花嫁③
顔に不可解な衝撃が走ったことに気づいて、ヴィクターは目を覚ました。目の前には魔王の顔がある。
「おーい。起こしたぞー」
「ヴィクター。もう7時よ。準備しなさいよね」
フランシスカの声を聞いて、ヴィクターの頭がスっとクリアになった。そう、今日は8時からエレジーに演奏会へ招待されているのだ。すぐに起き上がり、魔王の方を向く。
「さっき起こしたのは魔王様ですか?」
「ああ、そうじゃが」
「…私以外にはその起こし方しないようにしてください」
「そうかそうか」
わかっているのかわかっていないのか、魔王はうんうんと頷いた。
(さっきの威力で人間の頭叩いたらパンドーラ山まで吹っ飛んで行っちまうからな)
「ほら、さっさと食べて」
ヴィクターはフランシスカから受け取った皿を見た。麦と肉を入れて炒めたパエリアみたいな料理である。
「例のアンティクーチョ打ってたお店で牛肉も売っててね、安かったから」
肉はすぐ痛むので馬車には載せられない。食べられるのはこうして街にいるときだけだ。貴重な食材に手を合わせて、ヴィクターはそのパエリアもどきを口に運んだ。
――7時30分
4人は馬車を出て、エレジーが待っているであろうパンドーラ・スクエア・ルームズに向かい始めた。空には雲一つなく、これでもかというほどの快晴だった。パンドーラ山は、静かに街を見下ろしている。周りの家の中から、ほんの少しだけ生活の音が漏れてきていた。
――7時35分
街にはまだ人通りが少なかった。カフェのテーブルに2人の男が座って、何やら会話をしている。少しだけ裏路地を眺めると、4つの光る眼が見えた。ヴィクターはそれが浮浪児であることに一拍おいて気づいた。
――7時40分
広場で二組の男女が踊っていた。ヴィクターは踊りには詳しくないが、非常に楽しそうに踊っているのはわかった。きっとカップルだったのだろう。
――7時45分
パンドーラ・スクエア・ルームズに到着した。外側はまだ未完成だったが、大工たちは見えなかった。まだ勤務時間ではないのだろう。ヴィクターは自分も前の世界では9時出社していたことを思い出した。
「お待ちしていました。みなさん」
エレジーはすでにステージの中央でバイオリンを手に持っていた。
「どうぞ、好きなところに座ってください。少し早いですが、初めてしまいますね」
――7時46分
進められるがままに、ヴィクターは中央前よりの席に腰をおろす。フランシスカたちも近くに座った。それを見届けたエレジーは小さくうなづくと、口を開いた。
「今からお聞きいただくのは、私が作った曲です。生まれ育ったこの街、タルティーニを表現しました」
その言葉を聞いて、ヴィクターは少し後ろめたさを感じた。そんな曲であれば、むしろ街の人々に真っ先に聞かせた方がよい気がしたからだ。
「このパンドーラ・スクエア・ルームズは本当に素晴らしい場所なんです。街のみんなも少しずつお金を出してくれて…音の響き方だけじゃなく、装飾なんかもいい雰囲気が出ているでしょう?」
――7時47分
エレジーの言うとおり、ヴィクターもこの場所に漂う神聖な雰囲気を感じていた。ここで演奏されるヴァイオリンがどんなものになるのか、彼には想像もできなかった。
「私は幸せ者です」
そこで、ついにエレジーはヴァイオリンを弾く姿勢になる。ついに演奏が始まるのだ。
「最期に、この素晴らしい街と素晴らしい場所で、不死のあなたに曲を聴いてもらえるのだから」
――7時48分
ガクンッ、とヴィクターは突然の浮遊感に襲われひじ掛けを反射的につかんだ。
「きゃあ!」
体勢を崩しそうになったフランシスカを急いで支える。
(なんだ!?地震?)
ヴィクターは背中からじわじわとイヤな汗が出てくるのを感じていた。もし地震であれば、先ほどの揺れは建物が倒壊してもおかしくないほどのものだったからだ。だが、幸いこの場所はヒビが入ったり、物が落ちてきたりすることはなかった。
「いったい何!?」
「私が外を見てきます」
イヨはそういうと、その場から動かなくなった。
「…イヨちゃん?」
「…瞬間移動魔法が使えません」
「え!?」
ヴィクターとフランシスカは同時に声を上げた。特別魔法騎士団であるイヨが魔法を使えない…それは事態の異常さを際立出せていた。一瞬、イプセンの大樹林での話を思い浮かべたが、昨日エレジーは普通に魔法を使えていた。この土地が魔法を使えない場所ではなさそうだ。
「とにかく私は外に出て状況を確認します」
イヨは建物の外へと走っていく。魔王は地震というものが初めてだったのか、地面を踏みしめて反応を確認していた。
「ヴィクター、いい加減その手をどけてもらいたいんだけど」
「あ!すみません」
急いでフランシスカから手を放す。とっさに体を支えたためにヴィクターの手はフランシスカの柔らかなところに触れてしまっていた。決してわざとではない。
「エレジーさん!ここは危険かもしれません、早く建物の外に出ましょう!」
ヴィクターはステージ上のエレジーに声をかける。だが、エレジーは弾く瞬間の姿のまま、微動だにせずヴィクターを見つめ返すだけだった。
『タルティーニの皆さん、聞こえますか。私は特別魔法騎士団所属のイヨと申します』
突然、ヴィクターたちの頭の中にイヨの声が響いてきた。どうやら魔法を使ってタルティーニの住民すべてに声を送っているようだ。
『パンドーラ山が噴火しました。全員、直ちに街から退避してください』
「パンドーラ山が…噴火した?」
フランシスカが呆然と呟いた直後に、イヨが建物の中に戻ってきた。
「聞きましたね。すぐに街から離れましょう」
「ええ、わかったわ。ヴィクター、魔王ちゃん、行きましょう。エレジーさんも早く!」
「聞いてくれないんですか?私の曲」
そう言ったエレジーの目は、真っ直ぐにヴィクターを見つめていた。
「な、なにを言っているの!そんな状況じゃないでしょう、すぐに」
「あなたには聞いてないんです」
エレジーは、フランシスカの叫びを遮ってなおもヴィクターを見つめ続ける。
「ヴィクターさん。あなたに聞いてほしいんです。私が作った、この街の曲を、この街の、この場所で」
「話を聞いていましたか?パンドーラ山が噴火しました。いずれここにも被害が及ぶ。演奏会どころの話ではないんです」
「…」
無視。
「…私たちは脱出しましょう」
イヨはあきらめて、フランシスカ達に脱出を促した。ヴィクターもそれに続こうとしたが、ステージから鋭い声が飛んでくる。
「ヴィクターさん!」
「エレジーさん。緊急事態なんです。ここは危ない…演奏会は次の機会にやりましょう。生き延びれば、また聞くことはできますよ」
「いいえ、できません。音楽はそんなものじゃないんです。今、ここで弾ける音しかない、『次の機会』なんてものは存在しないんです。今でなければ、すべて失われてしまう!」
「エレジーさん…」
ヴィクターと言い争っている間、エレジーは決して演奏する姿勢を崩そうとしなかった。
「ヴィクター!そんな女気にしないで、こっちに来て!私たちは脱出するわよ」
「…………くぅ!」
ヴィクターは…エレジーの方へと走りだした。
それを見たフランシスカは、わずかに肩を震わせて建物の外へと飛び出したのであった。
◇
空は黒く染まっていた。遠くパンドーラの山は、悪魔のように赤く滾っている。
「悪夢だわ…」
フランシスカは、馬車に向かって走りながらそう呟いた。街には煤と、時折こぶし大の岩石が降ってきていた。
「イヨちゃん、あの噴火自体を止めることはできないの!?」
「やってみました。しかし、山に対しての魔法はすべて発動できませんでした…」
「そんな…」
「街自体を根こそぎ移動させようと試してみましたが、それもできませんでした。何か、超常的な力で防がれているようです」
「…」
フランシスカは地震が起こる直前のエレジーの言葉を思い出していた。
(『不死のあなた』…これって、たぶんヴィクターのことよね。まさか、エレジーはあの魔法使いとつながってたの?)
そこまで考えて、フランシスカは頭を横に振った。
(いいえ、たとえ手を組んでいたとしてもあいつがイヨちゃんの魔法まで防いだりできるわけがない。だとすると…)
「祝福…」
「やはり、それしか考えられませんね」
イヨとフランシスカはお互いにうなずきあった。エレジーは、おそらく何らかの祝福を持っている人間だったのだ。イヨクラスの魔法騎士団の魔法が使えないとなると、その可能性しか考えられない。
「これは、今何をしとるんじゃ?」
魔王が、なにもわかっていない様子でフランシスカに問いかける。いや、実際に何もわかっていないのだろう。
「パンドーラ山が噴火して、危険だからこの街から出るのよ!そのために馬車に向かってるの」
「噴火?」
「あれよ!」
フランシスカはパンドーラ山を指さす。それを見た魔王はほー!っと感心したように声を出した。
「あれを噴火と言うのか~。前に何度か見たことあるんじゃが、そんなに危険なのかの?」
「わたしたちにとっては危険なの!」
ようやく3人は馬車があった場所へとたどり着いた。
「ウソでしょ…」
本来あるべきその場所に、馬車の姿はなかった。おそらくは、誰かが逃げるために盗んでしまったのだろう。
「…仕方ありませんね。自力で退避しましょう」
「ええ、そうね」
フランシスカは憎々しげにパンドーラ山をにらみつける。
「…?」
その時、パンドーラ山の中腹付近から灰色の塊が街の方へ向かってきているのが見えた。
「あれは、一体…」
「わからないわ。でも」
フランシスカの胸中はあらゆる不吉で満たされていた。
「あれがこの街に来たら、すべて終わりよ」
◇
「エレジーさん。行きましょう!」
エレジーに駆け寄ったヴィクターはその手をつかもうとするが、エレジーは身体をかわしてしまう。
「…!」
もはや無理やりにでも捕まえて脱出させようと考えたヴィクターだったが、エレジーの姿を見て、体を硬直させた。
エレジーはヴァイオリンの弓をナイフに持ち替えて、自分の首元に当てていた。
「それ以上近づくなら、この場で死にます」
おそらく、エレジーが認識できないスピードでそのナイフを奪って拘束することは容易にできるだろう。だが、ヴィクターは体が動かなかった。彼女の覚悟を前にして、自分の行動に迷いが生じていた。
「席に、座ってください」
ヴィクターは進退窮まっていた。その様子を見て、エレジーはナイフの先を自分の首に差し込む。
「わ、わかりました。おとなしく席に着きます…」
敗北。
ヴィクターはまるでクマにでも遭遇したかのように、エレジーから目を離さずに少しずつ後退していった。目を離した瞬間、彼女が自分の首をかき切る気がしたからだ。
ヴィクターが席に座りなおしたあと、エレジーはやっとナイフを首から話した。それと同時に、少量の血が、彼女の首を伝って服に染み込んでいく。
「やっぱりここはすごいです。街の喧騒が全く入ってきませんね」
エレジーはそう言ってヴィクターに微笑みかけるが、ヴィクターは笑うことができなかった。
そうして、エレジーの顔から微笑みが消え、ピンっと弦のように張り詰めた空気がその場所を支配した。緩やかな速度で、ヴァイオリンに弓が添えられていく。演奏会が始まった。
ヴィクターは、音楽のことがよくわからない。だが、彼女がヴァイオリンを弾き始めて少しも経たないうちに、彼の頭の中には今朝ここに来るまでに見た朝の街の光景がよみがえってきていた。
音楽に集中していないわけではない。彼女が作り出す音、その静かな盛り上がりが、ヴィクターに夜明けのイメージを鮮烈に焼き付けたのだ。
音楽は続く。家々が朝の支度をし始める。寒々とした路地に踊りだす若者がいる。メロディーは似ているが、感じる光景はまるで違う。
(ああ…)
ヴィクターは理解した。なぜ彼女が昨日のうちに演奏を披露しなかったのか、「ヴィクターがまだこの街の朝の光景を知らなかったから」だ。音楽は言葉だった。一つの音が意味するところを理解しなければ、正確には伝わらない。
(この曲は、この街のために、この街で弾かれるために、この街の人たちに聞かせるために、作られたのか)
愛だ。ポリドーリ伯爵の愛とも、アルブレヒトの愛とも違うものが、しかし同じほどの狂気をたたえてたしかに存在している。
一旦盛り上がった曲は、次第に落ち着いてきた。それと同時に、ヴィクターは夕間暮れのタルティーニの街を夢想した。
(だから、俺に街中を案内したんだな)
再びの盛り上がり、絶頂だ。音楽がまさしくクライマックスに入ったことをヴィクターは感じ取る。そこに浮かぶのは何の情景か? ああ、彼女だ。エレジー・ランチェスターだ。彼女は喜んでいる。この街に感謝している。誇りに思っている。
これは彼女の喜びの歌なのだ。
音が消えた。
演奏が終わった。
ヴィクターは、感動に打ち震えるわけでも、握手をするわけでもなかった。
ただ、一直線に全力で、彼女の元に駆けていた。
その指が、彼女に届くその刹那、ヴィクター達を灰色が埋め尽くした。
◇
「ハァ…!ハァ…!」
フランシスカは全力で走っていた。後ろを振り向くと、街は山から来たものに飲み込まれてしまっていた。火砕流である。高温のガスと土砂が時速100kmで押し迫る。巻き込まれたら、間違いなく死が待っている。
フランシスカは全速力で数十分走り続けていた。イヨの魔法で疲れも感じず、足も壊さずに動かせていた。だが、移動魔法などはやはり使えないようだった。火砕流の勢いは街を飲み込んでなお衰えていない。このままでは巻き込まれるのは時間の問題だった。
(どうにか、どうにかしないと…)
イヨも一緒に走っていた。さすがに特別魔法騎士団なのかフランシスカを気に掛ける余裕もあった。だが、ただの一人の少女の身体能力しか出せない以上、火砕流からは逃れられない。
絶望的な考えがフランシスカの頭に上った次の瞬間。突然自分たちの目の前の景色が切り替わった。
「…え?」
「…!魔法が使えました!」
「! それじゃあ」
フランシスカは後ろを振り向いた。はるか遠くに、黒い空が見える。おそらくあそこがタルティーニの街だ。イヨの瞬間移動魔法でここまで転移ができたのだ。
「私はすぐに街へ戻ります。噴火を止めれば救える人がまだいるはずです!魔王さんはフランシスカを守ってあげてください」
そういうと、イヨは一瞬で姿を消した。フランシスカは、ただ黒い空を見つめ続けるしかなかった。
◇
その後、イヨによって噴火と火砕流は止められた。タルティーニの街は火砕流に蹂躙され、跡形もなくなってしまっていた。
噴火時4000人いたタルティーニの住人の中で犠牲者は3300人。そのほとんどは街の中で息絶えていた。
最初の地震で家の下敷きになり死んだ者。
家の下敷きになった者を助けようとして火砕流に巻き込まれた者。
神の助けを信じて教会で死んだ者。
地下室に逃れて蒸し焼きにされた者。
すべてをあきらめて街と心中を選んだ者。
噴火がある前から、すべてをあきらめていた者。
街の中にいて生き残ったのはたった一人だけだった。
「ヴィクター!返事をして!」
魔法によって有毒ガスも消え、温度も下がったタルティーニの街でフランシスカは叫んでいた。彼女は、ヴィクターの生存をまったく疑っていなかった。
「フランシスカ、あっちです。生きている人の反応が…」
イヨの言葉が終わる前に、フランシスカは走り出していた。
しばらく走ったあと、もはや元が何だったのかわからなくなった残骸の前に立っているヴィクターを見つけた。
「ヴィクター…」
「…」
フランシスカの呼びかけに言葉では答えず、ヴィクターは振り向いた。
「エレジーは?」
静かに、首を横に振る。
「そう…。そうよね」
「…彼女はきっとこの街のあの場所で、自分の作った曲を誰かに聞いて欲しかったんです」
「誰かに、じゃない。あんたに、よ。彼女、あなたがこの災害で死なないことがわかってて、曲を聞かせようとしたのよ」
「それは、どういう…」
「彼女はたぶん祝福持ちだった。未来予知…というより、見たことが現実になるような祝福だったんだと思う。それできっと、この災害に巻き込まれる街と生き残るあんたの姿を見たのよ」
たぶんね。とフランシスカは自信無げに付け足した。
「どんなに素晴らしい曲でも、誰にも聴かれないんじゃ、かわいそうだしね」
「…そうですね」
そこで、ようやくフランシスカとヴィクターにわずかな笑みがこぼれた。
「聴いたんでしょ、彼女最期の曲」
「はい」
「じゃあ、どんな曲だったのか教えて。私の命令を無視したことは、それでチャラにしてあげるわ」
「…わかりました」
タルティーニの街は…復興することはないだろう。歴史の中に消えた一つの街として、紙の上にだけ存在することになるだろう。フランシスカ達ができるのは、そこに素晴らしい演奏家と曲があったことを付け加えることだけである。
タルティーニの街を背にして、4人は歩き出す。谷風が吹いて、巻き上がった火山灰がその姿をかき消していく。残ったのは、ただ一面の灰色と遠くたたずむパンドーラ山の雄大な姿だけだった。




