第四十四片 『想定の範囲外』
メネスさんがいなくなってから、すでに三十分は経っただろうか。
春の日差しが、今は熱い。
汗が顎から滴り落ちる。
「グルァアアアアアアアアアアア!」
叫ぶ大蜘蛛からの放たれる糸を、横跳びで交わしながら二発。当然の如く魔法陣に弾かれる。
「水よ
彼に雨を
『雨水』!」
ハハルさんの詠唱に呼応して蜘蛛の上に青い魔法陣が展開し、雨を降らせた。
蜘蛛にも雨が当たっている。
「雷よ
天よりの罰を
『落雷』!」
今度の詠唱で、さっきの魔法陣の上にさらに黄色い魔法陣が出現した。
召喚された雷は、雨を伝って蜘蛛の背に一直線に降りていく。
だが、これに対してはアレが邪魔に入った。
「ちっ、都合のいいことね」
雷にひび割れはしても、壊れはしない防御魔法陣。
雷が降り終わると、魔法陣も消滅した。
「詠唱略式『幾千の風』!」
間髪入れず、幾つもの風の刃が蜘蛛を襲う。
しかし、相手の魔法陣の発生数は一つではなかった。
それぞれに対して大小さまざまな魔法陣が展開され、しかも攻撃を受けても無傷。
「略式じゃあ意味がないか……」
ハハルさんは蜘蛛と、放たれた糸から距離をとりながら小さく呟く。
俺の倍弾はおろか、ハハルさんの魔術ですらひび割れ程度しかダメージを与えられないとは。
これを打倒する手はあるのか……?
……今はどこかに行ったメネスさんの帰りを待ちながら、打開策を考えて行くしかないか。
魔法陣が出るということは、魔術の一種。つまり、一回ごとに魔力を使うはずだ。
魔力切れを狙って、弾を撃っていくのがいいか。
「冬君!」「冬さん、避けて!」
「ん? うおっ!」
目前まで迫った蜘蛛の前脚の一撃を、寸でのところで横に回避する。
「油断しないで!」「上からもう一撃来ます!」
おそらくこっちに来る間に放たれたであろう糸の弾を、再度避ける。
「くそ、しつこいな……!」
続けざまに俺に前足を振りかざしてくる蜘蛛。
飛び退き、撃ち、
飛び退き、撃ち、
飛び退き、撃ち、
飛び退き、撃ち……ええい、きりがない!
「白雪、上に跳ぶぞ!」
「はい!」
一段と遠く飛び退いた直後、足に力を入れて高所の枝にとび移った。流石の蜘蛛も、ここまでは追ってこれまい。
木の下でこちらに向かって糸を撃っているが、俺ではなく枝に張り付くばかりだ。
「……ん?」
視界の端に、何か光るものが見える。
蜘蛛に注意を払いながらそちらに目を向けてみると、光の発生源はハハルさんだった。
口を絶えず動かしながら、杖で陣のようなものを描いている。今までとは規模の違う魔術を放とうとしていることは、傍目に見ても分かった。
あれが完成すれば、さしもの防御魔法陣でも……。……っ!
何で、アレがここにいるんだ……!
「ハハルさん、危ない!」
「……?」
何も気づいていないハハルさんは、動作を止めることなく、視線だけを俺に向ける。
そして、一瞬遅れて異変を察知したようだった。
でも、それじゃ遅かった。
「きゃっ!」
ソレはハハルさんの体を弾き飛ばした。
飛んでいったハハルさんの体は、道脇の木に縛り付けられる。
ソレは、蜘蛛の糸だった。
しかし、大蜘蛛のそれではない。
それは、子蜘蛛によるものだった。
ハハルさんと反対側の木の影に一匹。いや、そこだけじゃない。
辺りに五匹、いや六匹。どこから出てきたのか分からない子蜘蛛が確認できた。
「冬さん、あの大蜘蛛が吐いた糸を見てください!」
「?」
白雪の言葉に導かれて、道に散りばめられた糸の一つに目を向けた。すると。
「あれは……孵化してるのか?」
糸の下から、小豆程度の小さな蜘蛛が這い出てきた。
出てきたやつらは何の躊躇もなく自分が出てきた糸を口に含む。
糸を食べていくうちに、子蜘蛛はみるみるうちに成長し、物陰に隠れていった。
つまり、奴が吐いた糸の一つ一つが子蜘蛛の卵というわけだ。
……待てよ? ということは。
足元の枝を確認してみると、そこでは予想通り、数匹の子蜘蛛が蠢いていた。
俺は枝を飛び渡り、急いでハハルさんのもとへと下りた。