花に嵐のたとえもあるぞ②
ヴィクターが目を覚ました時、見覚えのない白い天井が視界に広がっていた。体を動かそうとしてもうまく動かない。
しばらくして人の気配が近づいてきたが、すぐに離れていってしまった。今の自分の状況を把握できないままに、周りが騒がしくなってくる。突然、目の前に一人の男の姿が映った。知らない男だ。だが、制服で何者か想像がついた。医者だ。
「親御さんに連絡を」
医者は視界の外にいるのだろう人物にそう伝えると再びヴィクターに向き直った。
ヴィクター……いや、田中太郎は3か月の昏睡状態から奇跡的に意識を取り戻したのだった。
太郎は、医者と両親の話で大体の経緯を把握した。
自分を轢いた運転手は捕まったらしい。太郎は病院に運ばれて、一命はとりとめたものの意識は今日まで戻らなかった。太郎の両親は泣いて喜び、色々な話をした後、黙って仕事を辞めていたことについて少し咎めた。
入院中暇だろうから、と太郎の両親は小説を見繕ってきた。それは太郎の趣味に合うものではなかったが…時間をつぶすのにはちょうどよかった。
ある日、その小説「失われた時を求めて」を読み終わった。本を閉じたとき、太郎の脳裏には一人の少女の姿があった。昏睡状態の夢の中で出会った一人の少女。
(我ながら、欲望丸出しの夢を見たもんだ…)
田中太郎はロリコンである。3人の少女と一緒に旅をするなんて、いかにも都合の良い物語だったわけだ。
(夢ならもっと俺の欲望通りになればよかったものを)
しかし、悪くない夢だった。そう太郎は思い返す。
夢の中のあの子は、フランシスカ・シェリーは、本を書き上げたのだろうか? 気にしても詮無いことだ。いずれ彼の中の彼女の記憶も、時とともに薄れていくだろう。夢の中の焦燥も、苦悩も、決意も思い出せなくなっていく。今読み終えた「失われた時を求めて」の内容と同じように。
だがきっと、ふとした瞬間にこの夢の記憶が鮮やかによみがえり、太郎の人生に少しの彩りを与えてくれる。それで十分なのだ。
太郎は目を閉じて、退院した後に何をするか、何をしたいかを考え始めるのだった。
◇
次の日の朝。フランシスカはもぬけの殻になった部屋を眺めていた。呆然としていたわけではない、ただ少し感傷に浸っていたのだ。
あの晩、ヴィクターが部屋を出る瞬間、フランシスカは直感した。「もう二度とヴィクターに会うことは叶わないだろう」と。この世界中のどこを探そうとも、見つけることはできないだろう。彼女が漠然と抱いていた予感が現実になった…ただ、それだけのことなのだ。
フランシスカは顔を洗い。食事の準備を、一人分の食事の準備をした。豆とソーセージを使ったスープと、少し硬いパン。食べ終わったあと、フランシスカは自分の仕事にとりかかった。今までの出来事をまとめる仕事だ。いつか自分の本を出すために。
だが、しばらくしてフランシスカは手を止めた。今まで書いていた羊皮紙をしまい、新しいものを机に置く。
彼女はこう考えていた。あいつの物語を作ってやろう、と。誰よりも強い力を持っていながら、この世界に何一つ残していかなかった、あの男の物語を作ってやろうと。
しかし、先ほどまでのように滑らかに指は動かなかった。羽ペンは羊皮紙に近づいたり離れたりを繰り返し、フランシスカ自身も部屋の中を歩き回ったり、ベッドに座ったりと落ち着きなく動き回る。そんな状態で一時間近く経った後、ようやく考えがまとまったのか、再び机に向かう。
少しのためらいの後、その一枚目にさっとこう書き記した。
「親愛なる、ヴィクターへ」
-完-




