君のために生きること
プロローグ
母が残した一つの封筒。
母の遺言で「私が死んだ時にはこの封筒を棺の中に一緒に入れてほしい」と託されていた。
私の大好きな母、田口優花はその生涯に幕を閉じた。
親戚達が集まってバタバタと通夜の準備が始まる。
葬儀が終わってから、出棺の前に母が残した封筒を入れるつもりで持っていたのだが中身がとても気になる。
母からは見ないでね。と言われていたわけでもないし…。
思い切って開けてみた。
中には、母の名前と父ではない男の人の名前が書かれた婚姻届けと、便箋が数枚入っていた。
そこには「例え、一緒になれなくても僕は生涯君だけを愛する。今は愛してる以上の言葉を探しているほど君を想ってるよ。そして、最期にこの世には絶対があったという事を君に教えてあげる」と書かれてあった。
「お母さん…」
これは数奇な運命に翻弄されながらも懸命に生き、そんな母をずっと心で支え続けた男性との物語だ。
エピソード1
母は心臓病で亡くなった。
亡くなる数日前、お見舞に来てくれた紳士がいた。
はっきりとは覚えていないが、会ったことがある気がする。
何処か懐かしさを感じさせる雰囲気を持っていて、とても優しそうな人だった。
病床に伏した母の手を握りしめ、何か優しく語りかけていた。
涙を流しながらその紳士を見つめる母の顔は、今までに見たことのない表情をしていた。
普段なら見舞いに来てくれた方に挨拶をするところだが、邪魔しちゃいけない気がして声をかけずに病室を後にした。
葬儀が終わり、沢山の方々が別れを惜しみながら母の棺の中にお花を入れてくれる。
花に埋もれていく母の手元に私はそっと、封筒を忍ばせた。
その中に母の病室で見かけた紳士がいた。
背が高くて、ロマンスグレーの素敵な人だ。
出棺の前に私はその紳士に声をかけた。
「生前は母がお世話になりました。お見舞いにも来て下さいましたよね」というと、紳士は「この度はお悔やみ申し上げます。まりあちゃん、お母さんによく似てきたね。随分昔のことで君はまだ小さかったから私の事は覚えていないかな?」
「私の方こそお母さんにはお世話になったんだよ」と言い頭を下げ、去ろうとした紳士の後ろ姿を見て思い出した。
そうか…。私、確かにこの人に小さい頃会ってる!
母が持っていた婚姻届に書かれた男の人の名前と紳士が一致した。
私は慌てて彼を引き止めてこう告げた。
「待って下さい!青山先生。あの…あなたは、母にこの世に絶対があったことを教えることが出来たんですか!?」
振り返った先生は驚いた表情をしたが、小さな目をさらに細めて優しく頷いた。
私は「母の話を聞かせて下さい。私の知らない母の人生を」と伝えた。
先生は何も言わずまた、黙って頷いた。
住所と電話番号を聞いてそこで別れ、火葬場へと向かった。
母の棺が焼却炉の中へと入っていく。
最後に手を合わせ「お母さん、青山先生に会ったよ。今度お母さんの話を聞かせてもらいに行って来るね。」と心の中で呟いた。
エピソード2
収骨が終わり火葬場を後にした。
骨壺に小さく納まった母を抱いて、杖をついた父と家に帰った。
父の名前は田口司。
数年前に脳梗塞を起こして右半身が麻痺していたため、母の支えと理学療法士のリハビリのお陰で杖をついて歩けるまでに回復していた。
母を亡くした悲しみで父は憔悴している。当然か…。
最愛の伴侶を亡くしたら誰でもそうなる。
でも、私は父の悲しみに寄り添ってあげようという気持ちにはなれなかった。
母が亡くなったのは、父のせいじゃないか!とさえ思っていたからだ。
今まで母に散々面倒をかけていたくせに、母が入院しても足が悪いことを理由にほとんど顔を見せなかった。
私が母の危篤を知らせて父は慌てて来たが、母の死に目には間に合わなかったのだ。
父は建設会社勤務で、母はそこで事務をしていた。
よくある職場結婚だ。
私が生まれてほどなくして父は独立したが、順調にいっていた仕事は次第に不況の煽りを受けて段々と仕事が減っていくようになった。
父は家でもイライラするようになって母や物に当たるようになった。
夜中になると度々、寝室から母の悲鳴が聞こえるようになる。
私は耳を塞ぎ、母は父に酷い事をされてるんだという恐怖と悲しみで震えと涙が止まらなかった。
次の日には必ずと言っていいほど母の体には痣が出来ていた。
足を骨折して、入院するという事もあった。
「ママ大丈夫!?」と私が聞いても母は「転んだだけだよ」とか「テーブルの角でぶつけちゃって、ママはドジだよね」と嘘をつく。
「早く治りますように」と母の痣を撫でていると「優しい子。ありがとう。まりあがいてくれるだけでママは幸せだよ。でも、心配させてごめんね」と私をギュッと優しく抱きしめる母の肩は少し震えていた。
まだ幼かったその頃の私には、それ以上母を問い詰めることは出来ず、ただ「うん」と母の胸に顔を埋めた。
エピソード3
私は高校を卒業して看護学校に通い子どもの頃からなりたかった看護師になった。
自宅からは車で3時間ほど離れた町で一人暮らしをして大きな総合病院の小児科で働いている。
母のことが心配だったし、父は遠くに行くことを反対していたから、家から通える病院で勤めることを考えていたが、母は「私のことは心配しなくていいから、まりあが働きたい場所で頑張っておいで」と背中を押してくれたのだ。
初七日が終わり、帰り仕度をしていた私に父は「母さんが亡くなったんだから、お前も遠くで他人の世話ばかりしていないで、家に戻って俺の面倒を見ろ。仕事なら近くの夜勤の必用のない病院で働けばいいじゃないか」と言ったが、冗談じゃない!私は聞く耳を持たず父を残して家を出た。
仕事に戻って慌ただしい日常は過ぎ二週間が経った。
私は青山先生に連絡を取って、次の休みの日に会う約束をした。
家から、先生の住んでる町まで車で二時間ほどで行けた。
閑静な住宅街の一角にあった。
インターホンを押すと先生が出迎えてくれた。
以前会った時より少し痩せたように見える。
玄関から和室まで続く廊下を通って部屋に案内され、先生は
「よく来てくれたね。運転疲れたでしょう。家まですぐに分かったかな?」と言ってお茶を出してくれた。
私は「大丈夫です。運転は慣れていますし、ここまで分かりやすい道だったので」と言うと「そうか、良かった」と言われ、二人の間に少しの沈黙が流れた。
「早速ですが母の話を聞かせて頂けますか」そういうと先生は
足を崩し「実は君のお母さんに私が死んでから、もし娘があなたを訪ねることがあったら全てを話して欲しい。と言われていたんだ」
「私はお母さんから子どもの頃の話や、私と出会う前の話も聞いているから全部知っているつもりだよ。でも、まりあちゃんにとってその話を聞くことは辛い気持ちになると思う。それでもいいかい?」
私は「大丈夫です。心の準備は出来ています」と伝え、少し息を飲んで先生の口が開くのを待った。
エピソード4
私は、田口 優花。
5歳下に可愛い妹、絵里香がいる。
父は役所勤めの公務員、母は専業主婦。
そして祖父との5人暮らし。
端から見ると何処にでもあるごく普通の家庭。
でも、中身は違っていた。
父は一見人当たりが良く、会社や近所でも評判が良い。
お堅い仕事をしているせいか、その反動なのかは分からないが、家ではお酒を飲んでよく暴れていた。
いわゆる酒乱というやつだ。
父の暴力の矛先は決まって私ばかりだった。
幼い妹に手をあげられるよりはマシだ。
と自分に言い聞かせて、いつも必死に耐えていた。
普通なら母親が止めるところだろうだが、母が止めてくれることはなかった。
散々殴られたあげく、最後には外に放り出される。
夏で蚊に刺されようが、冬で雪が降っていようがオールシーズンそれは変わらない。
でも、私には心強い仲間がいた。
外で飼われている番犬マロンだ。
殴られた痛みに耐えながら、マロンの側に寄って今日の報告を泣きながらする。
マロンは小さな声で「クゥーン」と泣き
一緒に涙を流してくれる唯一の家族だ。
私の味方はこの子だけ。
祖父も、何故か幼い頃から私のことが気に入らないみたいで、同じ姉妹でも扱いが全然違った。
妹のことは目の中に入れても痛くないとばかりに可愛いがっていた。
妹は私と違って少し体が弱く風邪をひいて熱を出すと熱性痙攣を起こしたりしていたため、微熱でもすぐに病院に連れて行かれていた。
私は普段から元気だからか、それとも大事にされていないのか、インフルエンザで寝込んだ時も一度も病院に連れて行ってくれることはなかった。
「私はいらない子なんだ…」と思うようになっていた。
決定的な事は、幼い頃焚き火をしていて左手に大火傷をした時、散々母に怒られた上に病院へ連れて行かれることもなく、氷水で冷やすという処置だけで放置されたことだ。
左手には心の傷とともに、醜い火傷の跡がしっかりと残った。
私は10歳になった。
学校では二分の一成人式といって「10年後の自分に手紙を書きましょう!」と明るい未来への期待感いっぱいの話し方で、先生が作文を書かせる。
「明るい未来か…」
今の私に明るい未来など、想像出来るはずもない。
せめて、今よりは幸せになれますように…。
父の暴力は相変わらず続いた。
私の心は確実に壊れていった。
そしてある事件が起き、私の心は完全に崩壊してしまうのだ。
季節は夏。快晴だ!
学校の運動会での鼓笛隊の練習を終えて、塾に行く友達と別れ、私は一人で帰っていた。
炎天下とアスファルトの照り返しで首筋に汗が流れる。
雲一つない澄み渡るような綺麗な空。
青い空はあんなに涼しそうに見えるのに、地上はこんなにも暑い。
私は、空を見上げるのが好きだ。
あの空を鳥のように自由に飛べたら、あの雲に乗って遠くへ行けたら…。と、そんな非現実なことばかり考えていた。
帰り道で顔見知りのおじさんが前方から歩いて来た。
汗でピッタリと張りついてる白いTシャツ。
サンダルにだぼっとした長スボンに両手を突込み、少し前屈みで歩きながら時折、右手で顎髭を触っている。
「何か、やだな…」
胸の中でザワザワするものを感じた。
そのおじさんは近所であまり評判が良くなく、変な噂があったからだ。
無視する訳にもいかず、私は会釈だけして少し足早にその場を去った。
数分ほど歩いただろうか、背後に視線を感じた。
気になって後ろを振り向いた瞬間、目の前にさっきのおじさんの顔があった。
驚いた私は声をあげようとしたがもう遅かった。
薬品の臭いのする布で口を塞がれ、抵抗する間もなく意識が遠のいていく。
この日、私が見た空が十代最後のものとなった…。
エピソード5
「青山先生、外来凄い人数の患者さんですよ。今日も一日頑張っていきましょう!」と同僚の川上先生が肩をポンと叩いて行った。
僕は青山ひかる。精神科医だ。
僕の仕事はまず、患者さんの話をしっかりと聞くこと。
患者さんの抱えている不安や恐怖心を受け止め、薬物療法を行いながら人間関係の改善や社会適応能力の向上を図るために関わっていく。
治療法として同じような病状の方のグループで行う集団精神療法や、作品を通して患者さんの象徴的な自己表現を読み取り、解釈を引き出す芸術療法、バイオフィードバック療法、催眠療法など様々な治療がある。
今日は先日、足の骨折で運ばれて来て手術をした新患の担当をすることになった。
足の骨折なら通常なら整形の病棟だが、精神的に不安定な状態で時々パニックを起こすことがあるため、精神科病棟に移って来たのだ。
患者さんのカルテを一通り見て、まずはご挨拶。
病室の引き戸を開けると、窓際のベッドで窓の外を眺めていた女性がいた。
彼女が振り向いた時「ん?」僕は気のせいか違和感を覚えたが、彼女に近づき名札を見せて「初めまして、田口さんの担当をさせて頂く青山と言います」と伝えた。
長い栗色の髪を横に束ねていた彼女は、温かみのある雰囲気を持つ女性だった。
彼女は「宜しくお願いします」と頭を下げた。
「今日は、僕が担当させてもらうということでご挨拶に来ました。今後の治療方針につきましては、明日からカウンセリングを通して進めていきましょう」と伝えその日は失礼した。
次の日から彼女のカウンセリングを始めた。彼女の話によると足の骨折の原因はご主人にあることが分かった。
それも今回に限ったことではなかった。
「DVか…」そう思ったが、日常的な暴力というより、夫婦の夜の行為の時に過度なプレイと共に暴力までに発展するということが度々あることが分かった。
ご主人は「性嗜好障害」性的な行動に対して、過度な依存心を持ってしまう精神疾患の一種。
いわゆる「セックス依存性」だった。
彼女は「夜の行為は子どもが生まれてから、段々酷くなりました。回数も新婚の時より増えて、主人の仕事が上手くいかなくなったことも原因の一つかもしれません」と言った。
僕は彼女に「セックス依存症は薬物依存症と同じメカニズムであると言われていて深刻な症状です。快楽を得た時間と頻度の量によって依存症の度合いが次第に増していくと言われています」
「セックス依存症の決定的な治療法はまだありませんが、可能であればご主人にカウンセリングで治療をしていくことです。すぐに結果が出るわけではないので、根気よく。それと保険外診療になるので治療費は高額になってしまいますが…」
そう伝えると「主人にそんな事は言えません!本人は自覚していませんし」と肩を落とした。
彼女はカウンセリングと併せて、足のリハビリも順調に進んでいた。
急遽、今日の治療の時間が変更になることを伝えるため、リハビリ室へ向かった。
平行棒に掴まって足をつく練習をしている彼女の側に女性と子どもがいた。
声をかけると二人を指して「妹の絵里香と娘のまりあです」と紹介され、僕は娘さんの視線まで腰を下ろして「初めまして。お母さんの担当をさせてもらっている青山です」と答えた。
妹さんは「姉がお世話になっております」と言い、娘さんは屈託のない笑顔で「先生、ママを早く治してね」と言った。
治療の時間になり「綺麗な妹さんと可愛い娘さんでしたね」というと「自慢の妹です。妹も結婚してるんですが、まだ子どもが出来なくて娘を自分の子どものように可愛いがってくれています。私が退院するまで主人は仕事で忙しいですし、妹の家に娘を預けているんです」
そして、母親の顔になった彼女は「まりあは私の宝です。あの子と一緒にいられるのなら、どんなことにも耐えられます」と力強く言った。
数日後、診察室に来てもらった彼女に「今日は、田口さんが時々起こしているパニックについてお話ししたいと思います。フラッシュバックを起こすから、パニックになっているという感じですね」
「今までカウンセリングで色々とお話しは聞かせてもらいましたが、肝心なフラッシュバックを起こす原因をまだ、聞かせてもらえていません。田口さん、その原因に心当たりはありますよね。そのことについて教えてもらえませんか?」
彼女の表情は一変した。
そして、一呼吸おいた彼女は「分かりました。本当はこの事は誰にも話したくなくて…。出来ることなら墓場まで持って行くつもりでした」
僕は彼女に「今のままでは、根本的な解決にはなりません。お話ししにくい内容だとは思いますが話してもらえますか」と伝えると「全てお話しします」と答えてくれた。
私には、10歳までの記憶がほとんどありません。
学校の帰りに事故に遭って、その時に頭を強く打ったのが原因だそうです。
母からは「一時的に記憶喪失になってるだけだから、そのうち記憶は戻るわよ」と言われていましたが、今までに戻ったことは一度もありません。
それから…
主人と付き会う前に、見知らぬ男性に強姦されたことがあります。
あまりの恐怖で、途中から記憶をなくしてしまったんですが。
主人が助けに来てくれた時はもう遅くて…。
彼は傷ついた私を献身的に支えてくれました。
男性恐怖症になった私に指一本触れることなく「ゆっくりでいいから、焦らなくていいよ」とずっと傍にいてくれました。
そんな彼の優しさに惹かれて付き合うことになりました。
付き合ってからも、私が「もう大丈夫だから」というまで肉体関係はありませんでした。
1年ほど付き合って、彼は「僕が君を絶対幸せにするよ」と言ってくれて凄く嬉しかった。
大切にしてくれて、愛されていると実感して「私もあなたと一緒に幸せになりたい」そう答えて私達は結婚しました。
付き合っている間も、結婚した時も本当に優しい人だった。
ですがまりあが生まれて、仕事が上手くいかなくなってから、あの人は変わりました。
夜の行為も段々手荒になってきて…
でも、襲われた時の事をフラッシュバックするようなことはありませんでした。
私は、彼のお陰でレイプの傷は癒えていたんだと思っていました。
見知らぬ男性にレイプされた私と結婚してくれた上に、まりあの母親にもしてくれた。
だから彼に乱暴なことをされても、これくらいは耐えなきゃ。
今度は私が彼を支える番だと思いました。
でも、真実は違っていた…。
エピソード6
この病院に運ばれて来る前日のことです。
以前襲われた男に数年ぶりに会ってしまいました。
私は逃げようとしましたが、その男は私の腕を掴んでこう言いました。
「俺のお陰で旦那とは仲良くやってるみたいだな」
私は「どういう事ですか!?腕を離して‼」と振り払いました。
男は「俺とあんたの旦那は昔、ヤンチャをしてた時の仲間だったんだ。あんたを襲う振りをしてくれ。その時に俺が助けに入るから。と頼まれたんだぜ。でも襲う振りなんかで抑まるわけないよな」
「だから、指定された時間より早めに行って、旦那が来るまでに事を済ませて逃げたのさ。本当にあんたを襲ったことを知った旦那は、怒り狂って報酬を払ってくれるどころか俺をフルボッコにしたけどな」
「そんな…」
私はその時、あの頃の優しかった主人の笑顔が浮かびました。
でもそれは全て嘘だったのだと、今まで信じていたものが脆くも音を立てて崩れていきました。
私が愕然としている間もその男はまだ話を続けました。
「旦那の経営上手くいってないんだろ?あんたも子どもがいるのに大変だな。旦那には内緒にして、俺といいことしようぜ。一度はヤった仲だろ。もちろんタダでとは言わないからさ」
そう言って連絡先を書いた紙を置いて、去って行きました。
私は何も言い返すことが出来ず、その場から動くことが出来ませんでした。
家に帰った私は娘が寝静まるのを待って主人に話しました。
「今日、私を襲った男に偶然会ったよ」
そう言った瞬間、彼の顔色は変わりました。
「あの事件は、事故なんかじゃなかったのね。全部、司が仕組んだことだったんだ!私を支えてくれたことも、愛してくれたことも、全部、全部嘘だったんだね‼」
じゃあ、私は一体何のために今まで耐えてきたの…?
「もう、信じられない。司とは一緒に入られない‼まりあは私が育てます!」
そう言ってまとめていた荷物を取りに行こうとした時に、主人は「待ってくれ!話を聞いてくれ!」と、もみ合ってるうちに足を踏み外して階段から落ちた時に、骨折してしまったんです。
私の心はもう限界でした。
精神的に不安定になった私は、主人が病院に来ても話せるどころか返ってパニックを起こしてしまって…
なので、主人とはあれ以来ちゃんと話しは出来ていません。
それと、最近になってフラッシュバックを起こすようになりました。
襲われた真実を知ってしまったせいなのでしょうか。
でもフラッシュバックで見る顔はあの時の男とは違うような気がするんです。
それから記憶がなくなることもありました。
こちらの病棟に移って来た日のことです。
先生が病室で挨拶をしてくれた時までの記憶がありません。
僕は「そうだったんですね…」
衝撃ですぐに言葉が出なかった。
「辛かったですよね。でもよく話してくれましたね。田口さんもう頑張らなくていいですよ。ゆっくり休んで下さい。でも、田口さんがお話しを聞いてもらいたいと思った時は、僕で良ければいつでも呼んで下さい」そう言って彼女に優しく微笑んだ。
彼女は少しずつ心を開いてくれた。
今の彼女に有効な治療は催眠療法だ。
催眠療法とは催眠と暗示、そしてイメージを用いて人の潜在意識にダイレクトにコミュニケーションを取ることができ、心に肯定的な変化を促すことができるセラピーテクニックのことだ。
「田口さん治療の方法なのですが、催眠療法を行っていきたいと思います。一度は耳にされたことがあると思います」
「田口さんには「年齢退行」といって、襲われた時の年齢まで戻って話を聞いていきたいと思います」と伝えた。
彼女はいつも以上に真剣な顔で「過去の自分に戻るということですよね。何だか緊張しますね。宜しくお願いします」と言った。
エピソード7
雲一つない空。
数十年ぶりに見た空は、やっぱり綺麗だった。
最後に自分の目で青空を見た時はまだ10歳だった。
あれから随分と月日は流れ、私の身体は大人に成長している…。
催眠療法の話をした次の日、早速行うことにした。
「それでは始めていきます。田口さん、目を閉じてゆっくりと深呼吸をして。体の力を抜いてリラックスして下さい」
「白い階段をイメージして、下へ下へと降りていきます。ずーっと奥深い場所までどんどん降りていきます。階段を降りていくと、つきあたりにドアがあります。ドアをゆっくりと開けて下さい」
年齢退行で彼女が襲われた歳まで戻るつもりだった。
本人は暗示にかかった状態で、イメージしながら話していくのだから意識がなくなるわけではない。
だが、彼女は退行していくうちに意識を失くしてしまったのだ。
まさかこの催眠療法をしたことによって、これ程の真実を掘り起こしてしまうなんて…。
そして、この事が僕と彼女の運命を大きく変えてしまう。
僕にとって彼女が生涯最愛の人になるなんて、この時の僕には予想すら出来なかった…。
ドアの向こうにもう一人女性がいた。
「解離性同一性障害だったのか…」
解離性同一性障害とは、以前は「多重人格障害」と呼ばれていたもので幼少期のトラウマなどが原因で複数の人格が形成され、同一人物の中に交代して現れる状態をいう。
大体の人は成人期初期から明らかであり、人生の大半を通じて持続すると言われている。
もちろん、今までに解離性同一性障害の患者さんは何人も診てきた。
この障害は基本人格と交代人格がいて、表に出ている人格を主人格という。
患者さんの中には交代人格が何人もいて、性別や年齢が異なっていたりする人もいる。
主人格と交代人格の共通の記憶がある人、記憶がない人。
基本人格と一緒に年を取る交代人格、年を取らない交代人格。
過去の嫌な思い出に近いことが起こる前に解離する主人格。
凶暴で殺人願望のある人格を他の人格が監視して、主人格にさせないように守ってくれる交代人格などがいた。
この障害の症状や行動は想像以上に幅が大きく、その治療体験は驚異と発見の連続だ。
そして、彼女のケースは僕にとって初めてだった。
僕は「あなたは…誰ですか」と聞いた。
その女性は、ゆっくりと自分の話を始めた。
「私は優花です。先生にお話ししておきたい大事なことがあります。そして、約束してほしいことも…」
「ん…?優花さんは今、意識をなくしてる、言わば主人格の方ですよね?」
「いいえ。主人格として表に出ているのは、交代人格の亜季と言います。」
「一体…どういうことですか?」
「私は10歳の時にある事件に遭いました。それは…顔見知りのおじさんに誘拐されて、性教育という性的暴行を受けたことです。その事件に遭うまでも父親から暴力を受けていて、私の心は限界でした」
「そいつから受けた強烈な痛みと恐怖、絶望から心を守るために彼女が生まれてきました。その苦痛は、交代人格として出てきてくれた亜季が代わりに受けてくれた。亜季はこう言いました。もう、怖がらなくていいよ。これからは私が優花として生きていく。だから、安心して休んでいて」と…。
「私達が交わったのは、その時だけです。それ以来、亜季はずっと優花として長い間生きてくれました。次第に亜季はヤツから性教育を受けたこと、自分が私を守るために生まれてきたことを記憶の箱にしまいこんで、完全に忘れてしまったまま生きてきたのです。私が10歳の時に解離して亜季が出てきました。ですから、亜季に10歳までの記憶がないのは当然です」
「両親は変わり果てた私を見て、何が起きたのか察しがついたようですが、記憶を失くしているんだから、事を大袈裟にせず娘には事故に遇って記憶喪失になったことにしよう。ということにしてくれました。それからは父親の暴力は一度もありません」
「私は優花として生きてくれている亜季に存在を知らせることなく、ずっと今まで一緒に生きてきました」
「それから私は今まで眠っていたわけではありません。彼女を通して、これまでのことは大体把握しています。私が表に出た時は彼女が強姦に遭った時と、この病棟に移って来た時だけです。私が表に出ている間は彼女の記憶はないと思います。
「催眠療法を終えた彼女にこの真実を今、伝えることはあまりにも酷なことです。私の存在は知らせてもらっても構いませんが、彼女には私が解離した時に出てきた交代人格であるということは黙っていてもらえませんか。あくまでも今、主人格として生きている彼女が優花で、私のことは交代人格の亜季ということで、入れ替えてお話してほしいのです。優花が強姦にあった時に解離して私が現れたことにして下さい。お願いします」
医者としてこのお願いを聞き入れるべきなのか考えた。
確かに、優花さんの言う通り今の彼女に真実を告げることは酷なことだ。
もっと混乱を引き起こして病状は悪化するかもしれない。
僕は「分かりました。あなたの言う通りに彼女には伝えますね」と答えた。
催眠療法が終わって彼女は目覚めた。
「先生、私は眠っていたんですか?意識が段々遠のいてきいました。どうでしたか?過去に戻って何か分かりましたか?フラッシュバックは、やっぱり私が記憶を失くしてる間に起きたことが原因なんですか?」
彼女は次々に質問してきた。
僕は基本人格である、優花さんの言う通りに話した。
彼女は予想以上に驚いていたが、しばらく時間を置くと納得した様子だった。
僕はホッとした。
でもやはり疑問に思うこともあるようで、フラッシュバックで見る男の顔が違うということだ。
きっと、いや、おそらく彼女が見ている男は強姦された時の男ではなく、もう一人の優花さんが話していた性教育を受けた時のおじさんの顔なのだろうと思った。
自分の病気を理解してもう一人の存在を受け入れた彼女は、フラッシュバックも起こることなく、以前よりずっと精神的に安定してきた。
足も良くなって退院する日を決めることになった。
退院してからは、週に一度外来で通ってもらうことにした。
「田口さん退院後はどうされますか?」
彼女の両親は事故で亡くなっていて、肉親はまりあちゃんを見てくれている妹の絵里香さんだけだ。
だが退院するには大きな問題がある。
ご主人のことだ。
まだちゃんと話が出来ていない状態だった。
「田口さん今の状態で家を出て、娘さんを育てながら仕事をして生活をしていくのは難しいと思います。退院するまでに一度ご主人に来て頂いて、田口さんの現状をお話しして理解してもらった上で、これからの事を相談されたらどうでしょうか」
もう一人の人格が出てきたきっかけを起こしたのはご主人だと思っている彼女に、家に戻った方がいいということは酷なことだと分かってる。
だが精神面でも、経済面で考えても娘さんと二人での生活は厳しい。
それにご主人の「セックス依存症」を良くするためにも、カウンセリングに通ってもらう方向で話が出来るのではないかと考えた。
彼女は不安そうな顔をしたが「そうですね。ちゃんと話してみます」と答えてくれた。
エピソード8
ご主人が病院に来てくれた。
僕が想像していたより細身で中性的な顔立ちの、爽やかな人だった。
カンファレンス室に入ってもらって彼女と3人で話をさせてもらうことにした。
彼女はうつむいたまま、ご主人の顔を見ようとしない。
「田口さん奥さまの現状について、お話しさせて頂きたいと思います」
僕は彼女が解離性同一性障害であることそして、それはどのような症状なのかを話した。
当然の反応だが、ご主人は困惑した顔で「それは…。優花には、もう一人の人格が存在するということですか!?その病気はどうなるんですか。治るんですか!?」と矢継ぎ早に聞いてきた。
うつむいていた彼女が顔を上げて「誰のせいでこんな事になったと思ってるの‼強姦に遭った時に解離してもう一人が出てきたんだよ‼」
「全部…司のせいだよ」と泣き出しそうな彼女の隣でご主人は
「優花ごめん。俺がしたことは許されるような事じゃないことだって分かってる。でも、ちゃんと償いをさせてもらえないか」と訴えた。
「だいたい、どうしてあんな事をしたの!?」
「俺は優花が入社した時からずっと好きだった。でも、優花は俺に興味がないみたいで、何度食事に誘っても一度もOKしてくれなかった。そのうちに同僚も優花のことを好きだと知って、優花を取られてしまうと思って焦ったんだ」
「そしてあの計画を思いついた。でも、アイツが本当に優花を襲うなんて思っていなかったんだ!襲うふりをしてくれと頼んでいたのに…。本当に申し訳なかった」と目に涙を浮かべて心底後悔しているようだった。
そして彼女は「でもあなたは自分のせいで男性恐怖症になった私が司を受け入れることが出来るようになったのに、私に酷いことをするようになった。そんな司の事を簡単に信用するなんて出来ない」と言い切った。
僕は今がチャンスとばかりにご主人に「セックス依存症」について話した。
「田口さん、いい機会ですからカウンセリングに通われませんか。奥さまに償いをしたいという気持ちがあるのであれば、良くしていくべきだと思います」
ご主人は怪訝そうな顔をしていたが
「カウンセリングで良くなるのであれば通います。そして、優花とまりあと3人でやり直したい…」
ご主人を真っ直ぐ見ながら彼女は「あなたが心から反省して、病院に通ってやり直す努力をするというなら、まりあのために家に戻ります」
そう言って話し合いは終わり、退院日が決まった。
エピソード9
退院日になった。
妹さんと一緒に迎えに来た娘さんが、二つくくりにした髪を揺らしながら走って来た。
娘さんは彼女に飛びついて「ママとお家に帰れる!」と大喜びだった。
「まりあ、長い間一緒にいられなくてごめんね。今日からはずっと一緒にいるからね」そう言って娘をギュっと抱きしめていた。
こういう光景はいつ見ても微笑ましい。
元気になって退院して行く患者さんを見ると、この仕事をしていて良かったと心から思う。
僕は「田口さん、次の外来の予約表です。診察日じゃなくても
何か困ったことや、心配なことがあればいつでも連絡して下さい」と名刺を渡した。
彼女は「先生、色々とお世話になりました。また外来で宜しくお願いします」そう言って頭を下げる彼女の隣で娘さんも真似をして、深々とお辞儀をしてくれた。
僕は退院が出来るまでに心身ともに回復して本当に良かった。という気持ちと、ご主人との生活は大丈夫だろうかという不安があったが彼女達を笑顔で見送った。
1週間後の外来の日、彼女は来なかった。
風邪をひいて来られないとの連絡があった。
胸騒ぎを感じたが、次は来てくれるかもしれない。
彼女を信じて待とうと思った。
ご主人のカウンセリングは仕事の都合もあって、2週間毎に通ってもらうことになっている。
最初の外来にご主人は来てくれた。
「田口さん性嗜好障害の説明は前回させて頂きましたので、今日は治療についてお話しさせて頂きたいと思います」
「この障害には、性ホルモンの異常が関わっているといういう説も発表されていて、テストロンという性ホルモンが何らかのきっかけで以上に多く分泌されてしまうと性交渉がしたくてたまらない。そして性交渉でストレスを忘れるために行い、問題のすり替え行動を行っているとも思われます」
「大人になってから生活上のストレスを機に発症する場合があるので、ご主人の場合はお仕事が関係されているのではないでしょうか?」と話すとご主人は
「そうですね。ストレスと言えば、独立して軌道に乗っていた仕事が上手くいかなくなったことが大きな原因と思います。先生の言われるようにそのイライラを優花にぶつけて、性交渉で粉らわせていたと思います」
「自分でも、段々抑えが効かなくなって暴力的になって…。
優花が自分のせいでレイプされたことを分かっていたのに…」と膝の上で握っていた拳に力を込めた。
「田口さん…。これから一緒に治療を頑張っていきましょう」
「はい…。有難うございます。」
「奥さまの具合はどうですか?風邪は良くなりましたか?明日の診察には来られそうでしょうか」
「多分、大丈夫だと思います」
「そうですか。宜しくお伝え下さい」
カウンセリングは順調に終わり次の予約をしてご主人は帰って行った。
次の日彼女は来てくれた。
僕はホッとした。
でも元気がないようだ。
「田口さん風邪が治って良かったです。足も順調そうですね。
お家に帰られてから、気持ちの面ではどうですか?」
「先生、主人はカウンセリングで本当に良くなるのでしょうか」
「前にもお話しした通り、良くしていくには根気よく通って頂くことが大事です。ご主人と何かありましたか?また、以前のような事をされているとか…」
あれだけの事をして彼女に対して悔いていたご主人が、また同じ事を彼女にしているとは思えない。
この間のカウンセリングでもそのような兆候は見られなかった。
「前のような事はありません。家に戻ってからは寝室も別にしていますし。ですが…やはり、心から主人を許せていないからでしょうか。別の部屋に寝ていてもあの人が夜中に来るんじゃないかという不安があります」
「それから、時々ですがフラッシュバックが起こります。やっぱり強姦された時の男の顔とは違うんです」
そう言った後、彼女は意識を失くした…。
催眠療法をしていたわけじゃないが、もう一人の基本人格である優花さんが出てきて話しを始めた。
「先生、彼女はフラッシュバックを起こした時に自分が出てきた時のことを少しずつ思い出してきているんです」
「何か思い出してしまうような、きっかけになるような事があるんですか!?」
「いえ、何かが起きてというわけではなく、不定期に起こっているんです。先生、過去の記憶を思い出さなくていいい、治療方法はないんですか!」とすがるような目を僕に向けた。
僕は申し訳ない気持ちで「思い出させないような治療方法はないですね…」と答えた。
彼女は寂しそうな表情で「そうですか…。じゃあ、彼女が少しずつ思い出していくのを黙って見ているしかないんですね。ヤツに性的暴行をされた事を、その時に自分が出てきたことを知ってしまったら、きっと彼女は壊れてしまう…」
「彼女を失いたくないんです。私は主人格になんてならなくてもいい。これからも、彼女と一緒に生きていきたい。ただそれだけです」
そう告げて優花さんは去って行き彼女が目覚めた。
優花さんの言う通り、僕も彼女に真実は思い出してほしくない。
彼女の心が壊れて消えてしまうようなことになったら、僕は…。
いつからだろう。こんな気持ちになってしまったのは…
彼女のことを患者としてではなく、一人の女性として気になるようになっていた。
「先生、私、意識が…。催眠療法をしていたわけではないですよね?もう一人の人と、お話ししていたんですか?」
「はい。お話ししました」
「田口さん彼女は、フラッシュバックを起こしている事をとても心配していましたよ」
「そうですか…。先生、私怖いんです。フラッシュバックを起こす度に少しずつ何かを思い出していく。それは、知りたくないような思い出してはいけないような内容なんです」と辛そうに目を閉じた。
「そうなんですね…」
「知りたくないような事を少しずつ思い出していくなんて怖いですよね…。」
「田口さんその内容を僕に話して、その怖さや不安が少しでも軽くなるのであればいつでも話して下さい」
そう伝えてその日の診察は終わった。
数日後、僕はいつも通り仕事を終えて帰り仕度をしていた。
もう12月。窓の外には雪がちらついていた。
今年も、もう終わりだ。
そんなことを思いながら着替えていた時に、1本の電話がかかってきた。
彼女からだった。
「青山先生、助けて下さい‼」と息咳切った様子だった。
僕も慌てて「田口さん、どうしました!?何かあったんですか!?今、何処にいますか!?」と聞くと
彼女は「病院の近くです。怖いんです。私、私は…」と今にも崩れてしまいそうな声で泣いていた。
「そこにいて下さい。すぐに向かいます‼」と急いで病院を出た。
彼女は病院から数百メートル離れたカフェの側で、しゃがみこんでいた。
「田口さん大丈夫ですか!?」
震えている彼女の体を起こそうとしたが脱力感からか、立つことが出来ないほどだった。
こんなに怯えて余程怖い思いをしたんだろう。
フラッシュバックで過去の出来事を思い出してしまったんだろうか。
彼女が震える手で僕の腕を強く掴んで胸に頭をくっつけた瞬間、僕は冷えきった彼女の背中にそっと手を回して優しく抱き寄せた。
彼女が落ち着いて口を開くまで僕たちは抱きしめ合っていた。
「先生の体、温かい」という彼女の唇に視線が集中して僕の鼓動は更に早まった。
早まった鼓動はどんどん大きくなって彼女に聞こえてしまいそうだ。
「田口さんこんな薄着で出てきたら、風邪ひいちゃいますよ。僕が抱きしめて怖くないですか?」
「先生は、怖くありません。ホッとします」
「怖くないのなら良かった。このままじゃ本当に風邪ひいちゃいます。とりあえずカフェに入りますか?それとも病院まで歩けそうだったら、病院に行きますか?」
「病院まで歩けます」そう言った彼女の肩に僕のコートを羽織らせて病院まで歩いた。
いつもの診察室にある長椅子に二人で腰を下ろし「コーヒーでいいですか?」と聞きながら僕は立ち上がった。
「はい。有難うございます。先生、お話しを聞いてもらっていいですか?」
「もちろんです。話してみて下さい」と入れたコーヒーを差し出して彼女の隣に座った。
「フラッシュバックで段々、思い出してきたことがあります。母が昔、私が学校の帰りに事故に遭って記憶喪失になったと言っていましたが本当は事故じゃないと思うんです」
「私が思い出したことは、知らないおじさんの家にいて、おじさんが何かを話しながら私の体に手を伸ばしてくるところまでです。先生、どうしたら良いんですか!?この先を思い出したくありません」と両手で顔を覆った。
そうか。基本人格の優花さんにとっては顔見知りのおじさんだが、その時に出てきた今の主人格である亜季さんは初めて会うおじさんだ。
「そうなんですね…」
彼女は自分が思い出そうとしてる内容が、性的な事だと分かってしまったんだろう。
この先を知ってしまう恐怖…。
彼女の気持ちを思うと胸が痛んだ。
「事故に遭ったと思っていたことが実は違うようで、知らないおじさんの家にいて、何かされそうになっていたなんてとてもショックですよね。怖かったですね」
僕も怖かった。
止められるものなら、今すぐにでも思い出させないようにしてあげたい。
この後に思い出してしまうことは、性教育という名の性的暴行だ…。
「怖いんです…。想像がつくだけに尚更思い出したくない」
恐怖で泣きそうな彼女を、僕はさっきより強くギュッと抱きしめた。
僕は医者なのに彼女の苦しみを止めてあげることが出来ない。
大切な人が目の前で苦しんでいるのに、何て無力なんだ…。
「田口さん僕はあなたを守りたい。実際に傍にいることは出来ないけど、心はずっとあなたの傍にいたいと思っています。これ以上のことを思い出して恐怖でいっぱいになった時は、僕に支えさせてもらえませんか」
「先生…。嬉しいです。ありがとう」
泣きそうだった彼女を結局泣かせてしまった。
僕は「これからは何かあった時だけではなくいつでも連絡下さい。メールであれば、仕事の合間に返信も出来るし。もちろん、緊急の時はすぐに電話を下さい」
そう言ってタクシーで彼女を家の近くまで送って行った。
彼女とは外来に通いながらプライベートでは、メールでのやりとりをしてお互いの近況報告や何気ない会話をして、僕たちの時間はゆっくりと過ぎていった。
あれからは精神的に落ち着いているからかフラッシュバックは起きていない。
このまま安定していれば、過去の事を思い出さなくていいんじゃないか。
そんな期待をしてしまう。
でも、その期待はもろくも崩れさってしまった…。
いつも彼女から送られてくるメールが朝から一度も来なかった。
僕から送っても返信がない。
どうしたんだろう…。
何かあったんだろうか、メールを打てないほどの何かが起きてしまったのだろうか。
不安でたまらなかった。
予約していた外来にも何も連絡がなく来なかった。
ご主人に連絡を取ろうかとも思ったが、ご主人も最近外来に来ていない。
嫌な予感が…。
その予感は見事的中した。
もう一人の優花さんからメールが来たのだ。
「青山先生へ。旦那が彼女にまた酷いことをしようとしました。せっかく先生のお陰で精神的に落ち着いていたのにフラッシュバックも起こして、彼女はショックで我を忘れて部屋に閉じこもってしまい声をかけても反応がありません」
エピソード10
ここは…。何処…?
知らない部屋。
真っ白な部屋の中にはドアと窓が一つとベッドとクローゼット。
クローゼットを開けてみたけど、中には洋服類など一切入っていない。
そしてカバーのかかった姿見の鏡があった。
まるで、モデルルームみたい…。
何気にカバーを外して鏡の前に立ってみた。
その瞬間、声も出ないほどの衝撃が走った。
なっ、何!? 誰この人!?
面長な顔立ちに、スッとした長い首。
パッチリとした二重に、赤くふっくらとした唇。
手足は透けてしまいそうなほど白く、どこか儚げで美しかった。
そこに映っていたのは私の容姿じゃなかった。
私は…一体誰!?
どうしてこんなとこにいるんだろう。
頭が混乱する。
気持ちを落ち着かせてちゃんと整理しよう。
思い出した…。カウンセリングに通って、少しずつ良くなっている旦那をまりあのためにも信じよう。
そう思っていたのに嫌悪感が拭いきれず、まりあの前以外で私は旦那を避けていたんだ。
旦那は仕事のストレスだけじゃなく、私に避けられていることに寂しさや苛立ちを感じたんだろう。
「優花に酷いことをしたことは分かってる。でも、頭では分かっていても止められないんだ。優花に触れたい。優花を感じたい」
そう言って嫌がる私を無理矢理襲って来たんだった。
その時フラッシュバックが起こり、過去の記憶がまた一つ明らかになった。
それはおじさんが性教育だと言って、恐怖で動けず泣き出した私の服を脱がすところだった…。
「優花…」
ん…!?ドアの向こう側から女性の声が聞こえる。
「優花、私の声が聞こえる?返事して優花。目を覚まして」
「あなたは誰? ここは何処なの?」
「私は優花の交代人格の亜季だよ。あなたがそこにいる場所は私の部屋」
「亜季さん?亜季さんの部屋なの!?あなたは、今までずっとここにいたの?」
「そうよ。優花、そこに窓があるでしょう?その窓を開けてみて。窓を開けたら、私が見ている風景をあなたも見ることが出来るから」
「えーっ‼そんなことって出来るの?」
そう言いながら、私は窓を開けた。
ほ、本当だ!不思議な感覚。
直接自分で見ているわけじゃないのに、彼女が見ている風景が見えてる!
「優花、青山先生が優花と連絡が取れないって凄く心配してメールをくれてるよ。早く戻って来て。そのドアを開けたら入れ替われるから」
青山先生…。先生に逢いたい…
私は入院している時から、先生に対して特別な感情を持つようになっていた。
弱っている時に優しくされれば、恋と錯覚してしまうというが、私の気持ちは錯覚などという軽い気持ちではなかった。
私が電話で助けを求めた時も、先生は一目散に駆けつけてくれた。
そして、先生にしがみついた私をそっと抱きしめてくれた。
私の鼓動よりも先生の鼓動の方が早くて、ドキドキしてくれてたのかな。
その鼓動を肌で感じていると、とても安心出来た。
その時に確信した。
私は、彼を愛している。と…。
戻らなきゃ。
私は、ドアを開けた。
私が部屋にいた間に、すでに三日が経っていた。
亜季さんが家事もしっかりこなしてくれていたんだろう。
部屋も掃除してあって、旦那とまりあは朝食をとっている。
部屋を見回しながらつっ立っていた私に「ママ、どうしたの?」とまりあが不思議そうな顔で聞いてきた。
「ううん。何でもないよ。ママも食べよう。いただきます」と手を合わせてトーストを口に放り込んだ。
良かった。二人とも、いつも通りだ。
食べ終わった旦那が「行って来ます」と席を立った。
「あ、うん。行ってらっしゃい」と私も席を立ち、まりあは
「パパ、行ってらっしゃい」と手を振った。
玄関に向かった旦那に「司、私…」とうつ向いたまま戸惑ってる私に
「優花、おかえり。この間は怖い思いをさせてごめん。また優花に酷いことをしようとして…。入れ替わった亜季さんに怒られたよ」
「戻って来てくれて良かった。俺また、青山先生の所にちゃんと通うから」
「うん…」
そう言って旦那は仕事に出かけた。
青山先生に連絡しないと。
そういえば、亜季さんが先生からメールが来てる。って言ってたな。
メールを開くとそこには、先生の気持ちがいっぱい詰まった文章が書かれてあった。
今朝のメールがなかったことで、昨夜優花さんの身に心に何かあったんじゃないかと心配に思っている中、亜季さんがメールで教えてくれたよ。怖かったね…。
こんな時に君の心に声を届かせたり、駆けつけて温もりを届けられない今の僕自身がとても歯がゆいです。
恐らく今、君は右も左も上も下も分からない、景色も見えない、何も聞こえない、その中にうずくまって震えているんだと思います。
亜季さんを通して、僕の言葉が届くか分からないけど僕の正直な今の気持ちを伝えるね。
僕にとって優花さんは気になる患者さんから、いつしか守ってあげたい、力になりたい。と思うようになって、その気持ちは愛情へと変わっていきました。
その気持ちは強く、深くなっていって、いけないと分かっていてもブレーキをかけることが出来なくなって、今では君のことを心から愛しています。
優花さんも、もし僕と同じ気持ちがあるのであればこの先、君に降りかかる辛さ、悲しみ、苦しみを全部僕に背負わせて下さい。
先生…。
携帯を胸に抱きしめて目を閉じた。
私も先生と同じ気持ちだよ。
私は旦那のこと部屋にいたこと、過去の記憶のことをメールした。
エピソード11
やっと彼女からメールがきた。
良かった…。
僕は心の底から安堵した。
「近々外来に来れますか?」と送ると「外来には行きます」でも、もっと早く逢いたい。と返信があった。
嬉しかった。
僕も今すぐにでも逢ってギュッと抱きしめたい。そう思った。
この三日間生きた心地がしなかった。
過去の記憶を何処まで思い出したのか、彼女はちゃんと戻って来れるのだろうか、また逢えるんだろうか。
不安で押し潰されそうだった。
二日後、僕達はやっと逢えた。
「優花さん。おかえりなさい」
「先生、ただいま。やっと逢えた…」
彼女の溢れ出しそうな涙が落ちる前に、僕は力強く抱きしめた。
かけたい言葉はたくさんあった。
でも、今の僕達に言葉なんていらない。
この温もりが、僕を真っ直ぐに見つめて微笑んでくれる、この愛しくてたまらない彼女の存在を感じることが何よりも幸せだった。
しばらくして、彼女が口を開いた。
「主人が無理矢理、襲ってきて怖かったの…。そしてフラッシュバックを起こして、おじさんが性教育だと言って、泣いてる私の服を脱がして、それから、それから…」と大粒の涙が彼女の頬を伝い落ちた。
「…。」
「言わなくていいよ…。怖かったね…」
震える彼女の背中を撫でながら、彼女は基本人格の優花さんと入れ替わった直後のことは思い出してるが、その時に自分が出てきて、優花さんに私が替わると言ったことは思い出していないんだとホッとした。
「初めて亜季さんが今までいた部屋に入ったよ。最初はそこが何処なのか分からなくて。部屋には、姿見の鏡があったの。そこに映った私の姿が違ってた。それってどういうことなんだろう…」
「それはどんな姿だったの?」
「別人だった。身長は私より少し高いくらいかな。黒髪のセミロングで、色白で細身だった」
「そうなんだ。人ってさ、夢の中や頭の中での認識って、結構曖昧だと思うんだ。夢の中で自分の姿を見たことってある?」
「夢の中で自分の姿を?確かに、見たことないかも」
「優花さんの姿が違うように見えたとしても、それは優花さんが何処かで記憶していた姿だったり、こういう容姿になりたいと、潜在的に思った姿が映ったのかもしれないよ」
「そうなのかな。じゃあ、そんなに気にすることじゃないのかもしれないね」
僕は笑顔で返した。
交代人格として出てきた彼女の容姿が違うのは、当然のことだろう。
いつか、彼女は真実を知ってしまう日が来るのか。と僕は息を飲んだ。
彼女の運命は、僕達の未来はどうなっていくのか…。
そんな不安をかき消すように、抱きしめていた腕にグッと力を入れた。
「先生…?」
「先生じゃなくていいよ」
「じゃあ、ひかるさん?」
「ひかるでいい」
「私も、優花でいいよ」
「うん」
「ひかるとずっと、一緒にいたい」
「僕も…」
「僕も、優花を離したくない」
「ひかる、メールありがとう。嬉しかったよ。心配かけてごめんね」
「私も、あなたを愛してる…」
「君を失ってしまうんじゃないかって、怖かったよ」
「優花、愛してるよ…」
私達は、初めてお互いの気持ちを確かめ合って「愛している」という言葉を口にした。
今までこれほど誰かのことを想ったことがあっただろかと思うほど、彼を心から愛していた。
でも…。
私にはまりあも旦那もいる。
旦那とはこの先上手くやっていく自信はない。
離婚を切り出してまりあの親権を私に譲ってくれるだろうか。
まりあとは絶対離れたくない。
私は、そんな現実的なことを考えていた。
家に帰ってまた今までの日常が戻り、旦那も私も彼の外来に通って、私と彼はたまに二人で会うようになっていた。
あれからは、フラッシュバックは起きていない。
私が思い出したことはあの悲惨な性教育の事件で終わりなんじゃないか、あれ以上のことがあってたまるか!と思いながら過ごしていた。
あれから三ヶ月が過ぎた。
私達は愛し合っているが、一線を越えることはなかった。
お互い、暗黙の了解みたいなものがあったのかもしれない。
体で繋がっていなくても強い絆と心で繋がっていた。
私達はそれで十分幸せだった。
彼に1度聞いてみたいことがあった。
「ひかるは何故、精神科医になろうと思ったの?」と尋ねた。
彼もまた、心に傷を負っていた。
エピソード12
彼女に精神科医になった理由を聞かれた。
僕は彼女には、何でも正直に話そうと思った。
「僕が精神科医になろうと思ったのはね、同い年に隆っていう親友がいて、そいつとは家が二軒隣で親同士が仲が良かったから、小さい頃からいつも一緒に遊んでいたんだ。隆の親は共働きだったし、よく家でご飯を食べたりして兄弟のように育ったんだよ」
「中学生になってからはクラスが離れたけど、部活は同じ野球部だったから毎日ヘトヘトになりながら夜遅くまで練習したよ」
「でも隆はクラスでいじめられていて、僕はそのことに気づいてやれなかったんだ。最初は部活を休むようになって、何度も顔を見に行ったけど体調が悪いからとしか言わなくてさ。段々学校にも来なくなった。2年生で僕はレギュラーになって部活が忙がしくて、なかなか隆の家に行く時間もなくなって、ほったらかしにしてしまったんだ」
「小さい頃は家から少し離れた川によく行って、彼は魚を捕るのが上手でね。
隆は「俺、将来漁師になれるかもな!」って」
「僕は小学生の頃から野球をしていたから「俺はプロ野球選手になる!」って言ったら、隆は「ひかるがプロ野球入団した時には俺の捕った鯛で祝ってやるよ!」なんて話ながら遊んでいたよ」
「部活の帰りに、いつも家に閉じこもっていた彼に偶然会ったんだ。隆は僕に「お前はプロ野球選手の夢叶えろよ」って」
「僕は「なぁ、隆は俺に入団祝いに鯛で祝ってくれるんだろ?」って言ったら「ああ。祝ってやるよ」って。
そして、ぎごちない笑顔で「ひかる、またな」と言って別れたんだ。それが隆との最期の別れだった」
「次の日、隆は遺体で発見された。僕達がよく遊んでいた川で亡くなったんだ。当初は事故かもしれないと言われてたけど、家に遺書が残されてあった。そこにはクラスでいじめに遭っていて、もう限界だったこと、そして両親への謝罪が書かれてあったと聞いた。隆は、僕にまたな。って言ったのに…」
「僕は悲しみと同時に、隆のいじめに気づいてやれなかったこと。親友なのに、死を選ぶほど追い込まれていたのに何もしてやれなかったことで、後悔と怒りが湧いてきて自分を責めた」
「隆にプロ野球選手になれよ。と言われたのに、野球をする気になれなくて僕は部活を辞めたんだ。そして、医学部を目指して必死で勉強した。隆のように心を痛めた人の力になりたい。そう思うようになって、精神科医になることを決めたんだよ」
「そうだったんだ…」
大切な親友を助けてあげられず、死なせてしまったという心の傷は責任感の強いひかるなら、尚更苦しかっただろう。
「ひかるがそんな辛い思いをしてたなんて、想像もしてなかった。本当、辛かったね」
そう言って、彼女は僕の頭を優しく包み込んでくれた。
「だから優花、もう僕は大切な人を失いたくない」
「うん。私はいなくなったりしないよ。ひかるにまた、辛い思いはさせないから」
ひかるにも辛い過去があったことを知って、彼に対する想いは更に強くなっていた。
だから、ひかるはあんなに優しいんだ。
精神科医だからというだけではなく心に傷を負った人、傷ついたことがある人は、人の気持ちに寄り添える優しい心を持っている。
彼への気持ちが強くなればなるほど、私は旦那との生活が苦痛になっていた。
出来ることなら別れたい。
今はカウンセリングに通っているから落ち着いているけど、また同じことが起こらないという保障なんて何処にもない。
それに、こんな気持ちのまま夫婦生活を続けていくなんて無理だ…。
今の私なら働きながらまりあを育てることが出来ると思う。
私は意を決して、旦那に別れを切り出すことを決めた。
「司、大事な話があるの」
「ん?何?」
「司はカウンセリングに通ってくれて、今は落ち着いているけど私はまだ不安で、やっぱり今までのことで嫌悪感を拭い切れないの」
「このまま、夫婦生活を続けていくのは無理…。まりあと二人で一から始めたいの。だから…」
「離婚して下さい」
「な、何言ってんだよ‼」
旦那は豹変した。
ひかる、助けて…
遠のいていく意識の中、まるで深海に落ちていくような、闇の中に吸い込まれていくような感じがした。
その後の記憶は覚えていない…。
気がついたら病院のベッドの上にいた。
「優花…」
心配そうな顔で私を見つめてくれてるひかるがいた。
「ひかる。私、どうしてここにいるんだっけ…」
「痛っ…。なんか、全身痛い」
頭には包帯、手足にはあちこちに痣があった。
「そうだ。旦那に離婚話をしたら、凄い剣幕で怒りだして…。始めてあの人の怖い顔を見ながら、意識が段々遠のいていったんだった」
その時のことを思い出すと震えが止まらなかった。
「また、亜季さんが替わってくれたのかな」
「うん。家から逃げ出した彼女から連絡があって、僕が近くまで迎えに行ったんだよ」
「そうだったの。じゃあ、この傷は亜季さんが受けたんだね。怖かっただろうな…。強姦に遭った時も替わってくれて、私は彼女に助けてもらってばかりいるね」
「旦那はあれからどうしたんだろう。まりあを絵里香の家に預けといて良かった」と、彼女の目に安堵の色が戻った。
「旦那さんは、優花に会わせろ!と病院に来たよ。でも僕は、また危害を加える可能性のあるあなたを奥さんに会わせるわけにはいきません。って追い返したんだ」
「それから、離婚は絶対にしないからな!って優花に伝えてくれ!と言いながら帰って行った」
「そうか…。離婚はしないか…」
「…。優花、大丈夫…?」
「怖い…」
「優花も彼女も、本当に怖かっただろうね。ごめん。助けてあげられなくて…」
「ううん。ひかるは悪くないよ。謝らないで」
そう言って、彼女は僕に両手を伸ばしてきた。
僕も彼女を包み込むように抱き寄せた。
「ねえ、優花。旦那さんのしたことは立派なDVだよ。診断書を書いてあげるから、警察にDV被害届を出して救済措置を取ったらどうかな。そしたら、家に戻らなくても済むと思う」
「うん…。でも、それだけで済むかな…。旦那の怒りを煽って、もっと酷い事になったりしないかな。まりあにまで危害を加えないとも限らないし…」
「優花が不安に思う気持ちはよく分かるよ。でも、旦那さんの所に帰るのは危険だよ」
「僕は心配でたまらない。大切な君がこれ以上傷つけられるなんて耐えられないんだ。これからのこと、一緒に考えよう優花」
「うん。ありがとう」
病院に入院して一週間が経った。
怪我も良くなったし、まりあの事もあるし、いつまでもここにいられるわけじゃない。
旦那とはあれ以来会ってないけど、何度も電話とメールはあった。
電話に出ず、メールの返信もしていない。
メールには、詫びるどころか強迫めいた内容ばかりで「離婚は絶対にしない」「お前は俺のものだ」「俺から逃げられると思うなよ」などど、怖くてとても返信する気など起きなかった。
窓の外の咲き始めた桜の木を眺めながら、私はため息をついて、最近多くなった一人言を口にしていた。
はぁ…。本当にどうしたらいいんだろう。
私に逃げられる場所なんてない。
やっぱり、戻るしかないのかな。
ひかるの元に行くどころか、今の私達の関係を旦那に知られてしまったら、もっと大変な事になる。
絶対に知られないようにしないと…。
抱えていた膝に顔を埋めていると、ひかるが入って来た。
「優花?大丈夫?」
「ひかる。うん、大丈夫…」
「私、色々考えたんだけどこのまま、まりあと逃げることなんて出来ないし、ひかるの傍から離れたくない。だから怖いけど、もう一度旦那と離婚の話しをしに家に帰ろうと思ってるの。一人だと、またこの間と同じ事になるだろうから、妹に事情を話して同席してもらおうと思ってる」
「そうだね。少なくとも一人で家に戻るよりは妹さんと一緒に行った方がいいと思う。でも、怖いんだ。今の旦那さんに優花を会わせたくない。もちろん、僕もこのままじゃいけないことは分かってるよ」
「僕も考えたよ。優花。僕はまりあちゃんと君と一緒になりたいと思ってるよ」
「えっ…!」
まさかの、プロポーズに嬉しさより先に、驚きの方が大きくて言葉が出なかった。
「ほ、本当に!?」
「うん。本当だよ」
「ありがとう。凄く嬉しい…」
また、彼女を泣かせてしまった。
僕は本気だった。
それだけの覚悟は出来ている。
それに、彼女にはまだ知ってほしくない真実が残っている。
彼女が真実を知ってしまった時に、僕が彼女を支える。助ける。守る。
そして、何より僕が彼女の傍にいたい。
彼女がいなくなって、彼女の顔を見られない。
彼女の声を聴けない。
彼女の温もりを感じられない。
彼女の優しい雰囲気に包まれない。
そんなことは、想像も出来ないくらい辛い。
もう、僕は彼女のいない人生は考えられないほど、優花を心から愛していた。
退院した優花は1度家に戻ることにした。
旦那さんと話すためじゃなく今、必要な保険証や荷物を取りに行くためだった。
旦那さんとの話し合いは、先に妹さんに話してからだ。
「ひかる。行って来るね。あのね、帰って来たらひかるにお願いがあるの」
「お願い?何?」
「帰ってから話すね」
「分かった。気をつけて行って来てね」
「大丈夫。旦那は仕事に行ってるだろうし、必要な物を取ったらすぐに帰って来るから」
そう言って彼女はお昼過ぎに家に戻って行った。
当然、僕は優花にまたすぐ会えると思っていた…。
朝から雨が降っていた。
テレビのニュースでは、お天気お姉さんが、雨足は段々激しくなり、夕方には雷雨の恐れもあります。と言った。
夕方までには戻って来ないと。
病院を出て家に帰った。
念のため、靴はクローゼットにしまってリビングのドアを開けた。
部屋は散らかったままだ。
私は急いで荷物をバックに詰め込んでいた。
「ガチャッ」
玄関を開ける音が聞こえる‼
どうしよう…。
旦那がリビングに入る前に、私はキッチンの死角になる所に身を隠した。
玄関まで逃げるには、ここからが一番近い場所だ。
旦那がソファに座るか、寝室に入ったら、そっと音を立てずに逃げようと思っていた。
でも…
「優花!帰ってるんだろ!?」
不確だった。靴は隠したのに、雨で濡れていた傘は玄関の外に置いたままだった。
見つかった…。
「優花!そんな所に隠れて、その荷物は何だ!何処に行く気だ!逃げても無駄だ!離婚はしないって言っただろ!」
普段、身なりはキチンとしている旦那が髪はボサボサ、無精髭も生えている。
どうやら仕事には行ってないらしい。
怒鳴り付ける旦那が怖くて私は後退りしながら「もう無理!やり直すなんて出来ない。私は司が怖い…」と口にするのがやっとだった。
「優花が、俺から離れようとするからだろ‼どれだけお前を愛しているか分からないのか!こっちに来い!」
「いや、離して!」
そう言って旦那は私の腕を掴み、無理矢理まりあの部屋に閉じ込めて鍵をかけた。
「お願い!ここから出して!」
「優花が、俺とやり直すというまで開けない。ここで反省しろ!」
ごめん、ひかる…。
すぐに戻るって約束したのに…
エピソード13
夕方になって、辺りが暗くなってきた。
まだ彼女は帰って来ない。
旦那に見つかって酷いことをされてるんじゃないか。
居てもたってもいられない。
電話をかけても通じない。
優花…。
あれから何時間経っただろう。
もう暗くなり始めている。
早くここから出ないと…。
ひかるは心配してるはずだ。
出かけていた旦那が帰って来た。
「優花、お腹空いただろう」
コンビニの袋から、ペットボトルのお茶とおにぎりを出してくれた。
私は「ここから出して…。今の状態で私達がやり直すなんて無理だよ。司だって分かってるでしょ」と懇願したが旦那は
「黙れ!もう一人も同じこと言ってたよ。二人して、何なんだよ!どうして俺じゃ駄目なんだよ!」と目を剥いて怒りを露にした。
「やめて!いや、来ないで‼」
髪を掻きむしりながらキレた旦那は私を襲ってきた。
いや…。怖い…。
ひかる助けて…。
その時、しばらくなかったフラッシュバックが起きた。
これって…。
結局、一晩経っても彼女は帰って来なかった。
電話も通じないままだ。
旦那にも電話をかけたが出なかった。
助けに行きたい…。
今の僕に出来る事は何だ!?
何も出来ないのか…。
そういえば、優花が帰って来たらお願いがあるって言ってたな。
お願いって、何だろう。
優花が僕にして欲しいこと、それは僕も優花にしてあげたいことなんじゃないか。
色々考えた僕はあることを思いつき、準備することにした。
結局、寝室に連れて行かれて旦那に襲われた…。
隣で眠っている旦那。
睡眠も取れていなかったんだろう。
ぐっすりと寝ている。
そっと起きて、引き出しの中にある手錠を出した。
それは以前から度々、夜の行為の時に使われていた物だ。
こんな物が、身を助ける物になるとは…。
その手錠を旦那の腕とベッドで繋いで、急いで部屋を後にした。
ひかる、ひかる!早くひかるに逢いたい!
電話をかけるとワンコールで出た。
「優花!優花無事なのか!?今、何処にいるの!?」
「ごめんね。今、逢いに行くから!」
「そこにいて、迎えに行く!」
「大丈夫!あなたは家で待ってて!」
留まりたくなかった。
持って来ていた傘を忘れて、雨の中を全力で走った。
叩きつけるような雨が顔にあたって痛い。
着ている服までずぶ濡れになった。
旦那に襲われて、ひかるに対しての申し訳なさが込み上げてきて、この染み込んでいく雨で、旦那に抱かれた体を洗い流したい。
そして…新たに分かりかけた真実への恐怖。
今の心境を全部振り払いたい気持ちでいっぱいだった。
「ひかる‼」
「優花‼」
ひかるの胸に思いっきり飛び込んだ。
「おかえり、おかえり」って彼は、涙目で今までにないほどの力で強く抱きしめてくれた。
この温もりが、彼の香りが愛しい。
こんなにも安心させてくれる。
彼とずっと一緒にいたい。
離れたくない。
もう、ひかるのいない人生なんて考えられなかった。
「優花、大丈夫!?酷いことされたんじゃないの?」
「ごめんなさい…」
「どうして謝るの?君が帰って来てくれた。それだけでもう充分だよ。凄く逢いたかった」
「私も、あなたに逢いたくてたまらなかった」
彼女は泣きながら、震える唇をクッと噛んでこう言った。
「旦那に襲われたの…」
「…。」
旦那に酷い事をされたんじゃないかという予感はあったが、やっぱりそうだったか…。
身を切り刻まれたように辛い。
僕は優花を一人で家に帰らせてしまったことを心底悔やんだ。
「辛かったね。よく逃げて来られたね。怖かっただろう」
彼女は家で何があったのかを話してくれた。
「もう安心して。僕は絶対君を離さないから。優花も僕から離れちゃ駄目だよ」
「うん。うん…」
頭を優しく撫でると彼女は、子どものように泣きじゃくった。
手錠で繋がれて彼女に逃げられた旦那の怒りは相当なものだろう。
でも、僕は絶対に優花を渡さない!
「優花、君に渡したい物があるんだ」
「渡したい物?」
「うん。少し目を閉じていて」
「分かった」
彼女が戻って来たら、渡そうと思って用意しておいた物をプレゼントした。
「これって…。指輪?」
彼がくれたプレゼント、それは小さな丸い箱に入った指輪と手紙と婚姻届が2枚あった。
「嘘…!?私がひかるにお願いしたいことが婚姻届だったの。どうして分かったの?」
「離婚が出来ないのに婚姻届を書いて欲しいなんて言ったら、ひかるに何て思われるだろう。って不安だったけど、一緒になれなくても婚姻届をお守りに持っておきたかったの」
「それに、指輪までプレゼントしてもらえるなんて想像してなかった。ありがとう…」
「うん。優花が僕にお願いしたいことがあるって言われて考えたんだ。それは僕も君にしてあげたいことだったんだよ。当たるかどうか心配だったけど、当たって良かった」
僕はホッと胸を撫で下ろした。
「優花、手紙は僕が読んでもいい?」
「嬉しい。読んでくれるの?」
「うん」
「優花へ
君が僕に連絡をくれて、震える君の背中に初めて手を回した瞬間、恋から愛へと変わり、その愛は今でもどんどん大きくなり、深くなっています。
今では優花は僕の心の真ん中に最も深くにいて、僕は愛している以上の言葉を探し、これからも探し続けると思います。
優花が傍に一緒にいてくれると僕は強くいられます。穏やかにいられます。
笑顔でいられます。
そして、優しくいられます。
だから、これからも一番傍に、ずっと一緒にいて欲しいと思っています。
だから、僕にずっと優花のことを守らせて下さい。
僕にずっと優花のことを支えさせて下さい。
僕にずっと優花の手をそっと握らせて下さい。
僕にずっと優花の傍にいさせて下さい。
僕の残りの人生を優花にかけさせて下さい。
そして、僕に優花のことを愛し続けさせて下さい」
「優花、旦那さんと離婚することが出来ないなら、心の中だけでもいい。僕と結婚して下さい」
「はい…。宜しくお願いします」
嬉しくて、嬉しくて、その言葉を伝えることが精一杯だった。
ひかるが私のことをこんなに想ってくれていたなんて。
旦那のことは話せたけどフラッシュバックで見た光景まではまだ、話せなかった。
話してしまったら、真実を確信してしまったら私が私でいられないと思ったからだ。
今は何も考えずただ、この幸せを噛みしめたかった。
婚姻届に二人でサインして、1枚ずつ持っておくことにした。
そして、箱に入った指輪にはネックレスがついていた。
彼が私の首にかけてくれて、そっと目を閉じた。
私達はキスをした。
凄く幸せだった。
最初で最後のキスだった…。
次の日、妹の絵里香から電話があった。
「姉さん!今何処にいるの!?お兄さんが凄い剣幕で家に来て、姉さんの居場所を聞かれて、まりあを無理矢理連れて行こうとしたけど、旦那が止めてくれたのよ」
そうか…。
手錠に繋いで、逃げたんだもん旦那の逆鱗に触れても当然だ。
「絵里香、迷惑かけてごめんね。今日中にまりあを迎えに行くから」
「分かった。姉さんは大丈夫なの!?」
「ありがとう。私は大丈夫だから」
そう言って電話を切った。
「ひかる。どうしよう…」
側で聞いていたひかるが「優花、少し遠いんだけどしばらくの間、僕の親戚の家が空き家になっているから、そこにまりあちゃんと行かないか?」
「えっ‼いいの?」
「うん。今、旦那さんに優花とまりあちゃんを渡す訳にはいかない。まりあちゃんを迎えに行って、すぐに出かけよう」
「うん!ありがとう。まりあを迎えに行って来るね」
「一人じゃ危険だから、僕が近くまで送って行くよ」
ひかるの車で迎えに行った。
インターホンを押すと絵里香が心配そうな顔で出迎えてくれて奥の廊下から、まりあが走って来た。
「ママ‼」
「まりあ、ごめんね」
「迎えに来たパパ、怖かったよ。凄く怒ってた」
「うん…。怖い思いをさせてごめんね。しばらくママと二人で別の所に行こう」
「絵里香、本当に迷惑かけてごめんね。まりあのことも長い間
見てくれてありがとう」
「そんなこと…。私も、まりあちゃんと一緒にいられて楽しかったよ。お兄さんと何があったか知らないけど、これからどうするの?」
「詳しいことはまた、落ち着いてからちゃんと話すね」
「うん。分かった。気をつけてね」
「ありがとう」
まりあの手を取って絵里香の家を後にした。
「ママ、何処に行くの?」
不安そうな顔でまりあが聞いてきた。
「ママが病院でお世話になった青山先生の親戚のお家に行くんだよ」
「青山先生?」
「うん。まりあ青山先生分かる?」
「うん!ママの優しい先生だよね!まりあ、先生好き!」
「良かった。先生が車で送ってくれるから一緒に行こう」
「うん!」
ひかるの親戚の家は、ここから車で3時間ほど走った場所にある。
町からは少し離れた田舎だった。
まりあは、私の膝の上でぐっすりと寝ている。
景色が住宅街からどんどん変わって、山や田畑が見えてきた。
「着いたよ」
「うん。まりあ、起きて着いたよ」
まだ、眠たそうな目をこすりながら起きたまりあが声を上げた。
「わあ!山だ‼ママ、大きい山がたくさんあるよ!」
「本当だね。山が近いね」
車から降りたまりあは駆け出した。
私は、両手を目一杯広げて深呼吸をした。
緑の香り、新鮮な空気。
心まで洗われるようだ。
敷地は200坪くらいあるだろうか、広い庭には以前は剪定されていただろう、植木が何本もある。
家は50坪程ある日本家屋の大きな平屋だった。
「先月、来た時に掃除したからすぐに住めるよ」
「ひかるはよく、来るの?」
「たまにね。別荘感覚で使わせてもらってる。叔母さんから自由に使っていいわよ。その代わりにちゃんと掃除しておいてね。って言われてるから、リフレッシュも兼ねて来てるんだ」
「そうだったの。一度田舎で暮らしてみたかったから嬉しい。ありがとう」
生活に必要な物や、食材を買いに行って3人でご飯を食べた。
まるで、ひかるとまりあと3人で暮らしているようだった。
こんな穏やかで幸せな日がずっと続けばいいのに。
「ご馳走さまでした。優花の料理とても美味しかったよ。このまま一緒にいたいけど、そろそろ帰るよ」
「うん…。そうだよね。ひかるには仕事があるし、3時間かけて帰らないといけないもんね」
「ごめんね。優花大丈夫?また来週来るから」
「大丈夫だよ。ゆっくり娘孝行するよ。本当にありがとう」
ひかるは当座の生活費と言ってお金を置いて帰って行った。
彼の車が見えなくなるまで、まりあと見送った。
私は腕まくりをして気合いを入れた。「よし!まりあと離れていた時間を取り戻すぞ!まりあ、お風呂入ろうか」と笑顔を向けると
「やった!ママとお風呂だ!」と満面の笑みを返してくれた。
湯船の中でも、はしゃいでるまりあをギュっと抱きしめ、この子とこれからもずっと一緒にいたいと心から願った。
週に1度はひかるが来てくれた。
洋服の内職でもしていたんだろうか、この家には工業用のミシンも置いてあった。
縫製の得意だった私はまりあに服を縫ってあげたり、近くに流れている浅瀬の川で水遊びをさせたり、自転車の後ろにまりあを乗せて近くのスーパーに買い物に行ったりと、私達の時間は穏やかに過ぎていき、ここに来て一カ月が経とうとしていた。
あれから旦那はどうしただろうか。
あの人のことだ、諦めてなどいないだろう。
きっと私達を血眼になって捜しているに違いない。
旦那のことを考えると全身に鳥肌が立った。
いつものようにスーパーに買い物に来てる時のことだった。
スーパーの入口には、子どもが好きな100円を入れると数分動く乗り物が置いてあった。
まりあは、その乗り物が大好きで買い物が終わってからいつも乗ってご機嫌で帰っていた。
レジに並んでいると、まりあが「ママ、まだ?早くぞうさんの乗り物に乗りたい!」と言い出した。
タイムセールもあったせいか、いつもより混んでいた。
「まりあ、少し待ってもうすぐだから」となだめたが、待ちきれなかったまりあは私の手から離れて外に出てしまった。
お金を入れてないから動かないのだけど、乗り物にまたいで笑顔で手をふって待っていた。
まあ、ここから見えるしもうすぐだから大丈夫か。
と油断してしまったのだ。
会計を済ませてカゴに入った商品を袋詰めしながら外を見るとまりあの姿がなかった。
「まりあ‼」慌てて外に出たが何処にもいない…。
まさか、旦那に連れて行かれたんじゃ…。
すぐに旦那の携帯電話にかけた。
「はい。もしもし」
「まりあを連れて行ったのは司でしょ!あの子を返して!」
「優花、やっと見つけたよ。こんな所にいたなんてな」
「お願い!まりあに酷いことしないで!」
「まりあは俺の子だ‼俺が育てる!」
お前も戻って来い。
そう言われると思ったけど、すぐに電話を切られてしまった。
かけ直しても電源を切られて繋がらなかった。
どうやって居場所が分かったんだろう…。
ひかるに連絡して、今の状況を伝えた。
ひかるはすぐに行くと言って電話を切った。
私はスーパーで買い物をした物を忘れ、自転車を押して流れてくる涙をぬぐいながら家まで帰った。
ひかるが来るまで何もする気が起きず、窓ガラスにもたれて今まで避けていた真実について考えていた。
考えれば考えるほど段々怖くなって、頭痛までしてきた。
気が遠くなりそう。
早く、早く来てひかる…。
「優花、優花‼しっかりして優花!大丈夫!?」
必死に私の肩を両手で揺さぶるひかるが目の前にいた。
「ひかる…。私ね、ひかるに言ってないことがあるの。旦那に襲われた時にフラッシュバックが起きたことあなたに話せなかった…」
僕はゴクッと息を飲んだ。
とうとう本当のことを思い出してしまったのか…。
ドキドキする鼓動を抑え、彼女に静かに聞いた。
「何が…見えたの?」
「最初は私がおじさんに性教育をされていたことを思い出してたんだけど、この間見たフラッシュバックでは違ってた。私が見たのは、もう一人の私におじさんが性教育をしていて…」
「うっ…。ハァハァ…」
優花は頭を抱えて苦しみだした。
「優花!」
優花の肩を掴んで、何度も彼女の名前を呼んだが目の焦点が合ってない。
フラッシュバックを起こしてる。
息は更に荒くなり、僕の腕にしがみついた彼女は力ない声で「助けて…」と言った。
彼女を抱きしめようとしたら
「嫌!離して‼」と僕の腕を振り払い
「誰か、誰か助けて…」
「怖い、怖いよ…」と言って逃げようとしていた。
どうやら、目の前にいる僕のことも分かってないようだ。
彼女が、今見ている過去の光景はきっと想像を絶するものだろう。
逃げるのをやめて耳を塞いだまま動かなくなった彼女が落ち着きを取り戻すまで僕はただ、じっと待った。
そして彼女の発した言葉は…
「ひかる…。私…優花じゃなかったのね…。本当は交代人格の亜季だったんだ…」
「彼女を守るために生まれてきたのは、私の方だったんだね…」と力なくうなだれた。
本当の真実を知ってしまった。
解離性同一性障害ということを知ったのも最近なのに、それが今まで生きてきた自分が基本人格じゃないと分かった今、彼女はどれ程のショックを受けただろうか…。
しばらくの間、空を見つめるように考えていた彼女は
「ひかるは知ってたの…?あの部屋の鏡で見た私の姿が違うって言った時、あなたはごまかしてた。亜季さん、ううん、本当の優花さんから聞いてたんじゃないの?」
「ごめん…。優花、君の言う通りだよ。彼女から聞いてた。でも、それは今、優花に真実を知らせるのは酷なことだから黙っていて欲しいと言われて、僕もそう思ったから話さなかったんだよ」
「そうだったんだ…。私は…オリジナルじゃないんだ。じゃあ今まで生きてきた20年って何だったの…?」
今まで疑問に思ってたことが、全て一つの線に繋がった。
とうとう、確信してしまった。
今まで生きてきた世界や、信じていたものが、全部音をたてて一気に崩れていった。
「優花…。聞いて優花。もう一人の存在を知ったのも最近なのに、自分が基本人格じゃないと知って、ショックだよね。僕が想像する以上に辛いと思う」
「でもね、優花が彼女を守るために生まれてきてから、この20年をずっと生きてきたのは優花なんだよ。まりあちゃんを産んで育ててきたのも君なんだよ。僕にとって、オリジナルとかオリジナルじゃないとかは関係ない。優花に出逢えて優花を愛して心から幸せだと思う」
「彼女が言ってたよ。優花は私を救ってくれたスーパーウーマンなんです。って」
僕は必死で優花の存在が彼女にとって、僕にとって、どれ程大切かを訴えた。
「でも、でも、どうして彼女を守るために生まれてきたのに、そんな大事なことを忘れてたの!?私は生まれてきたことも、性教育を受けたことも全部忘れたまま生きてきたんだよ。そんなことってある?」
「それは…彼女が言うには、優花が守ってくれて引き受けてくれたけど、10歳の少女が受けるにはあまりにも酷い性的虐待だったらしいんだ…」
「うっ…。吐きそう」
フラッシュバックで見た光景を思い出した。
確かに子どもが受ける仕打ちじゃなかった。
その時、頭の中から彼女の声が聞こえてきた。
「とうとう、思い出しちゃったんだね…。ごめんなさい。あなたに辛い過去を思い出させてしまっただけじゃなく、私を守るために生まれてきたことも知ることになってしまって…」
「出来ることなら、何も思い出さずにこのまま生きて欲しかった。真実を知ってしまったけど、先生の言う通りまりあちゃんを産んだのはあなた。この20年間を生きてきたのはあなたなんだよ。だから、これからも優花として生きてもらいたいの。私は今更、表に出て生きていくことなんて出来ない…」と力ない声で言った。
私は「真実が衝撃で、何も考えられない。今はただまりあの安否が気がかりで…。」
「でも、今まで通り生きていく自信はないかもしれない…」と伝えた。
「優花、大丈夫!?」
「うん…」
背中を擦ろうと手を出したけど、優花に触れることが出来なかった。
怖い思いをさせてしまうんじゃないかとためらっていた僕に気づいた彼女はこう言った。
「ギュッてして…」
僕はうなずいて、何も言わずにそっと抱きしめた。
エピソード14
「まりあを取り戻さなきゃ…。旦那はどうやってこの場所が分かったんだろう」
「僕のせいかもしれない。病院のスタッフが旦那さんに僕が毎週、遠出してることを話したらしいんだ。僕達の仲までは疑ってないかもしれないけど、優花の逃亡に協力してるかもしれないと思ったかもしれないね。だから後をつけられたのかも」
「そうかぁ…。それはあり得るね。このまま、まりあを旦那の所に置いておく訳にはいかないよ。私に戻って来いとは言わなかったけど、まりあを連れて行くってことは戻れということなんだよね…」
「まりあはひかるが話してくれた、もしパパに連れて行かれたの時の脱出方法、ちゃんと出来るかな」
「うん。まりあちゃんは頭の良い子だから大丈夫。きっと出来るよ」
最悪な事態も想定していたひかるは、色々と考えてくれていた。
私とまりあ、二人とも見つかった場合は警察に逃げ込み、まりあだけが拐われた場合はパパが油断した隙に離れて私、もしくは妹に電話する。ということでまりあには電話のかけ方を何度も教えていたのだ。
「まりあ…。どうか無事でいて」
私達はまりあをすぐに迎えに行けるように町へと戻り、ひかるの家で連絡を待った。
「ねぇ…ひかる」
「ん?どうしたの優花」
「私…。まりあを取り戻せたとしても、今までと同じように何も知らなかった時と同じように、生きていく自信はないかもしれない…」
「色々な事が怖いの。考えれば考えるほど自分は偽者なんだ。って思ったり、私は人格として生まれてきたという事は、私には親も兄弟もいなくて、皆は当然母親から生まれてくるのに、私はお母さんから生まれてないってことなんだよ」
泣きながらそう訴える彼女の頭を優しく撫でながら僕はこう話した。
「そうだよね。優花の言う通り怖いと思う事ばかりかもしれない」
「第一、私が優花って呼ばれていいの!?見た目は優花でも、私の本当の名前は亜季なんでしょ!?もうヤダ…」
「君は優花だよ。僕が出逢って愛したのは今の君だよ。自信がないと思うことだって当然あると思う。それに、彼女も優花が今まで通り生きていくことを望んでるんじゃないかな」
「うん。ひかるが来てくれた日に彼女と話した。あなたの言う通り、私にこれからも生きて欲しいって…」
ひかるの家に来てもう四日も経ったのに、まりあからも旦那からも連絡がない。
私は彼が仕事に行っている間もずっと部屋にいるはずなんだけど、所々記憶がない…。
不安が押し寄せて来る。
何故、記憶が無いのか。記憶が無い間私、いや彼女が何かをしているのか…。
「パパ、ママは?どうしてママを置いてきぼりにしたの?早くママに会いたい」
「大丈夫。泣かないでまりあ。ママはもうすぐお家に戻って来るから。また前みたいに3人で暮らそう」
「本当!?ママ帰って来るのね」
「うん。大丈夫だよ。だから良い子でパパと待っていようね」
「うん!分かった」
優花は必ず戻って来る。
もう一人の人格である、本当の優花から連絡があったのは、まりあを連れて帰ってから二日後の事だった。
彼女は今までの事情を全て話してくれた。
衝撃だった。
俺でもここまでの衝撃なんだから優花、いや亜季と呼ぶべきなんだろう妻は相当なショックを受けただろう。
彼女の提案はこうだった。
「あなたが絶対離婚に応じないというのなら、まりあちゃんとこれからも一緒に暮らしていくために、あなたの所へ戻るしかないんだと思います」
「でも今の亜季にそれは出来ない…。だったら、私があなたの所へ戻ります。あなたはそれでもいいですか?」
俺は考えた。
優花が帰って来るのであれば中身が違うとはいえ、外見は優花だ。
それに本当の優花は彼女の方なんだから。
彼女のそれでもいいか?という言葉は、俺が出逢って愛したのは私ではないという意味なんだろう…。
複雑だ。心が乱れる。
頭の中で産まれたたくさんの考えや感情がうずまいた。
それでも、俺は優花を失いたくはない。
そして簡潔にこう答えた。
「戻って来てくれるのならそれでいい」
「分かりました」
「でも一つ聞きたい。君が戻るとなれば、妻の方はどうなるんだ?」
「亜季には、眠ってもらいます。もしくは統合するかです」
「統合!?」
「はい。亜季に私の中に入ってもらうという事です。亜季が納得すればですが。納得さえすれば、自分が交代人格を自覚したので難しくはないと思います」
「そうか…。その辺は君に任せるよ」
まただ。
ひかるがいない時間を狙ってか、私の記憶は抜けている。
私は一体どうなるんだろう…。
「優花」
「亜季さん!私の記憶が度々ないの。何かしてるの!?」
「司さんとお話ししてたのよ」
「旦那と!?まりあは無事なの?あの人は何て!?」
「聞いて欲しいことがあるの。この間、あなたにこれからも優花として生きて欲しいと言ったけど、まりあちゃんと一緒にいるためには司さんの所へ戻るしかないと思う」
「あなたが青山先生をどれ程想っているかも知ってるよ。でも、司さんと離婚出来ないならどちらかを選ばないといけないと思う。まりあちゃんを諦めて青山先生と遠くへ行くか、青山先生と別れて家に戻るか」
「でも、今のあなたは司さんと暮らしていく自信はないわよね。そしてオリジナルとして生きていく自信が無いとも言った。だからまりあちゃんのために司さんの元へ戻るのであれば、私が戻るよ。司さんはもう了承済みだから」
「了承済みって…!?」
「全部話したのよ。あなたと青山先生の事以外は全て。彼も迷ったようだけど、私に変わったとしても優花は失いたくない。って」
「そうだったの…。私も色々考えたよ。あなたの生い立ち、ひかるに全部話してたでしょ。辛いことばかりの十年間だったんだね。最後にあんな誘拐事件まで起これば当然、心は崩壊するよね。だから私が交代人格として出てきた」
「これからの人生、やっぱりあなたが生きていくべきなんじゃないかと思ってた。私はどうすればいい?あの部屋にずっといればいいのかな」
「統合って分かる?」
「うん…。分かる。私も解離性同一性障害だと分かって、色々調べたから。一つになるということだよね」
「うん。私と一つになるからといってあなたが消える訳じゃないよ。私の中で一緒に生きていくんだよ。だから心配しないで」
「うん…」
心配な事は統合の事だけじゃない。
ひかるの事が一番心配だ。
それに彼女と統合したら旦那の元へ戻りまた、まりあとは一緒にいられる。
それは…もう、ひかるとは一緒にいられないということだ。
こんなに愛しているのに、あんなに愛されているのに。
ひかるに出逢って私は本当の愛を知ることが出来た。
その彼と、もう逢うことが出来ないんだ…。
身が引き裂かれそうなほど辛い。
この事をひかるにどう話そう。
彼は納得するだろうか…。
私が愛しているのはひかるだけだ。
この気持ちだけはちゃんと彼に伝えたい。
私は「分かったよ。あなたと一つになる。でも、もう少し時間をちょうだい」とお願いした。
彼女は「うん。心の準備が出来てからで構わないよ。先生にも、ちゃんと話しておかないとね」と言ってくれた。
「優花、ただいま」
「おかえりなさい。ひかる」
「まりあちゃんから連絡あった!?」
「まだ…ないの」
「そうか…。まりあちゃん大丈夫かな。優花も大丈夫?」
「ひかる。実はね…」
彼にここ数日起きた内容を話した。
そして、私の出した答えも…。
彼はしばらく何も話さなかった。
そして、やっと重たい口を開いた彼はこう言った。
「僕の気持ちはもう優花に伝えてある。それで君が出した答えなら、僕は受け入れるしかない」
何を言っているんだ僕は…。
こんな物分かりの良い言い方なんかして。
本当は嫌だ‼君を失いたくない。
君がいないと僕は生きていけない!と不様でも構わない、泣いてすがればいいじゃないか。
なのに、こんな時に精神科医としての僕が邪魔をする…。
「でも、僕はこれからもずっと優花だけを愛し続けるよ。君は以前この世に愛に絶対なんて事はない。って言ってたよね。だったら僕がこの世には絶対という事があったことを君に教えてあげる」
「どうやって絶対があった事を知る事が出来るの?」
「どちらかが、逝くときかな。その時までずっと愛し続ける事が出来れば、愛に絶対があったことを証明出来る」
「私も生涯ひかるだけを愛する。あなただけを想って生きる。何処にいても、誰といてもずっと、ずっと愛してるから」
「うん…。愛しているよ優花」
「愛しているよ…。ひかる」
エピソード15
「統合したお母さんは、君とお父さんの所に戻り、亡くなる少し前に連絡があるまで僕達は会うことはなかったんだ」
「そう…だったんですか…。先生と一緒になることも出来たのに、母は私の為に戻ってくれたんですね」
お母さんは私の為に統合し、先生を諦めてお父さんと私の為に生きてくれたんだ。
申し訳ない気持ちが込み上げてきて、胸が詰まった。
私がもっと大きかったら、お母さんに先生と一緒に生きる道を選ばせてあげられたかもしれないのに…。
お母さんは幸せだったんだろうか。
家に戻ったことを後悔しなかったんだろうか…。
「先生は今まで、お独りだったんですか?」
「独りじゃなかったよ。僕の心の中にはずっとお母さんがいた」
「お母さんは君と一緒にいられてとても幸せだった。そう言っていたよ。そして、この世に絶対はあったね。と微笑んでいた」
「良かった…」
それしか言えずに、泣きじゃくる私の頭を先生は優しく撫でてくれた。
エピローグ
出来上がったよ。亜季…。
最後まで統合を拒み続けた亜季のお願いだった。
一年後…。
僕はしばらくして休暇を取った。
僕は自分が思っていたよりずっと弱い人間だった。
今の僕には患者さんを診ることが出来ない。
それほど僕の心には大きくて深い穴が空いてしまった。
でもこの穴を無理に塞ごうとは思わない。
これが彼女を愛した証しだからだ。
穴を空けたまま、生涯優花だけを想って生きていく。
基本人格である彼女は、統合して自分の人生を生きていきたいと言い出した。
彼女の身になって考えれば、当然の主張なのかもしれない。
でも、優花は最後まで統合を拒んだ。
そして部屋に入って長い眠りについた…。
久しぶりに街をふらついた。
最近、本屋にも行ってなかったな。
ブックフェアをやっている。
新刊コーナーに平積みにされている本を見た僕は身動きが取れなかった。
タイトル「君のために生きること」
著者「田口 優花」
胸の鼓動が一気に早まる。
震える手で本を取り、最初のページを開いた。
プロローグ
母が残した一つの封筒……
この物語って…
「お客様?大丈夫ですか?」
定員さんに声をかけられるまで、自分が泣いていることに気づかなかった。
涙で本がグシャグシャになるほどだった。
優花がいなくなってから、ちゃんと泣けていなかった。
今まで塞き止められていた悲しみという名の感情のダムが一気に決壊したのだ。
「すみません。商品駄目にしちゃって。これ買います」
「あ、はい。お買い求めありがとうございます」
本を握りしめ店を出た。
公園に行き、ベンチに腰を下ろした僕は本のページを捲った。
衝撃だった。
小説として書かれた内容は事実とは違っていた。
優花と亜季は統合して元の生活に戻り、年を取った優花が亡くなった所から始まっている。
そして、成人したまりあちゃんが僕から母親の話を聞いていくという回想の物語として綴ってあった。
その中で優花と僕の物語が忠実に書かれてある。
止めどなく溢れてくる涙を拭うことなく読み続けた。
結ばれないハッピーエンドか…。
公園を後にして信号待ちをしていると、雑貨屋さんから手を繋いで出てきた親子が楽しそうに話ながら歩いていた。
「まさか…」
幻覚かと思ったが、確かに優花とまりあちゃんだった…。
久しぶりに見た優花。
胸がキュッと締め付けられそうだった。
二人は僕に気づくことなく歩いて行った。
優花…。
久しぶりに見上げた、どこまでも続く果てしない空は、冬空に変わろうとしている。
初めて優花を抱きしめた日の事が鮮明に脳裏に甦る。
今、君には何が見えていますか?
今、君には何が聞こえていますか?
今、君は何を想っていますか?
「愛しい優花…。君は僕の全てだ…」
END