136 夏は情熱を育む季節
多くの感情と悩みを胸に渦巻かせ、ため息をついてアイリスの花を眺める。今夜、机上の花ビンに加わった可憐な花も、瞳と同じ色。
想いを伝えられるたびに胸が高鳴って、望みたくなる。この恋心は一時の同情心ではない、深く深く根付いている。でも、簡単には応えられない。
ルークは多くを与えられたと感謝するが、与えたつもりはない。感謝するものは、差別のない世界だったら、手に入っていたものだから――与えたわけじゃない、初めから持っているべきもの。
神子の世界に深く足を踏み入れた者に与えられるのは、苦痛と苦難。待ち受けるのは、悲劇。
今は真新しいことに触れ、驚きに感情が揺さぶられているかも知れない。しかし、いつかは窮屈な環境だと息苦しくなる。
よく知りもしない他者に噂され、敵意を向けられて攻撃につながり、自由に外出もできなくなる。
手放したいのに、手放したくない、留めておきたい。この恋心の先をよく考えなくてはと思うのに、目の前に広げたお告げのノートや文献、増えていく書き付けは、それを許さない。
増え続ける問題の対処方法を考えなくてはいけない。答えを先延ばしにする甘えにも、心苦しさは生まれる。
もう何日も鼻歌を口ずさんでいない。あの幸せな気持ちに、触れていない。そのうち、おぼろげな記憶になって忘れてしまうかも知れない。
でも今は、歌えない――デルミーラは添う人を見つけるようにと告げていたけど、そう簡単には、望めない。
※ ※ ※ ※
そろそろシャワーを浴びる時間か、蓋をあけたままサイドテーブルに置いた懐中時計を確認して、読んでいた指南書を閉じ、何気なく館に視線を向け、これまで明かりの灯ることのなかった二階の窓にちらちらとした明かりを見つける。
何かあったのかルークが窓辺に寄って眺めていると、ランタンの明かりを増やしたか、より眩しく輝き――向かいの部屋の方から、何かが倒れる大きな音が響いた。
クロードも異変に気づいたか、何を意味するのか理解できるだろうと、廊下に出てノックする。
こんな時間に誰だと呟く声に名を返すのや、鍵をあけるまでの時がもどかしく、扉から顔を覗かせるのと同時に、何があったか問う。
「ああ、すみません。椅子を倒しただけですよ。耳がいいから驚かせてしまいましたか」
「そうじゃない、館の明かりだ。クロードもあれに気づいたから、驚いて椅子を倒したんじゃないのか?」
わずかに息をのみ、悲しそうな瞳を見せたあと、ソファを勧める。楽しい酒ではないが付き合うかと、倒れた椅子を直し、書き物机で飲んでいたであろうウイスキーとグラス、棚からもう一つのグラスを取ってテーブルに置く。
窓から見える館の異変が気になり、勝手な行動だが断りも入れずに開き、かすかな音色を拾う――機械的だが、ここ最近、口ずさまなくなった鼻歌と同じ旋律。
「エルの鼻歌と同じ……オルゴール?曲が聞こえるが、大丈夫なのか」
「ああ、あれを聴きたくなりましたか……心配は不要ですよ。あの子も、デルミーラを偲んでるだけです。あの明かりのついた部屋は、デルミーラの部屋ですよ……もう会えないのは理解しているのに、期待してしまうものなんですね」
クロードは小さく笑うとソファに腰を下ろし、飲みかけのグラスをかかげる。瞳は悲しさを含んだままだが落ち着いた様子で、ルークもソファに身を預け、満たされたグラスを手に取った。
愛しい人の墓参りをした晩だ。胸に秘め、思い返すことも多いだろう。望むなら、付き合うべきだと。
「あのオルゴールは、昏睡から早く目覚める切っ掛けになればと、デルミーラがつくらせました。この世に一つしかないものですよ」
「やっぱり、この曲もあっちのものだったか」
レイの奏でる曲は不思議なものだった。エルーシアの鼻歌もそうだ――あっちで聞いた曲だろうと、ルークは考えていた。
クロードは考えを肯定するように、音楽家を呼んで鼻歌を譜面に起こさせ、リゲルの工房に特別注文したオルゴールだと説明する。
「癒しの魔力を扱う想像を掴んだあと、理解も早くなって、簡単に無詠唱で放つようになりましたが、癒し手になったころでしょうか、鼻歌を口ずさみ始めて、威力が一段と上がりましたよ。放つ魔力に気持ちまで乗せた、誰も身につけることのできない技術です」
威力が上がり、国内の瘴気溜まりが減り、北西の国境や亡国ベテルの地も目に見えて落ち着き始め、この鼻歌の曲を流せば昏睡から早く目覚め、悪夢で叫ぶこともなくなるのではと期待して、オルゴールを製作させた。
昏睡中、曲を流し続けたが望んだ効果は得られず、叫んで目覚め、オルゴールの音は混乱を煽って泣かせることになった――世界が異なると理解するのを邪魔して、混乱をより大きくしたのだ。
「長いこと仕舞っていたはずですが、あれも、デルミーラが残した愛のかたちの一つなので、懐かしくなったのでしょう」
「最近、鼻歌を口ずさまなくなった」
鼻歌で幸せそうに微笑むのに、エルーシアはそれを止めた。意味を知りたいが、悲しげに断られたのだ、詮索はできない。
かすかに流れてくる曲にルークがため息をつくと、そんな気分のときもあると、クロードの耳では聞こえないが、館の明かりに視線を向ける――懐かしんでいるのではなく、聴きたい心境になったかと。
「急がず、理解を深めなさい。夏は始まったばかりですよ」
「夏?意味が分からんぞ」
眉間にシワを寄せるルークに、クロードはなぜか笑みを見せ、最後の一口を喉に落として話題を変えた。アクセルの無礼を謝罪し、噛みつく余裕がなくなるから気にせずにいてほしいと告げる。
「あいつに何を言われても構わない。犬でもペットでも歓迎してやるが、館に寄る暇もないくらい忙しくなるのか?」
「いいえ、陛下に進言してきました。望みはなくなったので、見合いでも何でも進めるようにと。彼は独身を貫くことの許されない身ですからね、陛下も考えるでしょう」
自身が望んだわけでもないのに王兄は婚約を決められ、破綻し、それゆえ陛下も望まぬ縁を結び、争いの種がまかれたのだ。同じ悲劇が起こらぬよう、陛下は利害だけで結ぶ縁を嫌い、連なる者たちの婚約に口を挟むことを避けていたが、アクセルの望む縁はもう来ない。
この夏、アクセルは夜会や茶会に出席し、次期筆頭公爵として、釣り合う身分の女性に目を向けることを強要されるはずだと、冷めた顔になる。
「顔も見ずに、勝手に決められないので恵まれていますよ。群がる女性は多いですから、その中から恋の相手を選ぶだけです」
ふと頭を過る、諦めの苦しさ。どれだけ町中を探しても望む者はいないのだと考えていたが、あの苦しさを押しつけている。望む者はあの部屋にいると、館の明かりを見つめる。
だが、側を離れる気はなく、大切にしない奴に遠慮する気もない。それに、尊大なアクセルは同情を受けつけないだろう、尻尾のある者からなら、とくに。
「それなら、もう警戒する必要もないのか?過去に何をやったのか尋ねようと思っていたが……」
ルークが視線を移すと、眠たそうな顔を窓に向けている。瞼は重そうであり、うっとりとしているようにも見える。
「……今夜はあの明かりを眺めながら寝たいので、私のことは気にしないでください。寝室には、入らないで……好きに飲んだあとは、部屋に戻って……」
寝息を立て始めたクロードの手から空のグラスを取り、寂しさから、二杯三杯と一人で飲んでいたのだと気づく。部屋の片隅にある木箱には空の酒ビンも数本あり、これが習慣なのだとも。
遠征では体の疲れから眠れても、王都では酒の力を借りないと眠れないのだろう。
「なら、エルを失ったら、オレは眠ることもできなくなるな……魔力切れで昏睡するか」
王都を離れてそんな寝方を続けたら、魔物に襲われて命を落とすだろうが、愛しい人を失ったあとの苦難の道を歩むよりはマシか――いや、失わないための術を身につけるべきだ。
エルーシアに誓い、最上の神子にも報告した。世界樹の悪夢も、画策も、これから現れるであろうレイの野望からも、この先にどんな困難が待ち受けていても必ず守ると、グラスをあおる。
※ ※ 注文の多い花屋 店主の一日 ※ ※
店の開店は周辺施設の通勤時間にあわせているが、準備は山のようにあり、店に入るのは朝日が昇るより前。
この日も、いつものように出勤して、従業員たちが指示どおりに届けた花を種類ごとに桶に挿し、通勤しながら求められるであろう職場に飾る用の花束を幾つか用意し、水仕事で荒れた手に、最近購入した軽傷回復薬を塗り込んでいるとき、扉をノックされた。
気の早い客の来店だとため息をつき、対応で扉をあけると、常連さんが飛び込んできた。
あれこれと注文の多い客だが、ずいぶん長いこと店に通ってくれている。二年前から通う頻度は落ちたが、ほかの常連をつくってくれる大切なお得意さんであり、有名な騎士である。
連日のようにバラを一輪買って走り去る騎士や、深読みされないよう適当な花を束ねろとか、本気の愛を伝える花を束ねろと偉そうに注文する騎士は、この客の部下だ。
「営業時間前なのは承知ですが、昼までにリースをつくっていただきたいのです。お願いできますか?」
物腰は柔らかくて丁寧だが、怒らせると怖いと知っている。この騎士が通い始めたころは女性従業員もいたが、惚れ込んで言い寄り、人の恋路を邪魔するな、店主なら対処しろと殺気を帯びた目で睨まれた。
二度とこの騎士から睨まれたくなくて、あれから従業員は男性しか雇わなくなった。この騎士目当てに通う客もいたが、客のことまでは対処を求められず、安堵したものである。
「どのようなリースをお求めですか?」
「季節は問わず愛を告げる花々で埋めて、できれば毒を持つ花を中心に、大きさはこのくらいで――」
要望をメモにとり、今日仕入れた花の種類を思い浮かべ、リースの仕上がりを簡単に描く。
どの花をどこに配置するかを書き足していると、ポケットから茹で卵を取り出して食べながらメモを覗く。花屋で飲食する客は初めてだが、受け入れる――まだ開店前だし、殻を落とさないからいいかと。
仕上がりに一つ二つと注文を足し、これもリースに加えてほしいと、ドライフラワーになったミモザを一枝取り出した。生花でミモザはあると告げるが、これには意味があると返され、受け取る――持ち込みは聞いたことないが、一枝加えるくらいなら許容範囲。追加料金も払うらしい、ありがたい。
昼時にまた来ると出ていくのを見送り、開店準備に戻り、店をあけ、数人の常連さんに花を売り、最近通い始めた半獣人の客も迎える。
「今日はこれをもらえるか」
「今日も花かんざしに仕上げますか?」
頷く返事を受け取り、ジャーマンアイリスから不要な葉や枝を落とし、切り口を小さな綿で包んで水を含ませ、テープを巻く――いつも手もとを見つめられるが、何が気になるのか。髪に挿すと聞いたから、怪我をさせないように引っかかりは残さず気をつけているのに。
いつも同じ色の花を選ぶが、贈る相手の好きな色か、瞳の色か、この客のこだわりか。口数の少ない客だから詮索はしないが、上手く仲が進めばいいと思う。
若いころに他国の花を学びたくてリゲルとサイフを旅して、瞳の色で理不尽な扱いを受けた経験がある。
数年前に読んだ新聞に、獣人や半獣人は魔法で腕力があると書かれていた。それで、彼らへの差別も理不尽なものだと知り、応援したくなった。
朝一番にきた有名な騎士の紹介で常連になった獣人の騎士は、結婚して神子の館に住んでいる。今でも年に数回通うが、粗暴さは欠片もなく、口数が少ない――獣人や半獣人は寡黙な者が多いのか。いや、尻尾のある冒険者は、騒ぐ荒くれ者が多い。
ここでふと気づく。通い始めたころはケープで隠れていたから服も尻尾も気にしていなかったが、目の前で手もとを見つめる客も、鍛えていそうな体に、服装は冒険者風。
「お客さんは、まさか冒険者ではないですよね」
「いや、冒険者だが」
そうですかと一言返し、荒くれ者と考えていたのも偏見だったと気づかされる。瞳の色や人種だけでなく、職種でも差別するべきではないようだ。
仕上がった一輪の花の代金を残して半獣人の客は足早に出ていくが、嬉しそうに尻尾が揺れるのを見ると、順調な恋の手伝いをしているようで嬉しくなる。
通勤途中で花を買う客も落ち着き、従業員たちに休憩をとらせ、リースづくりに没頭して仕上がったとき、一人の若い騎士が訪れる。
初めて見る顔だなと思いながら対応し、騎士服の襟で補充隊員だと気づく。少し前に噂されていた、第三からの派遣なのに補充隊員に選ばれた騎士だ。有名な騎士の部下にあたるから、紹介されたか。
「バラの花かんむりが欲しいんですけど、お願いできますか?」
「バラでしたら種類も色も多いですが、どれがいいですか」
バラの花を並べた棚に案内して説明するが、顎を撫でながら悩み始めたので、愛を伝えるなら赤が一番だと教え、恋心ではなく仲良くなりたいだけだと返されて、小輪の薄紅色なら可愛らしい花かんむりになると薦める。
今日はそれでお願いしますとの返事に、常連になってくれそうだと、張り切って腕を振るう。
「あの花の花言葉を教えてもらっていいですか?」
待つ間が暇で店内を見まわしていた騎士が指差すのは、色とりどりのジャーマンアイリスを挿した桶で、情熱だと教えると、なぜか感心したような表情になる。
アイリスがどうかしたのか尋ねてみる。もし騎士の間で流行っているなら、仕入れを増やすべきだ。
「さっき馬車の準備で訪ねたら、髪に挿していたんです」
「髪に……もしかして騎士様は、黒髪の半獣人の方とは、お知り合いですか?」
「はい。ルークさんも、毎日ここに通ってるんですよね」
意外なことに、半獣人の冒険者は騎士と懇意のようだ。いや、それより気になる。補充隊員が馬車の準備をして、髪にアイリスを確認したとは、誰の髪なのか。
館を出入りするバイトは未成年しかおらず、家政婦は獣人の騎士と結婚しているはずだ。
「……花かんざしをつけておられるのは、もしかして……」
「神子様ですよ。今日も瞳と同じ色のきれいな花で、よく似合ってました」
「……まさかと思いますが、この花かんむりも神子様に?」
「いいえ、これは違います」
安堵していいのか緊張すればいいのか、小刻みに震える手で花かんむりを仕上げていると、有名な騎士がリースを受け取りに来店した。
「おや、ロズもここに……それは、デルミーラ様の墓前用ですか?隊員は用意しなくてもいいのですよ」
「あっ隊長、これはモウさんにです。花かんむりだけ渡したら門前に戻ります」
代金を払って、ロズと呼ばれた騎士が花かんむりを持って足早に店を出たので、震えのまだ治まらない手で有名な騎士に仕上げたリースを渡す。
「顔色が悪いですが、何か聞きましたか?ロズは素直ですからね」
首を横に振る選択しかない。何も聞いてないし、何も知らない。騎士にも、貴族にも、恐れ多い神子様にも、深く関わるべきではない。ただの庶民で、ただの花屋だ。
震える手を祈るように握ることしかできない。
「この店は立地だけでなく、あなたの人柄が良くて隊の者たちが多く通いますが……噂になるには、まだ早いです。黙っててくれますよね」
こくこく頷くと、涼しげな顔で多めの代金を残して有名な騎士が去り、腰から力が抜けたので、床に座りながら午後の店は従業員に任せようと決める。
軽傷回復薬を箱買いすべきだ。荒れた手ではなく、明日からは万全な手で、わずかな引っかかりもない花かんざしを仕上げねばならない。仕入れの指示も追加すべきか――淡藤色の愛にまつわる花を途切らせてもいけない。
設定小話
花屋の店主。まったく別の視点ですが、楽しんでいただけたら幸いです
もっと短い構想だったのに、思ったより長くなりました
あれこれ注文の多さに振りまわされてますが
クロードやアクセルに近づきたくて通う女性客で繁盛し
庶民から辺境伯家の一員になったジェイの幸運にあやかりたい男性客で繁盛し
店は大きく改装して、店主は幸せです




