屋の前に宅配の木箱を置いたなどを伝える。
耳を傾けながら、ぺろりとクロードがリゾットを食べるので、食欲があるならレバーケーゼも食べるようエルーシアは勧める。
「シャツについた血はわずかだけど、怪我もしたんだから、私の魔力だけに頼らないで栄養もとってよ」
「栄養……だから、副料理長もよく遠征で出していたのか。なら、エルも一切れ食べてくれ、寝てないんだぞ」
「私はリゾットだけで――」
「これから森を歩くんだぞ。倒れたらどうするんだ。レバーケーゼは嫌いじゃないはずだ、食えるだろ」
譲りたくない真心たっぷりの眼差しを向けられ、断ると口に運ばれると理解して、取り皿によそってもらう。ふらつきでもしたら、森の中を抱きかかえて歩きそうにも思えてくる。寝ていないのを、ばっちり知られているから。
このあと王城に向かうので、昼食にするため残った料理を竹カゴに詰めるクロードは、食の改善はいい具合だと口角を上げる。
設定小話
魔石の運搬。狙われ、盗まれそうだけど、被害にあわない
入手しても、種類の見分けは難しく、届ける工房の情報は知らず、売る先がギルドしかない
数個なら魔道具が壊れたと誤魔化せても、大量に持ち込めば犯人はバレバレ……即捕まる




