愛の寓意③
アルブレヒトの絵は、完成に近づいていた。
その絵は、彼が母親を描いたときと同様に精巧なものであった。だが、完成に近づくにつれ、フランシスカはその絵に違和感を持つようになっていた。
(この絵、すごいとは思うけど…)
「あまり『よく』ないでしょ、その絵」
「そんなことは…」
「気を遣わなくていいよ、僕が一番よくわかっていることだから」
フランシスカは、心の中でアルブレヒトの意見に同意した。たしかに見事な絵なのだが、あの母親の肖像画『愛の寓意』にあったような生々しさがないのである。
いくら眺めていても、肖像画の中のフランシスカが、自分の本体を見つめている錯覚など湧いてはこなかった。
「やっぱり、僕は母さんの絵しか描けないみたいだ。…いや」
アルブレヒトはその時、何か真理に気づいた。
「お母さんの絵も描けていないから、なのかな」
「…」
フランシスカは、彼の哲学じみた言い回しや思考の飛躍に付き合うつもりはなかった。彼女の中で一番の問題は、この絵をアルブレヒトが失敗作だとした場合、彼が納得するまでこの場に拘束される可能性があるということだった。
◇
魔王は、1人部屋の中で時計を眺めていた。
ここ最近はずっとフランシスカと魔王はペアになってアトリエに来ていたが、魔王が作業場に入ることを許されたことは一度としてなかった。
その空いた時間――魔王には暇な時間など無かった。常に暇なので暇という概念が無いのだ――を魔王はいつもこの時計を眺めることで過ごしていた。
時間を教えてくれる時計というものがあることはフランシスカから聞いていた魔王だが、実際には見たことが無かった。だからこそ、自分が今眺めているそれが時計なのだということも分かってはいなかった。
魔王は、ぜんまい仕掛けのその時計の動きが気に入り、ずっと見続けていたのだ。
突然、コトリ、と魔王の後ろで音がした。
魔王が振り返ると、自分のすぐ後ろに一人の、黒いローブをまとった初老の男が立っていた。かつてフランシスカの命を狙った、あの魔法使いである。
「…」
魔王は、その人間が何者なのか知らず、かつ興味もあまり持てなかったので再び時計を眺める時間に戻った。
「…おい」
「ん?」
声をかけられて振り向いた瞬間、魔王を光が包み込んだ。光はしばらくすると収まり、あの男がもう一度視界に現れる。だが、男の表情は先ほどの無表情とはうって変わり、驚愕に支配されていた。
「そ、そんな…!?」
「さっきのなんじゃ?」
少しだけ興味が出てきた魔王が質問をする。しかし男は答えなかった。その代り、魔王は再び光に、今度は黒い光に包まれた。そしてまた男の姿が現われ…今度は驚愕の表情に加えて、脂汗をかき、魔王からも距離をとっていた。
「き、貴様ッ、まさか奴と同じ…」
「あははははははっ!」
男が言葉を言い終える前に、魔王は大笑いをはじめた。その異常な反応に、男は言葉を引っ込める。
「はははははは!」
魔王が笑った理由は、単純なものだった。
面白いから笑っていた。
視界が光で遮られ、男の顔が現われる。そして、もう一度視界が遮られたとき、魔王は純粋に「もう一度あの男の顔が現われる」と期待していた。そして、期待通りとなった。だから笑っていた。
赤ん坊が「いないいないばあ」を面白がるように、ただ面白がって笑っていた。
「…何が可笑しい!?」
「さっきの奴じゃ、さっきの奴が可笑しいぞ。もう一度やってくれ!」
魔王の言葉を聞いて、男は顔をひきつらせ、少しずつ距離をとろうと後退した。
その時。
「ちょっと、魔王ちゃん。あんまり大声出すと集中できないって…」
フランシスカが、その部屋に入って来たのであった。
「…!」
「あんたっ!」
男は一瞬で距離を詰め、フランシスが声を出せないように口を鷲掴みにした。
「んんんんんんんッ!」
フランシスカは必死にその手を振りほどこうと抵抗するが、びくともしない。
魔王は、その光景をただ見ているだけだった。
「抵抗すると、この女を殺すぞ」
「抵抗って何じゃ?」
男の言葉の意味が純粋に分からなかったので魔王は質問した。しかし、そのあっけらかんとした様子が男を余計にいらだたせた。
「もういい!どのみちこの女を殺せればそれで!」
フランシスカは、男の手刀が自分の心臓めがけて突き進んでくるのを、スローモーションでとらえる。
(避けなきゃ、避けなきゃ、避けなきゃ!)
フランシスカは完全にパニックになっていて、およそ自分ではどうしようもないこの状況で、何とか体をずらして手刀を避けようとした。当然のようにそれは無駄な努力に終わり、ついに手刀が自分の体を貫こうとしたとき、フランシスカは恐怖のあまりに目を閉じた。
だが、自分が考えた衝撃は、やってこなかった。恐る恐るフランシスカが目を開けたとき、男の手刀は、魔王によって止められていた。
(魔王ちゃん…!)
ちゃんと自分を守ってくれたことに感動を覚えたフランシスカだったが、実際の理由は少し違っていた。
「こら、フランシスカが泣いとるじゃろ。手を離せ」
「き、貴様の方こそ手を離せ…!」
フランシスカは、いつの間にか涙を流していた。口をふさがれたことによる息苦しさのせいか、それとも恐怖のせいかは彼女自身わからなかったが、その涙が魔王を動かしたのである。
「さっさと離さんか。よしよししてやれんじゃろ」
魔王は、泣いてしまったフランシスカをあやすつもりでいた。魔王にとって、苦しみの涙も、喜びの涙も、悲しみの涙も同じものだった。
魔王は唯一絶対なので苦しまず。
魔王は唯一絶対なので喜ばず。
魔王は唯一絶対なので悲しまず。
ただ、楽しみのみを追い求める。
だから、目の前で涙を流しているものがあれば、過去の経験から画一的にただ「あやす」という行動を繰り返すのみだった。
「ぐうううううっ!」
男は、それでも魔王に抵抗しようとするが、それを見た魔王は、諦めたようにつぶやいた。
「しょうがないのー」
ブチん
「あ」
男の口から、反射的にそんな言葉が出た…いや、音が鳴ったというべきなのかもしれない。
魔王は悠然と、男の手刀を肘ごとちぎっていた。
「あああああああああああっ!?」
大絶叫。男はフランシスカから手を離した。そして、必死になって自分の無くなった方の傷口を魔法で回復しようとする。
「げほっ、げほっ…ま、魔王ちゃん!」
「よ~し、よ~し」
「よしよしは今はいいから!」
フランシスカは、自分の背中をさすろうとする魔王を止め、男の方に注意を向けさせる。
「きっと回復魔法で傷を癒すつもりよ!その前にやっつけて!」
「回復魔法?」
「あ、ええっとぉ」
フランシスカが魔王に回復魔法について説明をしようとしたとき、そこにさらにもう一人の介入者が現われた。
「うるさいんだけど?」
アルブレヒトだった。当然である。あれだけ大声を出しているのだから部屋を見に来ても仕方がない。
「ぐううううっ、アルブレヒト…!」
「あれ?アーネスト!?どうしたんだ!」
フランシスカは、アルブレヒトが男に向かってしゃべりかけたことに目を丸くした。
「ふうううううっ!」
男は、話しかけてきたアルブレヒトには何も言わず、消えた。瞬間移動魔法だ。
「な、なんだ?何が起きたんだ?」
「…それは、こっちのセリフよアルブレヒト」
まだ少しせき込みながら、フランシスカは立ち上がった。
「アルブレヒト、あなたあいつのことを知ってるの?」
「もちろん。いつも黒インクを彼から調達してるんだから」
「インクを…?」
意外な接点に驚きつつも、フランシスカは自分とあの男との関係を説明した。自分の良心に手をかけ、自分も殺されそうになったこと。そして、今もまさに殺されかけていたことを。
「…頭が付いていかない。彼がそんなことを?」
「ええ、そうよ。あなたは一体どうやってあの男と出会ったの?」
「…」
アルブレヒトはそれっきり口をつぐんだ。
◇
どうやら、フランシスカの肖像画は未完成のままになりそうだった。
フランシスカは、黙ったままのアルブレヒトを引き連れて、グリーグ伯爵の城までやってきた。
フランシスカは疑っていたのだ。グリーグ伯爵も、あの男とつながりがあるのではないか、と。
当然、万全を期してヴィクターとイヨも一緒である。
ちなみに、フランシスカは「あの魔法使いが現われたが、魔王がしっかりと守ってくれた」とヴィクターに説明していた。少しでも危ない目にあったと言ったら、ヴィクターは一生魔王のことを認めないかもしれないと思ったからだった。
城の部屋で待機していたフランシスカ達の前に、気が急った様子で現れた。
「お嬢様、一体何が起こったんですか?」
「アーネスト」
「? アーネスト?」
フランシスカは、いきなり男の名前をだしてグリーグ伯爵の様子をうかがうつもりだったが、顔色の変化などは特にない。本当に何も知らないのか、それとも演技が上手いのか。フランシスカには判断できなかった。
「アーネストという名前の、アルブレヒトに黒インクを提供していた男に襲われたんです」
「…なんですって?」
グリーグ伯爵はチラリとアルブレヒトの方を見る。うつむいているアルブレヒトの表情は伯爵には読み取ることができなかった。
「その男は…私の父と母を殺し、ポリドーリ伯爵と共謀していた男です」
「…! なるほど、わかりました。お嬢様は、私がその男とつながっているのでは、と思っているんですね」
「…ええ、そうよ」
フランシスカは、若干ためらいつつも、自分の疑心を伯爵に伝えた。
「なるほど、ですが私がその疑念を晴らすのは容易なことではないね」
たしかに、伯爵は第二魔法騎士団に所属し、貴族でもある。権力で上から押さえつければ、大概の人間は言うことを聞いてしまう。少なくとも、伯爵の近くの人間の証言は信じることができないだろう。
「だが、私にはお嬢様を殺す動機が無い」
「ポリドーリ伯爵だって、そう思ってたわ。私はね」
「…これは失礼を」
そう言ってから、一瞬伯爵は眉間にしわを寄せた。2人の会話に割り込むようにして、イヨが話をしはじめる。
「フランシスカ、グリーグ伯爵。この場でこの話に決着をつけるのは難しいでしょう。それよりも、確実にそのアーネストとつながっている人の話を聞くべきだと思います」
その場にいた全員…いや、魔王をのぞく全員がアルブレヒトを見つめる。視線を感じたアルブレヒトは、ゆっくりと顔を上げた。
「彼とは、僕がインクが無くなって困っているときに出会ったんだ。僕にインクをあげるって言われてね」
話しはじめたアルブレヒトは、どこか虚空を見つめていた。
「インクぐらい。私に行ってくれればいくらでも…」
「ダメなんですよ、グリーグ伯爵。伯爵じゃあ絶対に手に入れられない」
「…?どういうことだ」
黒いインクは、たいして高級品でもない。黒土や木炭から作られるため、やろうと思えばただでも手に入れられるのだ。
「僕の黒インクは…」
そこで、一瞬アルブレヒトは言葉を発するのを躊躇ったように見えた。
「僕の黒インクは、黄黒病患者の骨から作ってるんだ」
その時、場の空気が一変した。
「全部が全部使えるわけじゃない。リンパ節付近の骨が一番いいんだ。だから、足らなくなったら彼に頼んでいた」
「ねえ…まさか、最近も足らなくなったことがある?」
「うん、あるよ」
「…イプセンの街で黄黒病が流行ったことは知ってる?」
「…うん、知ってるよ」
「あなたまさか…!」
「僕は」
アルブレヒトは、フランシスカの言葉を遮るように声をかぶせた。
「僕はアーネストに黒インクが足りなくなったからとってきて欲しいと言っただけだよ」
「…! そのせいでイプセンの街は2ヵ月閉鎖されて死者も何人も出たのよ!?」
「フランシスカ、落ち着いてください。彼の言うとおり、彼は何も知らなかった可能性もあります」
「でも!」
「彼の罪は私たちが決めることではなく、法と法廷が決めることです」
イヨは、グリーグ伯爵に向き直った。
「グリーグ伯爵。彼はイプセンの街に黄黒病を蔓延させた犯罪に関わった可能性があります。真相を明らかにするために、彼は首都の機関で預からせていただきます」
「…もちろん。反論することは何もありません」
「伯爵にもご同行願いたいです」
「…当然ですね」
フランシスカは、力なくソファに体を沈めた。
「フランシスカさん…」
「大丈夫、大丈夫よ」
何もわからないままだった。あの魔法使いは何者で、何を目的としているのか。グリーグ伯爵は、本当にこの件とは無関係だったのか。アルブレヒトは、本当に何も知らなかったのか。
分かっているのは、フランシスカのモデルは、今日でおしまいになるということだけだった。
「アルブレヒト、一つだけ、教えて」
「…」
アルブレヒトからの返事はなかった。だが、フランシスカは構わず続ける。
「あなたの母親って、今どこにいるの?」
「どこにもいないよ」
アルブレヒトは言葉をつづけた。
「もう、どこにもいることが出来なくなってしまった」
それっきり、アルブレヒトは黙ってしまった。
フランシスカは、彼の哲学じみた言い回しや思考の飛躍に付き合うつもりはなかった。だが実際には理解することを自分が拒んでいるだけなのかもしれないと、彼女は気づきはじめていた。
◇
グリーグ伯爵の城の一角。彼の収集した絵画が集まる部屋。
そこに、アルブレヒトの描いた『愛の寓意』が飾られている。
彼の母親の肖像画は、いつまでも虚空を見つめて微笑み続けていた。
しばらく、更新止まります。




