第X章 竜胆(side_A)
■はじめに
この作品は、大学で私が所属するゼミの課題で執筆したものです。テーマは「村上春樹の『風の歌を聴け』の10章の構造を参考にしたもの」でした。文体等も村上作品を意識したものとしていますが、パクリではありません。
■あらすじ
季節は冬。女子大学生である竜胆は、自身の通う大学の敷地内で、とある人を待っていた。しかし、待てども待てども待ち人は現れない。その代わりとでも言うように彼女の周りに現れるのは、自分にとって忌々しい存在ばかりであった。
X
首許を風が撫でた。
一二月も終わりに差しかかろうとしている時期の空気は、やっぱり冷たい。手の平で首の皮膚を押さえつけてみたけれど焼け石に水。体のどこもかしこも冷えているんだから当たり前か。動脈を流れる血液の温度が下がる。事態はさらに悪化。負のループ。
四角く切り取られた空を見上げる。青、群青、オレンジに黄色。無駄に色彩が豊富なキャンバスが、色味のない私を嘲るように見下ろしている気がした。
溜息を吐き出して、煉瓦づくり風の壁に寄りかかる。学年も知らない男女の群れが、次々と私の前を通り過ぎてゆく。
茶髪のショートボブに濃緑色のセーターを着た女。そして並んで歩いている男が二人。黒パーカーの気弱そうな奴と、紺のコートを着たスカした顔立ちの男。少し遠くの方には、銀髪にパンクファッションの男が一人。
女、二人。男、一人。男女、五人――。道行く学生の中に、彼の姿は見当たらない。
コートのポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認する。画面に映るデジタル時計は、午後の四時と一〇分を過ぎた事を告げていた。先ほど同じ行動をしてから、まだ三分も経っていなかった。
携帯をしまう。景色が流れる。彼は来ない。手持無沙汰になる。携帯を取り出す。画面を見る。しまう。来ない。暇。出す。見る。しまう。壊れたレコードが同じ個所を演奏し続けるみたいに、一連の動きを繰り返す。空は未だに彩度の高い色が全体を牛耳っていた。
「んん? こんなところで何をしているのですか、竜胆さん? いけませんねえ、サボりは。教育者として見逃せませんねえ」
正面から自分を呼ぶ声が聞こえてきて、視線を上から前に戻す。
焼野原みたいな頭と、怠惰な生活習慣の権化のような体型。財力にものを言わせて購入したらしいスーツは、内側にある脂肪に圧迫されて引き延ばされ、皺一つ見当たらない有様だ。中学一年生の平均身長にも満たない背丈で格好つけつつ、醜悪な顔が私を覗き込んでいる。
「大学って、自分で時間割組むところだって知らないの?」眼前のハゲを心の底から嫌悪しつつ、突き放すように言った。「講義がないからキャンパスの外にいるの。分かる? 理解した? 理解したんなら、さっさと死んで。邪魔」
「あら、そうでしたか。それはそれは失礼いたしました」デブは大袈裟に体を折り曲げて、「なにぶん、常に研究と講義に明け暮れていまして」と前置きしてから、「学生に空きコマがあるなんて事、すっかり忘れていましたよ」と弁解した。
「どうだか」
――私に話しかける言葉が見つからなかったから適当言ったんだろうが。
胸の内で、悪趣味スーツに向かって吐き捨てる。
決して広くはない大学とはいえ、最も会いたくなかった人間と鉢合わせてしまう辺り、自分の運のなさを呪いたくなる。一限目から講義のある日に八時三〇分に起きてしまった時くらい、あるいは締め切り一分前に完成したレポートを提出しようとしたら突然PCがフリーズした時くらい最悪な気分だ。
「ところで竜胆さん。何か飲み物はいかがです? 私も喉が渇いていますし、ついでにあなたの分も買ってきますよ」
地を這う芋虫みたいな動きと共に、そんな事を尋ねてくるチビ。
「あんたの奢り?」私は尋ね返す。
「ええ、もちろん」
「じゃあコーヒーで」
「微糖ですか? それともブラ」
「ブラックで」
「アイスですか? それとも」
「ホットで」
「では私も同じものを」
「さっさと行け、ノロマ」
陸に打ち上げられた魚みたいな挙動で、ハゲは近くの自販機まで向かっていく。私の分と自分の分、それぞれ一本ずつ購入して戻ってくる。
手渡されたスチール缶を黙って受け取り、プルタブを開ける。直後、缶を振っていなかった事に気づいたけど時すでに遅し。仕方なく、そのまま口をつけた。熱い。
「ちなみに竜胆さん。先週のお話、覚えておりますか?」
「覚えてない」
突っぱねたけど、向こうは構わず話しかけてくる。
「食事の話ですよ。隣町に最近できたフレンチレストラン。いやあ、どうも男一人では入りづらくてですねえ。ご一緒にどうですか? 竜胆さん」
「死ね」
〇コンマ一秒の間も空けずに言い放つ。もちろん、こんな返事で引き下がるはずがない事くらいは分かってる。ストーカーを舐めてはいけない。路面と靴の裏に張りついたガムみたいにしつこいし、うざったい。
「つれないですねえ」と溜息を吐くデブ。とはいえ、言葉とは裏腹に大して落胆はしていない様子だ。「良いですか? 高校までとは違うんですよ、大学は。『教員と学生の関係だから駄目』なんて事はありません。自由なんです」
悪趣味スーツは言葉をいったん区切り、「それに」と前置きしてから続ける。
「人付き合いも学生の本文ですよ? 身分を問わず、他人と接点をつくる事で得られるものもあります。本来なら、苦労して手に入れなければならないものが、一切の労なく……ねえ?」
磨き直した一〇円玉みたいに歪な輝きを放つ革靴が、一歩、また一歩と私に近づいてくる。乾いているはずの靴音は、水を撒いたあとの花壇の土のように湿っぽく感じられた。
「たとえば」
気がつけば、ハムのように太い腕が私の肩に回っていた。浮き出た油分で光る相貌が、じっとこちらを見据えている。
「学生としては絶対に欲しいもの、あるよね? もちろん竜胆さんにも」
僅かに声のトーンが落ちている。
周囲を行き交う学生達に、万が一にも聞かれないようにするためだろう。
それと同時に変わる言葉遣い。この変化が訪れた時、その次に発せられる台詞はいつだって決まっている。ロールプレイングゲームのNPCが、特定のイベントで同じ行動を取るように――。
「単位あげるからさあ、良いでしょ?」
「…………」
「内容が難し過ぎる、試験が無駄に厳しい、形式についての事前情報もなし……単位の取りにくい科目なんて腐るほどある。貴重な勉強時間は少しでもそっちに割きたいはず。私の寂しさをほんの少し埋めてくれるだけで、それができるんだ。悪い話じゃないはずなのになあ」
「結構。全科目、自分の力で取るから」
こちとら男一人追っかけるために一年間の禁欲生活に耐えた身だぞ。それも偏差値三六のド底辺から。たかだか一週間そこらの束縛。日数にしたら七日だ。二四時間が七回。睡眠、食事、風呂、通学やらの時間を考慮すれば、もっと少ない。何の苦痛もない。
「それより良いの?」と私はおもむろに話題を切り替えた。「そろそろ次の授業始まるんじゃない?」
家畜の識別用タグのように巻きついた腕時計を確認したチビは、「おっと、私とした事が。いけませんねえ」と口調を戻しつつ、「お説教をした手前、自分がサボりになる訳にもいきませんからね」と言って、私に背を向けた。残っていたコーヒーを飲み干し、傍らにあったゴミ箱に捨てると、足早に去っていく。
「食事の話はまた後日にいたしましょう。ではまた」
私はあえて返事をしなかった。あいつが触れていた部分が、虫が這ったあとのように不快極まりなかった。今日何度目とも知れぬ呪いの言葉を口の中だけで囁いた。
やがて。
午後四時二〇分、あるいは五限目の始まりを告げるチャイムが鳴る。遅刻必至の時間になってから、ようやく慌て始めた連中が、我先にと建物の中に雪崩れ込んでいく。
中身の残ったままのスチール缶をゴミ箱に投げ込む。ミスった。縁に缶が当たり、飲み口から黒い液体が飛び散る。無事に入ったは良いけど、石造りの地面に二、三滴の染みができた。……まあ良いか。知らない。
学生の少なくなった敷地内で、またしても手持無沙汰になる。相変わらず彼が来る様子はない。あんな肉団子でも、いるだけマシだったのかもしれない。
所在なさげに脚を組んだり解いたり。俯いたまま、意味のない振る舞いを眺めてみる。すると、いくつかの足音の中に、明らかにこちらに向かってきていると思われるものが混ざっている事に気づいた。顔を上げてみると、私の方に駆け寄ってくる影が一つ。
さっきのストーカーよりも低い身長。それに比例するように体の方も小さい。うっすらと染めた茶髪のボブカットの前髪の下には、男受けの良さそうな顔立ちが覗く。ベージュのダッフルコートの裾から、厚手のタイツに覆われた脚を見せつける葛が、私に向けて手を振っていた。
「……何の用? というか、あんた授業は?」
「やだなあ、竜胆先輩。このコマは、あの人が担当じゃないですかー」
私の前で立ち止まった葛は、けらけらと笑いながら間延びした声で言う。
「もう単位はもらえる事になってますので」
「ああ、そう。なら良かったね」そっけなく返す。
「先輩の必修科目も、あの人が担当でしたよね? 声かけられなかったんですかー?」
「ついさっき話してたとこ。ちょうど入れ違いにあんたが来たの」そう言って葛を指差す。「私は自分でやるから。あんなクズ野郎には媚びない」
「えー、もったいない!」葛は頬を膨らませて、「ああいうのは適当に言う事聞いておいたら良いんですよー!」と声を高めた。「上手く使えば、それだけで楽できるんですからー」
「私は良いの。あんたとは違うから」
――そう。
――違う。
こんな女狐と私は違う。決定的に。彼という存在がありながら、他の男に靡き、あまつさえ、自分は本気で彼を愛しているのだと平気でのたまう女とは――。
――なぜ?
この女を見ていると、そんな疑問が沸々と湧いてくる。
どうして彼は私を選ばなかったのか。どうして目の前にいるアバズレを選んだのか。私はこんなにも彼の事を思っているのに……想っているのに――私に言い寄ってくるのは、あの肉達磨みたいな連中だけ。
嫉妬、羨望、憎悪、ジェラシー、エンヴィー、ヘイト。
そのどれとも似ているようで、そのどれとも異なる感情が、私の動脈と静脈を巡り、体全体に行き渡ってゆく。右腕、左腕、右足、左脚、そして頭。私という人間を構成するあらゆる器官が、寸分違わぬ感情で一色に塗り潰されるのを感じる。
「先輩?」
不意に意識に割り込むように葛の声が響いた。現実に引き戻された私は、「何でもない」とかぶりを振る。「ごめん、何?」
「だからー、何か飲みませんか? って。私、喉乾いちゃって」
……数分前に同じような誘いがあったような気がする。未だに染みの残るゴミ箱付近の地面を横目で見やる。「……コーヒーで」
「お砂糖どうしま」
「ブラック、ホットで。はい、金」
葛が言い終わる前に要望を伝えて、一〇〇円硬貨一枚と一〇円硬貨二枚を押しつける。「私は甘い奴にしようっと」と言って自販機に向かう葛を、気の抜けた炭酸水みたいな視線で見つめる。
二本の缶を両手で持って戻ってきた葛から片方を受け取る。彼女自身のものはラベルが手で隠れてしまって、何か分からなかった。
「ありがとう」
「えへへー、どういたしましてー」
先ほどと同じ間違いを犯さぬよう、手にした缶を振ってからプルタブに手をかける。飲み口に唇をつける。飲む。熱かった。
「そういえば……」と私は葛の方へと視線を滑らせた。まさに今、根本的な事に思い至ったのだ。「私、今日、彼と待ち合わせしてるんだけどさ。いつまで待っても来ないの。あんた、何か知らない?」
「彼? ……ああ、あっくんの事ですかー?」
一瞬、自分のこめかみに血管が浮いたような気がしたが、なかった事にする。「そう、彼」と相槌を打った。
葛は小さく首を傾げて、「うーん、知らないですねー」と唸った。「というより、私の方にも全然連絡来ないんですよー。こっちから送っても反応なし。ちょうど昨日の夜一一時くらいからですかねー?」
「そう、なら良かった」
「? 良かった? 何がですかー?」
不味い。口を滑らせた。すぐに、「ごめん、何でもない」と取り繕う。「もし、あんたの方に連絡あったら、私の方にも伝えてくれない?」
「はい、良いですよー」これ以上、詮索する気はないらしい。葛は気前良く承諾した。
しばし無言の時間が流れる。二分ばかり経った頃、手にしたアルミ缶の中の飲料を飲み干した葛が、用済みの鉄クズを袋の張った籠に投げ入れた。
「ごめんなさい、私もう行きますねー」と言って、足許に立てかけていたハンドバッグを手に取った。「先輩はこれからどうするんですかー?」
「私はもう少しここで待ってるよ、もしかしたら彼が来るかもしれないし」
二、三言、言葉のやり取りがあって葛と別れる。
すでに日は傾きかけていて、空を彩るグラデーションは、暗色の割合の方が高くなっていた。コートの隙間から差し込む風も、より底冷えするものとなっていた。
半分ほど残っていたブラックコーヒーに口をつける。温いを通り越して、すでに冷たくなっていた。結局、またそのまま捨てた。案の定ミスった。染み三つ追加。
まばらだった学生の姿も、この時間になると全くと言って良いほど見当たらなくなる。
スマホを取り出して画面に目を落とす。しまう。
脚を組んでみる。そして解く。
日が完全に沈んでも彼は姿を見せなかった。
これ以上は無駄だと踏んで、私はようやくこの場から離れる事に決めた。鞄を持って駐輪場に向かう。まばらに設置された電灯が、石造りの地べたを円形に切り取り、消えかけの蠟燭のように頼りなく照らしている。
――「なら良かった」
先ほど無意識に出てしまった言葉を脳内で反芻する。
一回、二回、三回……味のなくなったガムを噛み潰すように。何度も、何度も。
クソ教授に会って最悪だった。
葛と会って最悪だった。
ただ、それでも。
今、胸の内に燻り続けているこの想いは、少しだけ温かかった。
そう。
私にとって、この感情は。
確かに良い感情だったのかもしれない。