01 序幕・エルーシア
幼い主人公、エルーシアが虐待されてます
痛々しいのが苦手な方は、ご注意を
なだらかな丘にある小さな村。特産もなく、大きな街道からはずれた、唯一の特徴である塔がそびえているだけの小さな集落の村。
その小さな村の、村長の奥様が妊娠した。
奥様は遠くの街から嫁いできたが、その街では、悪阻の時期が過ぎると祝いの宴をする風習があるらしく、奥様にいい顔をしたい若い村長は張り切った。
農作業や放牧を始める春は、ただでさえ多忙である。そんな中、奥様の両親の迎えの馬車だ、買い出しだ、ご馳走の準備だと駆り出される村人は多く、小さな村はどこも人手不足で、慌ただしい数日を過ごし、祝いの宴の当日を迎えた。
五歳のエルーシアは、家畜の世話を一人でするよう村長から言いつけられていた。
鶏の卵をカゴに集め、山羊の乳を搾り、それらを村長宅に届けたあと、裏の放牧地に家畜を放し、小屋を掃除する。いつもなら、年上の村娘ハンナと二人でしている作業である。
早朝、淡い蜂蜜色の髪を後ろで一つにまとめて、淡藤色の瞳を閉じて、深く息を吐いて眠気を追い払うと、昨秋の中ごろにハンナからもらった空色のエプロンを取り出した。
少し大きいので、ウエスト部分で三回折って丈を短く調整し、着古した濃紺のワンピースに重ね、左腕にいつも着けている銀鼠色の腕輪を袖の中に押し込んで作業を開始する。
卵と山羊の乳を同時に運ぶことは難しかったので、先に卵を届けたが、準備の指示で歩きまわっていた村長に、深く濃い青紫の瞳で睨まれ、手際が悪いと頭を叩かれた。
それで急いで山羊の乳を届けると、寝起きの様子で、まだ結っていない緋色の髪をかきあげながらレシピの確認をしていた奥様に、濃茶色の瞳で睨まれ、もたもたするなと背中を小さなムチで打たれた――奥様がいつもブーツに挿している愛用の小さなムチは、鋭い痛みが後を引く。
これ以上怒らせないようにと幼い体を家畜小屋に走らせ、羊や山羊を牧草地に放すための大扉を開放するが、重くがたつき、あけるだけでも重労働であった。
だが、羊も山羊もよく懐いているので、誘導は楽である。宴のために数頭の羊が売られ、数が減ったのもあるが。
次の作業で、牧草地にある水飲み場の桶を満たすため、離れた場所にある井戸までバケツを持って何往復もした。魔力の扱いをまだ学んでいないエルーシアでは、水を出す魔道具は扱えず、古い井戸を利用するしかないのだ。
その結果、エプロンはもちろんだが、ワンピースも濡れて冷たく肌に張りつき、靴は歩くたびに中に入った水を吐き出し、小さな手は赤く腫れた。
家畜小屋に戻ると、替えの服も靴もないエルーシアは、エプロンをはずし、水がぽたぽた落ちるワンピースの裾を膝丈で縛り、裸足になって作業を続けた。
外に出れば魔物がいる、足とはいえ肌を出すのは一般的ではないが、今は家畜小屋で一人だ。気にせずに作業を優先する。
鶏の囲いの掃除はいつも担当しているので、慣れた作業だと問題なく終えて餌も補充し、次に羊と山羊の寝床の掃除を始めたが、大きな用具は扱いにくく、ずいぶんと時間がかかった。
新しい藁を羊たちの寝床に敷いているとき、村長が奥様の両親と弟を連れて家畜小屋に姿を見せた。
奥様の弟は、村長夫妻の結婚時は学生で都合があわず、村に来るのも初めてで会ったことはないが、似た顔立ちですぐに分かった。
四人の姿に、慌ててワンピースの裾をほどいて頭を下げて挨拶したが、村長の怒りを買ったあとだった。
「見苦しい真似で俺に恥をかかせて、そんなに邪魔をしたいのか」
勢いよく近づいた村長に強く突き飛ばされ、エルーシアは後ろに激しく転ぶが、手を差し伸べる者はいない。
次は塔を案内しましょうと、瞳と同じ色の髪を撫でつけて村長は小屋をあとにし、奥様の両親は何事もなかった様子で退出し、弟は小屋の中を物色するように、じろじろと見まわしながら続いた。
転んで踵には血がにじんでいるが、一日の作業を終えないと夕食はもらえない。痛みを我慢して靴を履いて放牧地へと急ぎ、一頭ずつ撫でながら小屋に戻していく。
昨秋の終わり、羊が脚に怪我をしたことがあり、村長に責められて頬を叩かれたので、念入りに無事を確認するようになった。
空が茜色から金青色に変わるころ、エルーシアが作業を終えて村長宅に向かうと、家の前の広場には幾つものテーブルが配置されていた。
柔らかい色の春の花を飾ったテーブルには、盛りつけられたご馳走や酒のビンが所狭しと並び、祝いの宴が始まるのを村中の人が待っている。
早朝に搾りながら飲んだカップ一杯の山羊の乳。それしか口にしてないエルーシアには、ご馳走の香りは凄く魅力的だったが、勝手に村人の中に加わったら怒りを買うだろうと、村長宅の裏戸に足を運ぶ。
いつもより多い作業をし、ご馳走もたくさん用意されたお祝い当日であり、村人たちと一緒に食べられるかもと、幼いゆえに甘い期待を胸に抱く。
いつものように裏戸からキッチンに入ろうとするが、戸は開かない。しかし、人の行き来する気配はあるので、ノックをして待った。
暫くして戸が半分開き、顔を覗かせた村長からスープの入った小鍋と硬くなったパンを渡され、エルーシアは驚きから目を見開いた。
「厄介者なんだ、これで十分だろう。今夜は祝いの宴だから、お前は小屋から出るなよ」
それだけ告げると、もう用はないと戸は閉められた――金青色の空には二つの月が昇り、村長宅の正面には篝火が灯り、村人たちの集まるテーブルまわりには幾つものランタンが吊るされ、あちこちが明るく輝いている。
だがエルーシアは輝きに加わることが許されない。背を向け、小鍋とパンを抱えて家畜小屋へと足を進めた。
家畜小屋の片隅、木製の窓の扉をあけて、その一角に月明かりを迎え入れる。藁の上に使い古したシーツと毛布を重ね、居心地よく整えた小さな寝床があり、テーブル代わりの木箱に小鍋を乗せると、靴を脱いで寝床に腰を下ろした。
硬くなったパンをちぎってスープに浸し、少しずつ口に運びながら、寂しさから祖母のことを思い出す。
晴れた日は手をつないで丘を散歩し、塔からの眺めを楽しみ、雨の日は絵本を開き、寝る前には膝に乗って色々な話を聞かせてもらい、穏やかな日々を送っていた。エルーシアを無視する、年の離れた兄のこともよく叱っていた。
祖母がいたら、一緒に宴に参加できただろうかとの考えが頭を過り、涙が出てきて袖で拭う。
父親はエルーシアが生まれる前に亡くなった、母親はエルーシアを生んだときに亡くなった――そう話し、可愛がってくれた祖母は、昨秋の初めに亡くなった。
葬儀が終わると兄は暴言を吐いて手を上げるようになり、村長宅からエルーシアを身一つで追い出した。
「これからは村長と呼べ。お前は孤児の厄介者なんだ、俺たちに甘えるんじゃない。食事が欲しければ家畜の世話をしろよ、住むところも家畜小屋で十分だろう」
奥様と楽しそうに笑いながら、そう言い放った。諌めたり、家に泊めて手を差し伸べる村人もいたが、村長に何かを告げられ、段々と皆がエルーシアとの関わりを避けるようになった。
幼い身では何が起こっているのか理解することも、ほかに取るべき行動も分からず、家畜小屋に身を寄せて、一杯のスープのために家畜の世話をする選択しかなかった。
スープでお腹を満たしたエルーシアは、空になった小鍋を手に持って動きを止めた。いつもより早起きし、疲れも多く、踵が痛いから靴を履きたくないのだ。
このまま寝たいが、小鍋は洗って返さないと怒られるかと悩み、首を少し傾け、小屋から出るなと言われたことを思い出した。
朝になってから洗うと決めて、木箱の上に小鍋を乗せると、窓を閉めて小屋を真っ暗にし、シーツと毛布の間に潜り込んで眠りに落ちる――が、暫くして違和感で目を覚ました。
疲れた体は眠りを求めているのに、妙に感覚は鋭くて、家畜たちと違う気配が小屋の中にあることに気がつく。
息を止めて耳を澄ませると、小屋の裏口の方から、こつりこつりと忍ぶようなゆっくりとした足音が聞こえてきた。
村長や村人は、こんな入り方はしない。ランタンも持たずに侵入する相手の意図が読めず、恐ろしさから毛布の下で丸くなって震える。
嗅ぎ慣れない人の匂いに気づいたのか、羊が数頭鳴き始め、羊泥棒なら大人を呼ばなくてはと思いついたエルーシアは、震える手で窓の扉を勢いよく押しあけて、そのまま窓から転がり落ち、家畜小屋から逃げ出した。
侵入者も窓に駆け寄ったようで、木箱を蹴る音や小鍋の転がる音が聞こえ、急いで体勢を整えて走ろうとするが、幼いうえに疲れた体は思うように動かずもたつく。
続いて窓から飛び出した侵入者に襟ぐりを引っ張られ、後ろから絡めとられ、今までに感じたことのない恐怖感に襲われて、全身がざわりと冷える。
無我夢中で両手を前に突き出し、幼い身から出せる限りの悲鳴をあげる。悲痛な叫びを――
設定小話
エルーシアのワンピースが暗い色なのは……
喪中に追い出されたからです
初投稿です
お読みいただき、ありがとうございます