118 事業と寄付
カップの割れる音を聞き、洗濯室から居間にきたハリエットが目撃したのは、エルーシアに抱きつかれ、目を見開いて両手を上げているルークだった――昔よく、カティにつきまとわれたとき、引き離せずにクロードがとっていた仕草。
エルーシアの行動にも驚くが、ルークの仕草にも驚きであり、思わず頬が緩む。
「エルーシア嬢、お目覚めで安心したのは分かりますが、ルークさんがお困りの様子ですよ」
後ろを追って居間にきたバーニーを抱き上げると、ハリエットはキッチンに向かった。二人の邪魔をしたくない想いと、カップとミルクを片付けるようモウに指示するために。
声をかけられて慌てて体を離したエルーシアは、赤くなっているであろう顔を背け、軽率な行動を謝る。が、ルークには、まだ身に起こったことが理解できない。
「オレは……何かの毒で、変になっているのか?」
目覚めたばかりだが頭はすっきりし、寝ぼけているとは思えない。しかし状況が掴めず、幻覚を見る毒でも飲んだか、頭を強く打って、治療後に混乱でもしているのかと考えを巡らせる。
「あの、魔力酔いで倒れたんです。塔の上で……覚えてますか?」
「塔の……ああ、迎えにいこうと、のぼって……そうか、魔力酔いしたのか」
「クルルに運んでもらって、もうすぐ八時間になります」
エルーシアに会うまで、癒し手の治療を受けたことはない。よって、魔力に酔ったのも初めてだった。日々の疲れも癒されたらしく、体も軽く感じる。
カウチに寝かされていた状況は理解できたが、大きな謎は残る――なぜエルーシアが抱きついてきたのか。
泣かせたことや抱きしめたことを謝りたいと直前まで考えていたからか、目覚めた直後に泣いて抱きつかれて、思わず手が上がった。抱きしめ返しては、いけない気がして。
胸にはエルーシアのぬくもりが残り、今さらながらに鼓動が速くなる。
「魔力酔いで、どんな影響が出るかも分からないのに……本当にすみません」
「ああ、そういうことか。心配……してくれたのか」
ようやく腑に落ちたと、ルークが心配されたことへのむず痒さで口角を上げ――エルーシアは奴隷紋や体に異変はないかと確認し、説明を続けようとするが、モウがバケツや雑巾などの掃除道具を抱えて居間にきたので、片付けの邪魔にならないようテーブルに移動し、説明を再開。することは、叶わなかった。
玄関扉がノックの音を響かせ、来客を知らせたのだ。ノックのあと開くことのない扉は、騎士隊以外の来客の印。エルーシアが対応で扉をあけると、ポーチに青年がいた。
「神子様、お久しぶりでございます。治療院から戻られたとベナットさんから聞き、伺いました」
「あっ、ランベルト。ごめんなさい、約束してたのよね」
「来客中でしたか。日を改めましょうか?」
「いえ、呼び出したのは私のほうよ。中へどうぞ」
エルーシアはルークを護衛だと紹介し、ランベルトと呼ぶ青年のことも紹介した――資料管理部の者でクロードの部下、転生者だと知らされている一人だ。
知ったうえで、色々とエルーシアの支援や事業の手となっている。
「ルークには、私のしている務めをすべて教えるつもりです。同席させてもいいですか?」
「魔力研究の協力者ですよね。クロード室長より、信頼のできる者だと伺っています。私に異存はありません」
椅子を勧め、エルーシアはモウに片付けの礼を告げて飲み物を頼むと、棚から幾つかの書類を取り出してテーブルに着き、ランベルトも鞄から束になった書類を取り出して広げた。
「手紙にも書きましたが、保育園を領地につくりたいと考える貴族から問い合わせがあります。それで、王都にもう一箇所、開設してはいかがかと思いまして」
「開設を手伝わせて、人材の教育と施設の理解を深めるのね」
「はい。運営中の保育園の人材を分けて、新たな募集もかけます。職員に求める知識は冊子にまとめて学びやすくして、希望する者たちに配ろうかと」
広げた書類は、貴族たちの名が連なったものや、冊子に記載する内容や開設場所の候補などが書かれている。
二人のやり取りの邪魔にならないようにと、黙って耳を傾けているルークへ、エルーシアは簡単に保育園の説明をする――幼い子を預かる施設で、会員登録したら週に三回は無料で利用でき、規定の料金を払うことで、それ以上の利用も可能だと。
「なんのために子を預けるんだ?孤児院があるだろう」
「幼い子を抱えて働く親はいますし、預ける人がいなくて職を選べない親もいます。体調を崩しても、幼い子がいると休むことも難しいので、そんな時にも利用できる施設なんです」
人材の教育を終えて、年明けに開設したばかりの今ある保育園は、第一治療院の近場で、利用者の多くの親が治療院に勤める者たち。
前世で利用したことのない施設だが、バイト先の常連客で通う者は多く、需要が大きかったのは覚えている。ハリエットがバーニーを抱えて働く姿から思いつき、おぼろげな知識から手探りで運営中なのだ。
「週三日以上預ける人が増えて、赤字も減りました。それで思ったより早く、領内の働き手を増やせると気がついた貴族が関心を寄せています。ですがルークさんのように、孤児院と混同する方も多くて、批判の声もあります。働くために子を捨てるのかと……孤児院も、そう悪くないんですけどね」
どういう意味かと視線を向けているルークに、ランベルトは爽やかな笑みで説明する。孤児院の出身であり、院の内情はよく知っていると――クロードに夢と腕を買われて、文官になったのだ。
王城で勤めるには、しっかりとした身元保証が必要で、孤児が文官になるなんて通常ないが、クロードが保証人となり、その下で思うがままに世を変える手伝いをしている。
「ランベルトは、孤児院を出た者たちが職に困らないように、学生のうちから準備できる事業も運営しているんですよ。孤児たちが騎士宿舎や館でバイトしてるのも、就職の準備なんです」
「飼い葉を与えるバイトが、就職になるのか?」
ルークは不思議に感じるが、馬の世話を任される職業は多く、騎士隊の馬を世話した実績は評価されやすい。宿舎の掃除や洗濯もだ。
今は長雨の時期に入って派遣されていないが、普段は館の庭木や薬草園の手入れも担当のバイトたちに任せ、ほかに買い出しや配達なども頼んでいる。
本格的な勤めとは異なるが、携わることで、その道に進むかどうかを選択する判断材料にもなり、経験は、いずれ就職や転職するとき役に立つ。
「開設資金は神子様の支援で、私は意見を取り入れて運営しているだけです。卒業して孤児院を出るときの準備金も蓄えられるので、皆に喜ばれ、今は十六歳以上なら孤児に関わらず受け入れて、多種に派遣していますよ」
「新しい保育園の準備にも、何人か派遣してください」
「それでは見習いで募集をかけます」
「あと、新しい事業の相談に乗ってもらえる?」
エルーシアが書類を並べ、ランベルトは手に取らずにテーブル上で書類に目を通し、ルークも脇から読んだ。
新しい事業は、衣装と宴会場を提供する結婚披露宴。ウエディングドレスの試着に付き合った夢から思いついた事業だ。
「結婚披露宴……ですか?」
「貴族や裕福な者は、パーティーを開くでしょ?でも庶民の結婚は、ドレスでパーティーするわけじゃないから、衣装と会場を提供して、特別な日を祝えるようにしたいの」
「庶民も親族や友人を集めて、食堂や自宅で祝いますよ……これは、参加者の皆に、衣装を提供するんですか」
「結婚する二人によ。ドレスを購入したり仕立てなくても、着飾って特別な日を祝えるようにするの。ドレスを身にまとって教会で結婚して、そのまま会場に移動して披露宴を開くのよ」
ドレスは決して安いものではなく、貸衣装も庶民には一般的ではない。借りても、着ていくところがないからだ。しかし、結婚披露宴と一式のサービスなら、その日の思い出に利用しやすくなる。
会場も雑多な食堂ではなく、ホールを準備すれば、希望に添って色々とアレンジもしやすい。
「あっちでの結婚は、そんな感じなのか?」
モウが運んだ茶を飲みながら、初めてドレス姿を見たときのことを思い出し、ルークは尋ねる。エルーシアの変貌に息をのみ、アリッサとのダンスに目を奪われたのだ。
普段ドレスを身に着けない者が着飾れば、確かに、印象深い特別な日になる。
「あちらで、ウエディングドレスに憧れる女性は多かったです。白が主流でしたが、ほかの色のドレスも揃っていて、何度も試着して決めるんです」
「女性の憧れですか……ですが、問題点は多いですね。ドレスは高いですし、サイズや数を揃えるのは難しいです」
「私が持っているドレスをすべて提供するから、多少のサイズ違いは調整できるデザインに補修して、あとは徐々に数を増やすのは?」
神子として王城の催しに参加する必要があり、年に何着か仕立てるが、二度三度と同じドレスを身にまとうことはない――例外は、先日着用した、隊の皆と行動するときの深緑色のドレスだけだ。
「神子様のドレスを、庶民が着回すんですか。面白いですね、それだけで話題になります。新品にこだわらなくていいのなら、ほかの貴族令嬢にも声をかけてみます。着れなくなったドレスの一着や二着はあるでしょう」
「そうね。貴族から不要になったドレスやスーツの買い取りをすれば、サイズも数も揃うわね。あと、料理は近場の食堂に協力を仰いで配達させれば、会場に調理場は必要ないし、利用者の選択肢を増やせるわよ」
「でしたら、人材は針子や洗濯婦、着付けと給仕と管理人……会場に打って付けの場所がありますので押さえます」
人材や設備、初期投資の額や開業の時期などを大まかに決め、次にエルーシアは、南西の街に滞在しているときに届いた一通の手紙を出した――山羊を贈った教会からの手紙だと口にする。
教会への贈り物として、山羊を選ぶのは不可解だと思ったのだろう、ルークが訝しげな表情になり、ランベルトが手紙を読む間に、エルーシアが説明する。
「孤児院が併設された教会なんです。去年の遠征で立ち寄ったときに、乳飲み子のミルクに困っていたので、山羊を贈ったんです」
「ミルクが欲しいなら、山羊より牛じゃないのか?そっちのが量があるだろ」
「幼い子には、牛のミルクよりも山羊ミルクのほうが体に合ってるんです。それに、山羊は飼うのも難しくないので、重宝しますよ」
「そのようですね。ずいぶん助けられたと手紙にありますが、何を思いつかれたのですか?」
手紙を返すランベルトに、エルーシアはほかの教会にも山羊の寄付をしたいと告げる。今現在は必要としていなくても、いずれ必要なときが訪れるかも知れず、孤児以外にも、乳の出が悪くて悩む母親もいるからだ。
必要になったときに慌てて用意するより、教会に無償提供できる山羊がいれば安心できる。
「山羊の管理を教会に頼むことになりますが、その理由でしたら反対意見は少ないと思います。夏の間に根回ししておきます」
「お願いします。あっ、あと、孤児院に遊具の寄付も考えています」
「数年かけて、初等学校に寄付した遊具と同じ物ですか?」
エルーシアは頷くが、ランベルトは遊具の寄付は難しいかも知れないと、眉をひそめた――初等学校への寄付は三年前に終えているが、まだ文句を口にして騒ぐ者がいると。
だが、広げた書類を鞄に仕舞うと出された茶を飲み干して、意に添えるよう努めると言葉を残し、館をあとにした。
「色々と支援や寄付をしてるとは聞いていたが、思っていたのとは、ずいぶん違うな」
以前ちらりとクロードから聞いた話でルークが予想していたのは、気になる事業の主に小切手を渡して終わりで、発案して、人に事業を頼んでいるとは想像していなかった。
「小切手を渡すだけの支援もしていますよ。大体が、ランベルトが持ってくる話ですね……私の事業は、利益を考えずに継続を狙っているので、運営しやすいとは言ってくれますけど、思いついたことを丸投げしているんです」
そもそもの始まりは、ハリエット以外の家政婦の派遣を断ったことだった。モウが家事を手伝うとしても、そのほか全部を一人に任せるには荷が重すぎた。
当時はまだ、モウも調理を覚えていなかった。広い館に広い庭、手がかからないとはいえ幼い子や神子が住み、隊の者が始終出入りしているのだ。
いつも忙しそうにしているハリエットを見て、卒業前の孤児たちをバイトで雇ってはどうか、モウに驚くから館の中には入れず、庭仕事と買い出しを頼めないかとエルーシアは提案した。
子供の思いつきであってもデルミーラは軽く考えない。愛し子の言葉は重く受け止めるから、意見や考えを交わした。
すでに未成年の就労に陛下が規制をかけたあとだったが、十六歳からは実習生や見習いとして各ギルドに登録できる年齢。その年をすぎた孤児にバイトさせれば、独り立ちの準備にもなる。
館の中に入れないことを徹底し、関わりが薄いことを周知させれば、画策に狙う者もいないだろうとデルミーラは同意してバイトを雇い、その中にランベルトもいた。
「ルークに、もっとちゃんと伝えたいこともあるんですが、そろそろベナットが帰ってくる時間ですね……」
「今日は夜まで館にいるようクロードに頼まれてるんだ、何か話があるらしい。いや、一日の護衛も頼まれていたのに、魔力酔いで倒れてすまない」
世界樹の送り迎えだけでなく、クルルのふりをして、マント姿で治療院への護衛も頼まれていたのだ。
それなのに、待機するように告げられた場を離れて、勝手に迎えにいき、護衛としての一日を無駄にした。
「無駄じゃないですよ……」
「ああ、そうだな。不思議な粒の検証ができた。魔力酔いを防がないし、奴隷紋に影響もない」
眉をひそめるエルーシアは何かを思案しているようで、安心させたくてルークは軽い口調で伝えるが、思った効果は得られず、暫し静かな時が流れ、ケープを脱ぎながらベナットが帰宅した。
設定小話・大雑把な時系列
モウを名付けたあとハリエット退職する→モウが館の掃除を始める→ハリエットが復職し、のちに専属になる→ランベルトがバイトにくる→エルーシア入学する→アクセルが美味しい飲み物を飲んだと王城で自慢する→マコンの耳に入る→レシピを教わりに、マコンが館に出入りする→モウが調理に興味を持つ
そして時が経ち、キッチンの主はモウになり、ハリエットの仕事は激減する