第1話 湖上警察署
その日、私は所属する湖上署の大橋署長に呼び出されていた。それは扱っていた事件も一段落し、手伝いに行っていた草津署から引き上げる時期でもあった。私は久しぶりに大津港に向かい、そこに停泊していた湖国に乗船した。ここを離れて2週間ほどだが、もっと長くいなかった気がした。まだらに塗り直した船体や階段が懐かしくさえ感じる。久しぶりに家に帰って来たような不思議な気分だった。
勢いよくさっと甲板に上がると、そこで航行課の水野が作業していた。彼女は私を見るなり、笑顔で、
「佐川さん。久しぶり。」
と手を振って声をかけてきた。私は彼女の歓迎が少しうれしくなり、
「おう!」
と手を挙げて答えた。これで張りつめていた緊張感が全くなくなり、以前の湖上署捜査課の佐川正平巡査部長に戻れた気がした。私は捜査課にも寄らず、そのまま署長室に向かった。そこはブリッジの下にある。その部屋のドアをノックをして声をかけてみた。
「署長。佐川です。」
だが返事はない。大橋署長は部屋にはいないようだ。また船の中をぶらついているのだろう。偶然、通りかかった事務職員に尋ねた。
「署長は?」
「多分、デッキの方かと。さっきそこで見ました。」
私は展望デッキに上った。そこには確かに大橋署長の姿があった。署長は階段を駆け上る足音で私に気付いて振り返った。
「佐川君。来てくれたか?」
私はこの大橋署長が苦手だった。彼はこの湖上警察署の署長であり、この湖国の船長でもある。しかし海上保安庁から出向組で、我々警察の現場のたたき上げ組とは肌が合わない気がした。実際、何を考えているのか、よくわからないことがあった。
「何か、ご用でしょうか?」
「君のような優秀な捜査員がこの署に来てくれたが、そんな大きな事件もなく、今まであちこちの署の凶悪事件のために応援に行ってもらっていた。だが今回はこの署の事案だ。」
今日の大橋署長の顔は引き締まったように見えた。やっとこの署にも重大な事件を扱わせてくれることになったらしい。だがそんな大事件が最近、新たに起こったとは聞いていない。
「大きな事件があったのですか?」
私は署長に聞いてみた。すると大橋署長は手に持った資料を私に渡した。
「殺人事件だ。静岡県警からだ。青山翔太という28歳の男性が殺害された。静岡県警の捜査の結果、その香川良一という男が捜査線上に上った。元々、2人はこの滋賀県の日輝高校の同級生だったらしい。その香川がここに舞い戻っているらしい。」
私は資料を見た。確かにその様だ。今から2日前の早朝、佐鳴湖公園の花が咲く桜の木の下で死体が発見された。それが青山翔太だった。背中をナイフで一突きされて殺された。そのナイフは現場やその周囲から見つかっておらず、まだ犯人が所持している可能性もあった。その前の晩、通りがかった人がそこで言い争う男の声を聞いたという。調べたところ香川良一と会っていることがわかった。高校の同級生であったが、特に親しい間柄でもなく、卒業以降、会ったことはないようだった。つまらない喧嘩でもしてとっさに刺したのかもしれない。
(容疑者は特定されているし、すぐに解決するだろう。)
私は楽観的に思っていた。だがその資料をなぜ、私に?・・・。これは厄介なことを引き受けさせられるかもしれないと嫌な予感がした。
「静岡県警から山形響子警部補が派遣されて来る。君が協力してやってくれ。」
大橋署長はそう言って私から目を放すと、遠くに見える山の方に目を移した。そこには咲き始めた桜が鮮やかに見えた。署長はそれを見てうっとりと気を休めているようだった。
私は思った。犯人を捕まえたところですべて静岡県警の手柄だ。しかも潜伏する容疑者を探すのは厄介だ。だから滋賀県警の捜査1課はこの湖上署に押し付けてきたのだろう。
「わかりました。それで山形警部補はどちらに?」
「ちょっと前に連絡が入った。本来ならもう着いているはずなのだが、現在、事件の関係者と思われる女性を尾行中だ。こっちには向かっているのは確かだ。」
「その女性というのは?」
「日比野香という女性だ。容疑者と親しい間柄の若い女性だ。偶然、京都駅で見かけたようだ。もしかしたら香川良一と接触するかもしれない。待っていても仕方がないから迎えに行ったらどうだね? スマホの番号はそこの資料に書いてあると思う。」
大橋署長は暢気そうに言った。渡された資料の中に日比野香の名があった。31歳で職業は派遣社員、以前は舞台女優だった経歴もがある。もしかしたら共犯者かもしれない。このまま泳がして香川と接触するのを待つか、任意で引っ張って来て事情を聞かねばならないだろう。
「はあ。」
私は気のない返事をしてデッキから降りた。捜査課のドアを開けると、そこには誰もいなかった。他の署に応援に行ったか、たわいもない喧嘩という傷害事件の現場に呼ばれたのかもしれない。私は一人、机に座り、「やれやれ・・・」と思いながらも山形警部補に電話をかけた。だがなかなかつながらなかった。しばらく呼び出し音を聞きながらイライラして待っていると、やっと電話に出てくれた。
「はい。」
「もしもし。こちら湖上警察署の佐川です。山形警部補ですか?」
「ええ。」
なぜか彼女の声は緊張に満ちていた。
「日比野香を尾行中と聞いています。今、どちらに?」
「今、三井寺に向かっています。」
三井寺ならこの近くだ。車なら時間はかからない。すぐに山形警部補と合流できるだろう。
「わかりました。すぐに向かいます。」
「こちらで合流しましょう。日比野香は長い髪で黒メガネ、濃い茶色のレザーのコートを着ています。私はショートカットで淡い紺のジャケットを着ています。では・・・。」
電話はそれで切れた。私はすぐに下船して、近くに停めてあった「ジープ」で三井寺に向かった。この通称「ジープ」は水陸両用の特殊SUVだ。路上走行も通常のパトカーに引けを取らないばかりか、水面をウォータージェットでモーターボート以上の速度で駆けることができる。
(宝の持ち腐れか・・・)
水陸両用車が必要な緊迫した場面が湖上警察署にあったためしはない。ただびわ湖開きの時に湖国とともに観客を楽しませるために湖を走るだけだ。今回も警部補殿の送迎に活躍するだけかもしれない。