怪物④
「ハッ!?」
ヴィクターはベッドから飛び起きた。
(やべぇ、いま何時だ?相変わらず俺の目覚まし仕事しねーな)
と、目覚ましを探し初めて、ようやく今の自分の状況を思い出す。
(あー、そうだ。異世界転生したんだったか)
実際には、異世界転生なのかどうかヴィクターにも分かっていなかったが、便宜上そうしておくことにしよう。
ヴィクターはまずフランシスカを探しはじめた。昨日の言いわけと再セックスのお願いをするためである。
◇
昨日の夜、フランシスカは突然の奇行を見せたヴィクターが自分の部屋へ戻ってこないことを確認すると、扉に鍵をかけてそのまま眠った。
目を覚ました彼女は、いつもの習慣で大広間に足を運んだが、当然朝食など用意されているはずもない。
(…夢でも見てるみたいね)
昨日の朝、フランシスカは両親とここで朝食を食べた。全くいつもと変わらない朝食だった。白いパンと野菜のスープ。それにミルク。
いつものように耳に残らない薄い音楽が流れる中、1日の予定を話した。そう、バイロン伯爵から「芸術品を手に入れたので見に来ないか」と誘われていたのだ。
フランシスカと両親は口々にどのような芸術品なのか予想し合った。
父親は「きっとカードだよ、きらびやかに装飾されたカードが流行っているらしい。この前ポリドーリ伯爵が言っていたよ」と話す。
母親は「やっぱり絵画ではないでしょうか。バイロン伯爵は収集家でしたでしょう?」と話す。
フランシスカの予想は最初から決まっていた。
「彩飾写本よ」
フランシスカの答えを聞くと、2人は笑い出す。
「フランシスカは本当に彩飾写本が好きだな」
「2年も前に買った写本にそんなにのめり込むなんで、思いもよらなかったわ」
両親の笑顔を見て、フランシスカも自然と笑顔になった。
父親は帝国の第二魔法騎士団に所属し、地域一帯を支配している領主。若いころは他の貴族たちから「美貌の友」なんてあだ名をつけられたくらい美形だったらしいと聞いたが、フランシスカは信じていなかった。
母親は父親に対して献身的な理想的な女性だった。容姿も優れていて、その日も美しい赤いネックレスを首にかけていた。
………ちがう。
フランシスカは頭を横に振った。
違う、あの日母親は赤いネックレスなんてかけていないのだ。
フランシスカはもう一度思い出そうとした。
彼女の記憶の中には、赤いネックレスをした母親が…。
(ちがう!ちがう!ちがう!)
だが、どれだけ思い出そうとしてもフランシスカの記憶の中の母親は赤いネックレスをしているのだ。いや、母親だけではない父親もよく見ると赤いネックレスをしているではないか。
(ちがう!ちがう!ちがう!ちがう!ちがう!)
両親がフランシスカの方を見つめる。赤いネックレスが、2人の体を覆っていく。
そして、同時に、両親の顔が、驚愕と恐怖に…
「フランシスカ」
「きゃああああああああああっ!」
「うわぁ!?」
フランシスカは悲鳴を上げ、驚きのあまりこけてしまった。そして、フランシスカを呼んだ張本人であるヴィクターも、その大声に驚いて声を上げた。
「な、なんだ。あんただったの…」
声をかけてきたのがヴィクターだと分かるや、フランシスカは急いで立ち上がり居住まいを正した。若干気まずそうな、恥ずかしそうな表情を見て、ヴィクターは若干興奮した。
「で、なにかしら?」
「えっと、昨日はすみませんでした。突然出て行って」
「別にかまわないけど…」
フランシスカにしてみれば、嫌なことを1つやらずに済んだのだから御の字である。
「それで、次のセックスの予定を決めたいなぁ、と思いまして…」
「…あんた約束のことは忘れてくれって言ってなかった?」
「あれは、言葉のあやといいますか」
「…」
(こいつ、まだセックスのこと諦めてなかったの…)
セックスのことは昨日で片がついたと思っていたフランシスカは落胆した。命を助けてもらった手前、自分から断ることも気が引ける。
「今夜もう一度…」
「今夜は無理よ、そろそろバイロン伯爵のところに出発しないと」
「ああ、そういえばそんな話してましたね…」
ヴィクターは焦った。仮に今日バイロン伯爵のところに向けて出発したとして、次に身が落ち着くのはそのバイロン伯爵に迎え入れられた後になるだろう。
だが、自分が果たしてフランシスカと同様に迎え入れられるのか?貴族でもなく、どこの誰ともしれない自分が?
そんな不安が胸中にあった。もしそこでフランシスカと分かれてしまった場合、セックスもできず、この右も左も分からない世界でひとりぼっちで過ごすことになる。
(昨日の誓いを思い出せ!この子を脅して伯爵のところへ出発させなければいいだけじゃないか)
ヴィクターはそう決心すると、少しずつフランシスカに近づく。フランシスカは、ヴィクターの異様な雰囲気を感じ取り、距離を取るように移動する。
「な、なによ…?」
無言のまま詰め寄るヴィクターに、フランシスカは不安の混じった声を上げる。その音色が、ヴィクターの加虐心を刺激した。
「なぜ、その伯爵のところに行く必要があるんですか?」
「…お父様とお母様が殺されたのよ。騎士たちも…今私を守ってくれる人はいないの。だからバイロン伯爵の保護してもらわないと」
「伯爵のところに行かなくても、私が守りますよ。フランシスカさんのこと」
ヴィクターのその言葉を聞いて、フランシスカは血の気が引いた。自分をバイロン伯爵の元に向かわせまいとするヴィクターの心に気づいたのだ。
「…わたしをどうするつもり?」
「どうもしません。ただ、約束を果たしてほしいだけです」
「…」
フランシスカはヴィクターの言葉を信じなかった。ここで出発を延期すれば、ずるずるとこの男のペースに乗せられていってしまうと直感が働く。最悪、ヴィクターから逃れられない可能性すらある。
(どうする?どうすれば…)
この状況を突破するための方法をヴィクターをにらみつけながら探すフランシスカだったが、それは意外なところから飛び出した。
グゥゥ……
最初、2人とも大広間に響いたその音がなんなのか判断できなかった。
しかし、それにいち早く気付いたフランシスカがうつむいて耳まで顔を真っ赤にしたのを見て、ヴィクターにも察しがついた。
「…朝ごはんにしましょうか」
「ええ、そうね…」
◇
フランシスカは食事の準備をするといって、大広間の隣にある部屋に入っていく。自分も手伝おうかと声をかけたが、むげに断られてしまった。
大広間に一人きりになったヴィクターは、先ほどの出来事を反芻していた。
(ちょっと強引過ぎたかなぁ…でも、怖がってるフランシスカちゃんもかわいかったし、結果オーライってところだな)
ヴィクターはこの時、ある意味で楽観的であった。彼がやるべきことはこの世界で生きていくための知識を身につけることと、ロリのハーレムを作ることだが、両方ともフランシスカなら満たしてくれると考えていた。
逆らえば、暴力を振るって従わせてやろうとたかをくくっていた。
彼は浅はかだった、力があるだけではどうしようもない事態があることを分かっていなかった。
それは唐突に、彼の目の前に姿を現した。
「…?」
最初、ヴィクターはテーブルの上のそれがなんなのか理解できなかった。いやよく知っているものだったのだが、今自分のいるこの世界に似つかわしくないので、脳みそが理解を拒否していた。
「…」
俊敏に動く黒い物体………その存在を、特性を、嫌悪感をはっきりと認識したヴィクターは大声を上げていた。
「うぉおおおおあああああああああああああっ!」
ヴィクターは座っていた椅子を吹っ飛ばして、思いっきりテーブルから遠ざかった。振り向いたとき、奴はまだテーブルの上に乗っていた。
そう、それはまごうことなきゴキブリだった。
「ちょっと何!?」
ヴィクターの叫び声に驚いたフランシスカが隣の部屋から顔をだす。
「ゴッ、ゴキブリ!ゴキブリッ!」
語彙力が消失したヴィクターは、敵対する生き物の名前を叫びながらテーブルを指さす。
そうしている間にも、ヴィクターの頭の中には自分の部屋にゴキブリが現われたときの死闘の数々がよみがえってきていた。部屋のどこかに逃げてしまい、完全に殺すまで深夜4時まで臨戦態勢だったこともあった…そんな辛い記録。
「なによ、ただのゴキブリじゃないの…」
フランシスカはゴキブリにすたすたと近づくと――ゴキブリはこの間、死んだようにピクリとも動かなかった――素手でそれを鷲掴みにした。
「ぎえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
「な、何よ!?」
フランシスカはヴィクターの奇声に驚いたが、ヴィクターはそれ以上にフランシスカの奇行に驚いていた。
「ゴキブリ…」
「これが何?」
「見せなくていいですぅ!」
(な、なんだ!?この世界ではゴキブリそれほど恐れられていないのか?それにしても手づかみとかできるものなのか!?)
ヴィクターにとって、この世界に来てから一番のカルチャーショックであった。
この世界でも人の住居にゴキブリが現われることは頻繁にある。
しかし、子供レベルの魔法で動きを止めてしまえるので、ほとんど脅威と見なされない。貴族の子供は自分で捕まえたゴキブリを戦わせるゴキブリ相撲で遊ぶこともあった(ゴキブリに餌を与えずに別々に放置しておき、戦わせる段階で2匹を合わせる。腹の減ったゴキブリは共食いをし始めるので、それを観戦する)。
また、肉や魚を手に入れることが難しい農民層では、その繁殖スピードも相まって貴重なタンパク源として食卓に上がることもあった。
フランシスカはヴィクターの過剰な反応を見て、このゴキブリに使い道があることを悟った。
「ねえ、今食事作ってるんだけど」
「はい知ってますが…」
「ゴキブリ料理も出していいかしら?」
「うえええええええええええぇぇぇぇぇぇぇ!?絶対ダメです!!!」
「ふ~ん?」
フランシスカは、悪戯っぽい笑顔を作った。
「分かったわ、ゴキブリは入れない。食事が終わったらバイロン伯爵のところへ出発するからあなたも準備して」
「え、セックスは…」
「バイロン伯爵のところに行ってからでいいでしょ。私もあなたの保護を口添えするから」
もっとも、フランシスカが口添えしたところで伯爵がヴィクターを受け入れる可能性は低いだろう。そのことを分かったうえで、フランシスカは伯爵のところへ行こうと誘導していた。
「しかし…」
「何よ、約束は守るって言ってるのよ?もしこれ以上条件を付けるっていうのなら、私からも条件を付けさせてもらうわ」
「条件というと?」
「このゴキブリあなたが処理して」
「すみません。食事終わったらすぐバイロン伯爵のところに行きましょう…」
「よろしい」
フランシスカはゴキブリを窓から逃がした後、魔法で手を洗浄し、台所へと戻って行った。
ヴィクターは完全に会話の主導権をフランシスカにもっていかれてしまった。だが、まだセックスできる可能性はあるし、何よりゴキブリを触るのは絶対にお断りだったので仕方ない。
ゴキブリを手放した時点で暴力に訴えかけることも可能ではあったが…ヴィクターは一度口にした約束事を反故にすることに、ひどい抵抗感を覚える人間であったためそれをしなかった。
(それにしても…)
ヴィクターは、フランシスカが自分を追いつめるときに見せた、悪戯っぽい笑顔を思い出していた。
(フランシスカちゃんの笑顔、初めて見たな)
今までの状況が状況だっただけに、ヴィクターが彼女の笑顔を見たのはそれが最初になった。そして、その笑顔が彼の心の中に居座り続けていた。
彼の好きなおびえた表情や、苦しみを感じている表情とは全く真逆のその笑顔。それがなんだか、彼にとってはとても愛おしく見えたのだ。
◇
食事をし終った2人は、正門の馬車に必要なもの――衣服・食料・食器等――を詰め込んでいた。
ここからバイロン伯爵の住む都市までには1日半程度かかる。この前の騎士団がすぐに駆けつけられたのは魔法を駆使していたためだが、フランシスカはその魔法は使えなかった。
そろそろ出発しようかというタイミングになって、空が暗くなってきたことにヴィクターは気づいた。
「雨が降りそうですね」
「5月だもの、しょうがないわ」
フランシスカが何気なく言った言葉に、ヴィクターはピクリと反応した。
「…この世界って1月から12月まであるんですか?」
「そんなの当たり前でしょ」
「へえ」
ヴィクターは、この世界も元の世界と同じような暦…太陽暦が作られているのかもしれないと考えた。そうであればこの世界になじむのもそんなに時間がかからないだろう。
「ところでさ」
今度はフランシスカの方から質問をしてきた。
「なんですか?」
「『この世界』ってなんのこと?」
「あ」
ヴィクターは一瞬墓穴を掘ったと思ったが…そもそも彼は自分がなぜこんな世界に転移してしまったか分からないのだ。別世界から来たことを隠しても教えても、状況は何も変わらないだろう。
それならば、変に隠し事しない方が、精神衛生上良いのではないかと彼は結論づけた。
「私、前世の記憶なのか何なのかわかりませんが、こことは別の世界で生きていた記憶がありまして」
「はあ?」
「元の世界では異世界転生とか異世界転移とか言ってたんですが…わかりませんよね」
「ぜんっぜん分からないわ。あなたの国の宗教かなにか?」
フランシスカは、ヴィクターの言葉を信じるつもりは全く無いようだった。ヴィクター自身もそれでいいと思った。ここで話したのは、単なる彼の自己満足にすぎないのだから。
やがて準備は完了し、ヴィクターは荷物と一緒に馬車に乗り込んだ。
御者はフランシスカである。ヴィクターは馬を操ることなどできないので、必然的にこうなった。
「それじゃあ行くわよ」
「お願いします」
馬車が、少しずつ動き始める。正門を抜け、城の外へ。
そこには農家のものと思われる家々と、教会のような建物。そして、一面に広がる緑の草原…小麦畑があった。小麦が風に吹かれてこすれる音が、ヴィクターの耳に届く。
(おおお…)
見たこともない世界の、どこかで見たことのあるような景色。ヴィクターは、自分が何故だか高揚感を覚えていることに気が付いた。
それは何だろうか?旅で全く知らない街を訪れたときのようなドキドキ感。あの不安と興奮に似ていた。
自分の鼓動がどんどん早くなっているのをヴィクターは感じる。
彼は、別の世界に来たのだ!という実感を、一面の小麦畑という元の世界でも見られるものを通して、明確に自覚したのであった。
空を覆う雲は、もう白いところが見当たらないほど厚くなっていた。
5月のある陰鬱な朝のこと、1人の男と1人の少女は小さな小さな旅に出た。




