第六十五片 『一つの秘密として』
時は夜の六時。アストリアの季節が夏なら、ここモルフェディアの季節は冬。空が暗くなるのは早い。
「ふ~」
宿の見取り図で見つけた大浴場。湯船は一つだけだが、三十人は一度に入れるかというほどの広さを誇っており、心地いい湯加減も相まって思わず声が出てしまう。
橙色のぼんやりした照明も気分を和らげてくれる。
今日は大変な目に遭ったし、汗を流してから帰っても遅くはないだろう。
この宿にはアストリア兵しかいないし、時間が時間なだけに、入っている人は一人もいない。
独り占めだ。
……なんて思っていると、引き戸が音を立てて開けられた。
「やあ冬くん、湯加減はどうだい?」
「オルタさんですか。お湯は丁度いいくらいですよ。というか早いですね」
「俺も汗流したいからね~」
かけ湯の後、広いお風呂に入り、タオルを頭に乗せて俺のすぐ横に来た。
「なんで横に来たんですか」
「いいじゃんいいじゃん。何もしないし」
それはフラグですかオルタさん。
……って、オルタさんに限ってそんなことはないか。
「はあ、それにしてもいいお湯だ」
言って、オルタさんは顔を洗った。
指にはめている指輪が光を反射して輝く。
「それ、お風呂でも外さないんですね」
「ん? ああ、まあね。隊の人らは知っているけど、そうやすやすと見せるようなものじゃないし。アレは君への紹介の意味が強かったから」
「そうでしたか。すみません」
「謝るようなことじゃないよ~。にしても、いい湯だねえ」
「そうですね」
俺とオルタさんの間に沈黙が流れる。
静かに耳に入るのは、浴槽に絶えず流れてくるお湯の音。
何分ほど経っただろうか、と浴場に取り付けられていたデジタル時計に横眼を向けると一分しか経っていなかった。
「んじゃ、お先に上がるよ」
オルタさんはゆっくり立って、すたすたと入口の方へと歩いていく。
「は、早くないですか?」
「お風呂は好きだけど早く出とかないとのぼせるからね。これも種族の宿命だよ」
じゃあねと後ろ手を振って、オルタさんは風呂の外へと消えた。
風のような人だな、あの人は。
また誰もいなくなり、天井を見つめて息を吐く。
「そうやすやすと見せるものじゃない、か」
言われた言葉を復唱して、この大陸に来るまでの航海を思い出す。
―――*―――*―――
アストリア大陸を出発してから二日。国の海域を出て公海に入った。目的の大陸に到着するまでは、あと数日かかるらしい。
食料、水分などの備蓄は十分。天気も上々。航路も問題ない。
そうすると何より問題となってくるのは、魔物の襲来だ。昼夜を問わず見張りをしていないと、いつ襲われるか分からない。
国の海では日に一回ほどと少なかったが、公海に入ったところから出現数が馬鹿にならないほど増えた。
今日も朝起きてから昼まででもう五回は襲われている。主に出てくるのは五階建てのビルほどの大きさを誇る青肌の大蛇。
基本的に魔術師部隊と魔銃持ちの俺が応戦し、船に危害が加えられそうになると副砲が援護してくれる。
一体に費やす魔力は大体二百五十発分。俺の魔力の総量は五千発ほどらしいから、二十回戦闘すれば役立たずになる。
五回終わった今でも中々の疲労を感じる。休憩を挟まなければ、十回ともたず倒れてしまいそうだ。
そういえば、「~倍弾」で一気に魔力を放出したときの反動が少なくなっていることが、肌で感じられた。
白雪によれば、第二錬石の恩恵らしい。もう一つ恩恵の説明もされたが、面倒なのでここでは割愛する。
「左舷前方二百メートル、新たなウミヘビの出現を確認!」
遠くで何かが水面に飛び出す水しぶきが見えた。
「くぅ、六度目の戦闘か」
銃をホルスターから引き抜き、戦闘態勢に入る。
「お疲れかい? 冬くん」
背中からオルタさんの声がする。
「いえ、まだやれます」
やせ我慢であろうとも。こう言うのが妥当なんだ。普通。
「やせ我慢はよくないなあ。ボロボロなの、目に見えてるし」
オルタさんが、肩に手を置いてくる。
「ちょうど見せたいこともあったし、今回はそこで休んどいてよ」
前に歩きだして、同時に手にはめている指輪を、もう片方の手で抜き取った。
髪の色などが変わっていくが、オルタさんは気にせず右手を前に突き出し、口を開く。
「詠唱破棄、『ボルテクス』」
手のひらに展開する魔法陣。
中心から放たれた光が空を割るほどの音を伴い、空を切り、一瞬で彼方に見える敵の影を消し飛ばした。
「お、オルタさん……」
このときは流石に驚いた。
まさかオルタさんが、
「エルフ……」
だったなんて。