前編
その少年にとって、標的は狩りの獲物でしかなかった。
標的は狩らなければならない。幼少の頃から両親にそう教えられ、狩りのための技術を教え込まれてきた彼にとっては、標的は殺すものではなく、狩るものでしかなかったのである。
この考え方は少年の祖父の代から続いてきた思想であり、そのための技術も同じく彼の祖父と仲間たちが実践し、研磨を続けてきた技術だった。少年でまだ3代目だが、この技術を身に着けた猛者たちが経験してきた戦いは、きっと何代も続くあらゆる技術を既に凌駕している事だろう。
彼らが経験してきたのは、生半可な激戦などではないのだから――――――。
数多の雨水を浴びながら光を発する窓の向こうの街灯を見つめていた男性は、腕時計の時刻を見て舌打ちした。雨のせいで外を出歩いている人影はないが、暗闇の中から窓をすり抜けて中へと入り込んでくる緊張感が先ほどから彼を急かしているのだ。
既に大通りの商人たちは商売を止め、近くのパブで夕食でも摂っている事だろう。だが、自分たちまでゆっくりと夕食を摂るわけにはいかない。時間通りにクライアントに商品を納入した後、報酬を受け取り、素早く追手から逃げなければならないのである。
いつもの商売ならば今回のように部下たちを急かし、怯えながら窓の外を眺める必要はない。窓の外から流れ込んでくる緊張感に急かされながら、彼は今回の仕事はリスクが大き過ぎたと後悔し始めていた。
「おい、急げ。クライアントを待たせるんじゃないぞ」
クライアントを待たせるのは拙い事だが、今回はクライアントを待たせること以上に、ここでもたつく事の方が拙いのだ。二度と商売ができなくなってしまう。
部屋の中で縄を手にした部下たちにそう言った男性は、もう一度窓の外を凝視してから仕事中の部下たちの方を振り返った。
「大人しくしろ、この奴隷が!」
「諦めろ! もうお前は貴族のおっさんに売られるんだよッ!」
「やっ、やだぁっ! ママのところにかえりたいよぉっ!!」
普通の人間ならば、まだ7歳か8歳くらいの少女が数人の大男に手足を押さえつけられ、身体を縛られて猿ぐつわを付けられそうになっているところを目にすれば止めようとするだろう。だがこの男性から見れば、これはいつもの仕事の風景と変わらない。今回の商品はまだ暴れているが、いつもの商品ならばもう諦めてぐったりしているものである。
「急げってんだ! 早くしねえと―――――――奴らが来るぞ」
このオルトバルカ王国と呼ばれる大国では、南方のドルレアン領以外の地域では奴隷の売買が日常茶飯事となっている。奴隷制度を廃止しているのは南方のドルレアン領のみで、この王都ラガヴァンビウスやその他の領地では、ボロボロの服を着せられた奴隷たちが貴族や企業の人間に売られていくのは当たり前なのだ。
だが、最近ではこのような商売を行っている商人やギャングは、あるギャングによって徹底的に攻撃され、壊滅させられると聞いている。そのギャングに襲撃された者たちの生存者はいないらしく、襲撃されれば必ず皆殺しにされるという。
先ほどから男性が怯えているのはそのギャングが襲撃してくるかもしれないという恐怖が原因であった。しかも今回の商売を行う地域は、よりにもよってそのギャングの縄張りの真っ只中である。いつも通りに仕事をすれば、今まで壊滅させられていった商人やギャングたちと同じ運命を辿る羽目になるのは火を見るよりも明らかだったが、クライアントが払うと言った報酬の金額を目にした瞬間、その恐怖は消え去っていた。
しかし、消え去った筈の恐怖は少しずつ蘇り始めている。
一刻も早くクライアントにこのエルフの奴隷を納入しなければならないというのに、この奴隷は先ほどから暴れ続けていて、なかなか連れ出す事ができない。いつもならば少しだけ痛めつければすぐに納入できるのだが、今回はクライアントから痛めつけるなという注文があったため、いつものように言う事を聞かせる事ができない。
リスクが高い上に面倒な仕事だと彼が思い始めたその時、倉庫の入口の方から足音が聞こえてきた。
「………?」
入口に見張りを配置して置いた覚えはない。元々男性のこの仕事仲間は少人数だから、見張りを配置するわけにはいかなかったのだ。つまりその足音は部外者が来訪したという証拠でしかない。
ぞっとした男性が護身用のクロスボウを拾い上げようとしたその瞬間だった。木製の倉庫のドアがいきなり突き破られたかと思うと、雨で濡れた黒い革のコートを身に纏った1人の男が、右手に奇妙な武器を持ったまま倉庫の中へと入って来たのである。
体格は仕事中の仲間よりも小柄だが、細身というわけではない。ハーピーの羽根と思われる真紅の羽根が取り付けられた黒い革のフードをかぶっているせいで顔は全く見えないが、僅かに左側の頬に刃物で切られた古傷がある事に気付いた瞬間、忘れ去っていた筈の恐怖が一気に肥大化し、男性に降り注いできた。
「その傷………す、スカーフェイス………!?」
彼の頬に微かに見えた古傷は、男性や仕事仲間たちが最も恐れている存在の証であった。
「―――――――おいおい、てめえら。俺たちの縄張りで勝手に商売してんじゃねえよ。ぶち殺すぞ?」
フードをかぶった男が冷笑しながらそう言い、手にしている奇妙な武器を男たちへと向ける。
男たちが『スカーフェイス』と呼んだこのコート姿の男は商人やギャングたちだけではなく、この王都の治安を維持する憲兵隊や騎士団にも恐れられている存在であった。
エルフの少女を拘束しようとしていた仕事仲間のうちの1人がスカーフェイスへと護身用のクロスボウを向けたが――――――彼がトリガーを引くよりも先に轟音が響き渡り、今まで何度も仕事をしてきた仲間が、頭に風穴を開けられて崩れ落ちた。
「なっ………!?」
見たことのない武器だ。木製のグリップと円盤のようなパーツが取り付けられているクロスボウのような武器だが、クロスボウではない。今のように轟音を発するクロスボウなんて聞いたことがないし、発射された矢が全く見えなかった。
スカーフェイスはその武器を両手で構えると、今度はクロスボウとは比べ物にならないほどの凄まじい速度でその武器を連射し始めた。轟音が前の轟音の残響を打ち砕き、発射口と思われる場所から黄金の閃光が煌めき続ける。
その閃光を向けられた男性は、護身用のクロスボウを発射する間もなく、仲間たちと共に蜂の巣にされ、倉庫の床を血で紅く汚す事しかできなくなった。
オルトバルカ王国は、過去に勃発したあらゆる戦争に勝利している大国である。この大国の歴史の中から敗北した戦いを見つけることは非常に難しいと言われるほどで、騎士団は何度も実戦を経験している。しかも魔術が他国よりも発達している上に、30年前にある1人の天才技術者が巻き起こした産業革命によって産業は急速に進化し、産業革命が起きてからはずっと『世界の工場』と呼ばれている。
その国力と百戦錬磨の騎士団の働きによって、今では世界最強の大国と呼ばれているオルトバルカ王国は、産業革命の発端となった1人の天才技術者の手によって、更なる力を手に入れようとしていた。
世界中に存在する精霊と簡単に契約することができる『フィオナ・プロトコル』と呼ばれる技術である。
本来ならば非常に手間がかかる精霊との契約をかなり簡略化し、容易に精霊と出来るようにしたものである。この方法によって精霊と契約した者は『ガーディアン』と呼ばれ、騎士団では重要な戦力とされている。
だが、元々精霊と契約できるのは適性がある者だけという法則がある。簡略化したとはいえ手順以外は変わらないフィオナ・プロトコルでもその法則は同じで、国家の戦力は爆発的に向上したものの、適性があるおかげでガーディアンとなる事ができた者と、適性が無いために精霊との契約すらできなかった者の差別を生む結果となってしまった。
かつてこの世界で活躍した『モリガン』という傭兵ギルドのメンバー並みの戦力となるガーディアンを育成するため、オルトバルカ王国は国内の学園にガーディアンを育成するためのコースを新設したのだった。
王都ラガヴァンビウスにある『王立ラガヴァンビウス学園』にも、そのコースは新設されている。既に全校生徒の半数がガーディアンとして訓練を受け始めており、残った半数の生徒も技術者や冒険者になるための教育を受けていた。
そのラガヴァンビウス学園の2年1組の教室で、1人の少女が黒板の前に立ち、軽い音をチョークで奏でていた。登校してホームルームが始まるまでざわめき続けていた生徒たちは、彼女が奏でるチョークの音を聞きながら、黒板に自分の名前を書く少女を凝視している。
やがて自分の名前を黒板に書き終えた少女は、退屈そうにため息をついてからくるりと生徒たちを振り返った。
「――――――初めまして。アリシア・ヴリート・マクファーレンですわ」
黒板に書き込んだ自分の名前を名乗ってから、少女は教室を見渡す。
どんな黄金の装飾よりも美しい金髪と美貌の少女だが、凛々しい彼女の翡翠色の瞳に睨みつけられれば、まるで剣の切っ先を向けられているかのような威圧感を感じてしまう事だろう。だが、その威圧感に薙ぎ払われても、彼女を凝視する生徒たちはアリシアを見つめ続けた。
「王都には凄腕のガーディアンが何人もいらっしゃると聞きましたが―――――――いずれ、わたくしが頂点に立ちます。お忘れなく」
「………ま、マクファーレンは非常に高い適性を持つためにこの学園にスカウトされてきた生徒だ。しかも名門のマクファーレン家の次期当主候補だから、無礼なことはしないように」
マクファーレン家は、オルトバルカの北方にあるマクファーレン領を統治する領主の一族である。東西南北の4つの領地を統治する領主たちの身分は王都の貴族並みに高く、中には南方のドルレアン家のように発言力の強い一族も存在する。
あまりにも傲慢で短い自己紹介だったが、それを咎められる者はこの教室の中には存在しなかった。この王立ラガヴァンビウス学園の全校生徒は1万人だが、おそらくその中で今の自己紹介を咎められるのは数人しか存在しないだろう。
彼女は桁外れの適性を持つためにスカウトされてきたのだ。機嫌を悪くして学園を出て行かれるわけにはいかないのである。
適性の高いガーディアン候補は、平民でも貴族並みの待遇を受けるほど価値があるのだ。
「では、席はあそこだ。………ん?」
転校生の席を指差した教師は、その席を見て目を見開く羽目になった。
アリシアのための席は、教室の一番後ろで、窓側から二番目になっている。だが、彼が目を見開いたのは発言力の強い領主の娘であり、逸材でもあるアリシアが一番後ろの席であるという事ではない。
窓側の一番後ろの席に座り、制服を身につけながら黒いハンチング帽をかぶって、腕を組みながらホームルーム中だというのに爆睡しているのは、この全校生が1万人もいる巨大な学園で最悪の問題児と言われている男子生徒であった。
必ず頭に帽子をかぶりながら授業中はいつも爆睡しているこの問題児は、何度も上級生と喧嘩し、既に精霊と契約していた上級生と大立ち回りを何度も演じている。しかもそれを止めるために彼を押さえつけた風紀委員の生徒と教師を殴り飛ばしているのだ。
そんな問題児の隣に、学園がわざわざ北方のマクファーレン家からスカウトしてきた逸材を座らせることになったのである。彼が彼女の機嫌を悪くする可能性は非常に高いし、傲慢な上級生ならば精霊と契約していても関係なしに襲い掛かる荒々しい少年であるため、貴族の少女でも殴りかかる可能性は非常に高い。
「ま、マクファーレン。やっぱり別の席を――――――」
逸材に機嫌を悪くさせるわけにはいかないと別の席を用意しようとした教師だったが、アリシアは見下しているかのように爆睡中の問題児を見つめると、くすくすと笑いながら隣の席に向かって歩き出した。
「構いませんわ、先生」
「しかし………!」
「問題児だというのならば、わたくしが調教して下僕にしてあげますわ」
調教できるわけがない。
あの少年を止める事ができた生徒と教師は、この学園には1人もいなかったのだから。
彼の元へと歩き始めたアリシアを止めようとするよりも先に、アリシアは問題児の隣の席へとカバンを置いた。隣に転校生がいるというのに、彼は黒いハンチング帽をかぶったまま腕を組み、寝息を立て続けている。
「―――――起きなさい」
「………」
腰に手を当てながら問題児に言うアリシア。しかし、彼女の美しい声を近くで聞いても、その赤毛の問題児は目を覚ます事はない。
彼が目を覚まさないことに苛立ったらしく、アリシアはなんと今度は片手で彼の身体を揺すり始めた。
「起きなさい。………聞いていますの?」
「こ、こら、マクファーレンッ………!」
「――――――ん?」
すると、ハンチング帽をかぶっていた赤毛の少年が目を覚ましてしまった。今まで自分を起こそうとした生徒はいなかったから、彼は少しだけ驚いているのだろう。目を丸くしながらアリシアを見上げると、口を開けてあくびをすると、瞼を擦りながら眠そうな声で尋ねる。
「誰?」
「あらあら、今まで眠っていたくせに随分と態度が大きいですのね。眠いならちゃんと家で寝てきなさいな」
「…………」
早くも挑発を始めたアリシアだったが――――――目を覚ました赤毛の少年は、返事を返す事はなかった。再び腕を組みながらハンチング帽を目深にかぶり、黙っているだけである。
再び眠ろうとし始めた少年の身体を揺すると、彼はまた瞼を擦りながら不機嫌そうにアリシアを見上げてきた。
「わたくしが起こしてあげているのですから、寝るのはもうやめなさい」
「やかましい」
「なっ………!?」
「――――――ん? こいつって転校生?」
「あ、ああ。北方のマクファーレン領から来た、アリシア・ヴリート・マクファーレンだ。次期領主候補だから、失礼なことは―――――――」
話を聞きながらもう一度あくびをした赤毛の問題児は、帽子の上から頭を掻くと、つまらなさそうに再びアリシアを見上げた。
東洋人のような顔立ちの少年だったが、ハンチング帽の下にあるのは黒髪ではなく、炎のような短い赤毛だった。眠そうな瞳も炎のように赤く、頬の左側には刃物で切られたような古傷がある。この傷さえなければ普通の17歳の少年にしか見えないが、古傷のせいで荒々しい顔つきに見えてしまう。
「へえ。北方って寒いんでしょ? 俺は『ユウヤ・ハヤカワ』。よろしくねー」
「あ、あなた………わ、わたくしを馬鹿にしていますの………!?」
「興味が無いだけだ。馬鹿にしてないから安心しな」
「っ………!?」
挑発の内容と、調教するつもりだった問題児に挑発された事に苛立ったが、ここで激怒して怒鳴れば彼に敗北することになるし、名門であるマクファーレン家に泥を塗ることになる。
アリシアは息を吐いてから微笑むと、彼女たちを顔を青くしながら見守る生徒たちを睨みつけてから言った。
「平民の分際で、本当に大きい態度ですわね」
「ありがとう」
「ふん。――――――――それと、マクファーレン家を『興味が無い』と言った事は許し難いですわね」
授業を真面目に受けず、生徒や教師を困らせる野蛮な男に一族を馬鹿にされたのだ。他の貴族に馬鹿にされたとしても許しがたいが、幾度も喧嘩を繰り返しているという野蛮な男に馬鹿にされるのは絶対に許すことは出来ない。
ならば、叩き潰してやろう。自分の力を見せて、先ほど教師に行ったように本当にこの男を下僕にしてやるのだ。
既に、アリシアはもう強力な精霊との契約を済ませているのだから。
「――――――わたくしと決闘しなさい、野蛮人」
「え?」
「喧嘩が好きなのでしょう? だからかかってきなさいな。――――――叩きのめして、下僕にしてあげますわ」
「―――――――ガハハハハハッ。いいじゃねえか」
先ほどまで眠そうな顔だったユウヤが、片手でハンチング帽を抑えながら静かに席から立ち上がった。自分よりも身長が大きくてがっちりした男の威圧感程度では怯えたことがないアリシアだったが、立ち上がったユウヤが浮かべた楽しそうな笑みには全く似合わない鋭い目を見上げ、彼女は少しだけ震えてしまった。
楽しそうに笑いながらアリシアを見下ろしているというのに、彼の鋭過ぎる目つきは全く笑顔に似合っていない。まるで戦場で敵兵を何人も葬ってきた傭兵や、凶悪な魔物との激闘を何度も経験してきたベテランの冒険者のように鋭い目つきだ。
このまま目を合わせ続けていたら、自分から決闘しろと言ったのに、決闘する前に戦意を全て消し去れてしまいかねない。そう思ったアリシアは、見上げていたユウヤの鋭い目から目を逸らしてしまった。