第5話 彦根城の桜
私と山形警部補はまたジープに乗って名神高速道路で彦根まで向かった。晴れ渡る空の下、サイレンを鳴らし赤色灯をつけて快走していく。窓の外には山々の桜が鮮やかに咲いている景色が見えた。彼女はそれをぼうっと眺めていた。その姿はなぜか悲しげだった。
「静岡県警の捜査課には状況について連絡したのですか?」
私は聞いてみた。彼女のスマホは壊れたため、連絡用に署のスマホを貸与してある。事態が思わぬ方向に進んでおり、彼女の所属する部署では気をもんでいるに違いない。
「はい、いえ・・・。報告しようにもまとまらなくて・・・。今夜にでも課長に電話で報告を入れるつもりです。」
そう言って彼女はまた黙ってしまった。どうも様子が変だった。
(疲れているのかもしれない。)
私はそう思って話しかけるのを止めた。
彦根城は約400年前に建てられた、現存する天守のある国宝の城である。その堀沿いを中心に桜が花を咲かせていた。それは堀の水面に映り、その石垣や白壁に調和していた。そして日が暮れるとライトアップしてさらにその姿を浮かび上がらせていた。
私たちが到着したのはもう日が暮れる頃だった。城の大手門の横の茂みに事件現場はあった。私たちはそこにいる警官に警察バッジを見せてバリケードテープの中に入った。
「湖上署の佐川です。こちらは静岡県警の山形警部補です。状況を教えてください。こちらで追っている犯人の関与が疑われますので。」
私は近くにいた刑事に尋ねた。彼は「えっ!」と驚きながらも眉間にしわを寄せた。そんな遠いところから犯人を求めてきた私たちを胡散臭く思ったのだろう。
「静岡での殺人事件。本日に起こった大津の殺人事件を調べています。香川良一という男を追っているのです。」
私がさらに言うと、その刑事はやっと話し始めた。
「被害者は長良渡。28歳。血液型はB型。この近くでバーを開いている。背中をナイフで一突きされて殺されている。状況から見て昨日の夜といったところだ。今日の午後、巡回していた警備員が、大手門の横の草むらが踏み荒らされているのを不審に思って、木々の茂みに入って発見したそうだ。」
「犯人の目星は?」
「まだわからない。」
刑事はそう言ってため息をついた。こんな桜が美しい時期によりによってここで殺人事件が起こるとは・・・多分、そう思っているのだろう。私は死体を確認した。
散り落ちた桜の花びらをつけてあおむけに倒れていた。その背中にはナイフの跡が・・・それは青山翔太が刺されたナイフと同じかもしれない。争った跡はない。一気に後ろから刺されたようだ。その表情からは苦痛と恨めしさの気持ちが読み取れた。これは通り魔の仕業ではない、顔見知りの犯行だ・・・私はそう直感した。
「そういえば昨夜、事件があった時刻ぐらいに警備員が不審な男を見たと言っていたな。」
その刑事がふと思い出して私に言った。
「おかしな男?」
「昨夜、この近くを歩いていて警備員の姿を見てあわてて走り出して姿を隠したそうだ。」
「そいつが犯人では。」
「多分、そうだろう。」
その男は香川良一かもしれない。やはり奴の犯行か・・・。 それとは別に私にはもう一つ気にかかることがあった。
「28歳、28歳でしたね。」
「そうですが・・・何か?」
「いえ、殺された静岡の事件の被害者が28歳だったので」
「それが何か関係が?」
その刑事が私に逆に尋ねてきた。
「いえ、別に・・・」
私は言葉を濁したが、大いに気にはなっていた。香川良一も28歳なのだ。
「あちらの事件と関係があると決まったわけじゃないし、ただの偶然じゃないのかね。」
その刑事はそれだけ言って向こうに行ってしまった。とにかく捜査が始まったばかりで何も出てきていない。香川良一を探す手がかりも少ない。一度、湖上署に戻り、明日の大津署の捜査会議に出てみようと考えた。
「山形さん。ここでは何もつかめそうもないので戻りましょうか。明日、大津の事件の捜査会議が行われるはずです。」
「ええ・・・。」
そう言えば山形警部補は現場をぼんやり見ていた。その表情はやはり冴えなかった。
「桜の花は華やかで美しいけれど、人の気を狂わせる・・・」
彼女はかすかにつぶやいた。確かに殺人は桜の木の下で起こった。何か意味があるのかもしれない・・・。
それから私は山形警部補を琵琶湖ホテルまで送っていった。もう日はとっくにくれていた。そこから見える夜の琵琶湖は点々と灯る対岸の光を儚げに映し出していた。
「山形さん。明日朝、大津署で捜査会議です。迎えに行きます。」
「ありがとうございます。では・・・」
彼女はそれだけ言ってホテルに入って行った。その横顔は何か思い詰めているようにも見えた。