第八片 『絶壁』
野原を歩き、森をかき分け、三十分ほど。
枝葉が途切れ、開けた地面が見えた。
そして、それに続いて意識が移ったのは。
「この壁は……」
開けた地面から十メートル前に進むだけで、そこには完全な断崖絶壁が形成されていた。
傾斜九十度。固く、黒い壁。途中にいくつか小さな雑草が生えている。
崖の上は天に届きそうなほど高く、言わずもがなその先など到底見えない。
「なあ、ここ以外に道はないのか?」
顔を横に向けて少女に尋ねてみると、少女は何か小さな紙片を見ていた。
こちらの声も聞こえていないのか、紙片を指さして、すーっとその指を平行に移動させている。
何か文章が書かれているのだろうか。
「なあ、何見てるんだ?」
俺が近寄ってそれを覗き込むと、少女は慌てて紙を隠し、指さししていたほうの腕をぶんぶんと振り出した。
「み、見ないでください!」
「うぉっと」
指で目を突かれないよう、顔を慌てて引っ込める。
俺の顔が離れても少しの間少女は腕を振り回し、徐々に開いた目で状況を確認したところで、ようやく手をおろした。
「す、すみません。取り乱して」
「いや、俺こそすまん。気になってつい……」
気になってつい、で少女の持っている紙を覗こうとするなよ。
言ってから思わず心の中で突っ込みを入れる。
……変な空気になってしまった。
「……こほん」
少女が一つ咳をした。何か話し始めるのかと、聞く心構えをする。
「えっとですね。王都はこの崖の向こうにあります」
ほう。
「ここ以外に道はないのか?」
「ありますが、使えません」
おいおい、それはどういうことだ。
「何でなんだ?」
「それが決まりだからです」
「決まり?」
「そうです、決まりです」
決まりか……。一体誰が作ったのかは知らないが、おそらくは変えられない理由があるんだろう。
何となく他の道の方を向いてそうな少女の目線が気になるが、それを教えてはダメなわけがあるのかもしれない。
そういうことにしよう。そうすれば仕方ないことにできる。
「なら仕方ないな」
少女は俺の言葉に嬉々として頷き、「ええ、仕方ないのです!」と言ってきた。
……人の気というのをこの少女は知っているのだろうか。
まあしかし、だというのなら打開策があるはずだ。
「どうやってこの崖を登るんだ?」
微笑む少女が口にした答えは、しごく簡単だった。
「私と、契約するんです」
少女は一度区切りを入れて言ってくれたが、俺の脳の思考速度はその区切りの後に発された言葉の意味を理解するのに時間を要した。
「……契約って言った?」
「ええ、契約です」
「聞き違いではなく?」
「ええ」
「そんなことできるの?」
「可能です」
どうも、聞き違いでも気の狂いでもないらしい。
「どうしてそうなるんだ?」
「それは、私が”面族”だからです」
おっと、知らない言葉が出てきた。
「めんぞく?」
聞き返すと、少女はあっと何かに気付いたように目を見開き、一度頭を下げてから説明を始めた。
「”面族”。お面の部族で、”面族”です。普通の姿は一般的な人間と変わりません。しかし、”面族”にはある特性があると言われています」
「特性?」
「はい。その特性と言うのは、『”現世”の人と契約をなしたとき、面の姿となり、特別な力を解放できる』というものです」
そんな特性があったのか。
「もしかして、お前が”現世”に人を呼びに行くようになったのもそれが理由か?」
「鋭いですね、それも一つあります」
現世で関わりができたこの少女と契約して、その解放される力とやらでこっちの世界の戦力とする。
おそらくこの少女の上の人はそういうことを考えているんだろう。
「ただし、それが本当にできることなのか、確証はありません」
「へ?」
おいおい、ここまで説明しておいて、どうして最後でそう弱気な発言が出てくるんだ。
「それが、この十数年間、ほとんど”現世”と”願世”の間を行き来することがなかったんです」
……なぜ?
「こちらから送られた人が”現世”に現れるということは、少なからず”現世”の事象に影響を与えてしまいます。それが小さい事象に限られるならまだいいのですが、世界を覆すようなことになりでもしたら……」
「責任を取ろうとしても取り切れない」
「そういうことです」
つまり今回のこの招集も特例中の特例。普通ならありえないような事って訳だ。
そして、つまり前例があまりないがために、その『言われているだけかもしれない特性』というのも可能性としての話でしかない、と。
「……それってかなり不安定な賭けだよな?」
「だ、大丈夫ですよ! 多分!」
「何でそう言える?」
「国王が言ってたからです!」
「……」
国王様よ、どうしてあんたはそんな賭けのために、世界の事象改変になりかねない技術を投じたんだ……。
まあ、藁にも縋る思いってやつか。
「仕方ない、その契約とやらはどうやったらできるんだ?」
「やってくれるんですか!?」
「じゃないと、この崖を登れそうにないからな」
少女は嬉しそうに笑った。
こんな純真な女子は、おそらく夢の世界にしかいないだろう。
そう、この世界みたいなところにしか。
「では、ここにある説明の通りに儀式を進めてください」
少女は俺に、四つ折りにされた小さな紙を渡してきた。
少し黄ばんでいるが、気にすることではあるまい。
開いて中を見てみると、番号を振られた説明と、鍵かっこで囲まれた文章が見えた。
それはとても短いもので、番号も二番までしか振られていなかった。
黙読して内容を把握していく。
「……なあ」
「はい?」
そこらに落ちていた木の枝で地面に円を描いていた少女は、顔だけこちらに向けてきた。
「ここなんだけどさ」
紙面を指さすと、木の棒をそこに置いてこちらに駆けてきた。俺が指した部分に目を向ける。
「名前を決める、ですか?」
「ああ。これ、どういうこと?」
「言葉のままの意味だと思いますよ」
「え? でもあんた名前あるだろ?」
「仮名ならありますが、正式な名前はありません」
俺は言葉を詰まらせた。
だって、そんな耳を疑うような発言を同い年くらいの少女から聞くことになるなんて、思ってもみなかったのだから。
「私たち”面族”は皆そうです。昔からの伝承で、そう決められているんだそうです」
なんてことはなさそうに、軽く少女は言ってのけた。
そんなに気にならない事なのだろうか。予想の範囲外すぎて、想像ができない。
「皆さんから呼び名をつけてもらって、呼んでもらうというのもうれしいものですよ?」
笑顔で言う少女は、また円を描きに戻っていった。