第四十一片 『山の洞穴』
日はまた昇り、朝が来る。
朝、いつもより少し早く目が覚めた。布団の中で微睡んでいるととても心地いいが、それで二度寝して遅刻などということになったら笑えたものではない。
布団から這い出た俺は洗面所に行き、眠気覚ましに冷たい水で顔を叩いた。
朝飯を食べながらニュースを見る。近頃同じニュースが多くてあまり新鮮な情報が入ってこないという印象を受ける。チャンネルを回して他の番組を見てみてもほとんど取り上げている内容は同じもの。
つまらない。もっと多角的に物事を見るとか、他のニュースに対してアンテナを立てるとか、各番組がやってほしいものだ。
なんて、初心者の俺が思っていることなど、大人に思いつかないわけがないのだが。そしてその中でこういうことになっているということは、それ相応の理由があるのだろうが。
理想というのは、尽きないものだ。
俺はテレビのスイッチを切った。
「清水」
四限目が終わって、今は昼休み。トイレの帰りにすれ違った野薪先生に呼び止められた。
「あれから大分経ったけど、体に不調とかないか?」
「はい、特に支障はありません」
「そうか、ならよかった。なんかあったら、すぐに言うんだぞ。というか、俺より保健室に行った方がいいかもだけどな」
ははは、と笑いながら、野薪先生は階段を下りていった。
「…………」
二週間も前のことを、よく覚えているもんだと思った。
俺自身、意識しないようにしていたわけではないが、自分が非現実的な体験をしたことをすっかり忘れていた。
本人でも忘れるようなことを覚えていてくれる先生。
良い先生だ。野薪先生は、本当に。
理想的だと、そう思った。
“願世”で目を覚ませば、目に映るのは木製の天井と傍にいるユキだ。
「おはよう、ユキ」
「おはようございます、冬さん」
体を起こして周りを見渡してみると、俺がいるのはどうやら宿の一室の様だった。
ユキに聞いてみると、援軍に来た俺たちのために用意した部屋らしい。
ご飯ももらえるというが、今はあまりお腹がすいていない。
「それでは、表に出ましょう。ハハルさんと待ち合わせをしているので」
「約束の時間は?」
「十二時ですね」
「現在の時間は?」
「十一時四十五分です」
それを聞いて、俺は急いで身辺整理に取り掛かった。
宿を出ると、入口にもたれかかっているハハルさんをすぐに発見することが出来た。
手に持っていた懐中時計の蓋を閉めて、羽織の下にしまいながらハハルさんは微笑んだ。
「おはよう、冬君」
「おはようございます、ハハルさん」
もう昼なのに「おはよう」でいいのだろうかとも思うが、ハハルさんが言っているのだからいいのだろう。バイト現場で、いつ現場に入っても挨拶は「おはよう」のところがあると、大学生の兄を持っているやつから聞いたことがある。もしかしたらこれはそういう類なのかもしれない。
「今日は早速だけど、昨日メネスが見つけた洞穴に行ってみるよ」
ハハルさんが一枚の地図を見せてきた。ここの周辺の地図だという。
その中に、一点。バツ印が打たれている箇所があった。
北の山に印されたそれが、目的地である。
「道中はおそらく魔物たちからの襲撃もあるだろうから、ハクを付けておいてね」
「分かりました」
白雪を装備して、俺たちは北門を目指して歩き出した。
「昨日の夜は、何かありましたか?」
「いや、特に何もなかったわよ」
何もなかったと言っても、いくらかクロシシや猿なんかが襲っては来たらしいが、メネスさんがすぐさま片づけたらしい。
メネスさんは現在、宿の中で休んでいるとのことだ。
「一緒に行かなくていいんですか?」
「あいつが村にいてくれるから、緊急事態になってもある程度は安心できるって面もあるから、これでいいと思うわよ」
なるほど。
「それに、あいつは冬君に過剰に当たっちゃうからね」
「……そうでした」
ハハルさんは先導しながら苦笑いの横顔を見せた。
「あれももう少し角がとれればいいんだけどね」
その言葉に対して、俺は中途半端な相づちしか打てなかった。
「ふう」
「何とか、つきましたね」
北門から出て三十分ほど。俺たちの目の前には、山の斜面にぽっかりと空いた大穴が広がっていた。
奥は闇に包まれていて何かがいるのか、それとも何もいないのか、確認できない。
「思ってたより魔物との遭遇が少なくて助かったわ」
クロシシ五匹と手のひら大の蜘蛛十匹というのは俺からしてみれば多いような気がするが。
大量発生の案件の処理に動いているハハルさんたちにしてみれば、こんなものは屁でもないのだろう。
「…………」
と、何かハハルさんの周りで異様な雰囲気を感じて顔を向けた。
異変と言うべきものは見えない。だが、ハハルさんの周りの空気が、冷たく、張りつめているような気がした。
一分もしないうちに、ハハルさんは一息、深く吐いた。ほぐすように、肩を数度上げ下げする。
どうしたのか、不思議に思っていると、本人が口を開いた。
「この中には今、何もいないね」
俺は思わず目を見開いた。
何も見えないあの暗黒空間を、この人は見切ったというのか。
「驚かなくてもいいわ。私はただ魔力を辿っただけよ」
ハハルさん曰く、今さっきは意識を集中させて周囲の魔力の流れを読むことで洞窟内の生物の有無を確かめたらしい。
「大きな魔物ほど放出している魔力は多いわ。話通りの体躯なら、辺りの魔力に歪みが出てるはずなんだけど、それがなかったの」
ほう。
ハハルさんの言葉を聞いていると、まるで探偵のように思えてくる。
「残り香的なものもないし、もしかしたら裏にも穴が続いてるのかもしれないわね。何にしても、これは好都合だわ」
ハハルさんは洞窟に近づいたかと思うとその場にしゃがみ込み、地面に魔術を使って何かを描き込みだした。
「ハハルさん、何やってるんですか?」
「ん? ああ、言ってなかったっけ」
全く言ってないよ、と心の中で突っ込みを入れる。
「これは蜘蛛用の罠の魔術式よ」
「罠?」
罠まで魔術でできるのか。
「私独自の魔術よ。一応村を襲わせないようにっていうお守りね」
「なるほど」
「これを描いてる間は私が無防備になるから、周囲への警戒よろしくね」
「はい、わかりまし……た……」
え? 今何て?
描いてる間は、俺一人で守護しないといけないと?
そのとき、近くの草むらからガサガサと音がした。
近くで猪が鳴く声もする。
鳥がこちらを狙っているかの如く空を舞っている。
「…………」
俺は銃を一度握りなおして、空を舞う鳥を撃ち落とした。
銃声に気付いたように猪が突進してくる。
足を撃ち抜くと、猪はその場に倒れ込んだ。
猪を講堂不能にして終わりではない。
他にも何匹もの魔物たちが襲い掛かってきた。
「白雪、ハハルさんを守るぞ!」
「はい!」
魔物の群れは、際限なく湧いてきているように思えた。
「お疲れ様、全て書き終わったわ」
「ふぅ~~~」
「疲れました~」
俺は腰をゆっくり下ろした。
白雪と同時にため息を吐く。
「あ、すみません」
白雪がすぐさま謝ってくる。
「謝るようなことじゃないって」
「なになに? もしかしてハモっちゃったの?」
かがみながらハハルさんが尋ねてくる。
この人の直感はどうしてここまで当たるのだろうか。
「あら、当たったみたいね。ふふふ」
微笑むハハルさんの顔は幸せに満ちた笑顔だった。
「さて、それじゃ帰ろうか」
ここにいても魔物に狙われるだけだし、と付け足したハハルさんに首肯して、俺は再度立ち上がり、来た道の方に体を向けた。
…………ん?
「ハハルさん、あれ、なんですかね?」
「え? どれどれ?」
俺が指さす先には、山の木々の合間から見える黒い煙が天に向かって伸びていた。
「あれって、村の方……」
「冬君、急いで村に戻るよ! ついてきて!」
言葉途中で、ハハルさんはいきなり走り出した。
迫力に気圧されて返事はできなかったが、俺はすぐさまハハルさんに追随した。
やはりあれは村なのだろうか。
どうか無事であってほしいと祈る胸の中は、どこか気持ち悪かった。