番外編 彼が不機嫌になる理由(前日譚)
まあるいツヤツヤの頬。つややかな赤い髪には輪ができている。
なんて可愛らしいんだろう――メイサは薔薇色の頬に指を乗せると、ぷに、と突く。それでも全く目を開けることはない。三歳になる娘は一度寝入ったらなかなか起きない。
「またエマはここで寝てるのか」
仕事を終えた夫が扉から現れ、不機嫌そうな声に、メイサは顔を上げる。
「寂しくなって抜け出してきたみたい」
子供部屋はメイサの隣の部屋で、エマが生まれてからすぐに使われるようになった。だが活発な娘は姥たちの目を盗んではこうしてメイサの――いや、両親の寝室に忍び込んでくる。夫の寝室は別にあるけれど、結婚してから殆ど使用されていない。使用されたのはエマの誕生を挟んでの約半年ほどの期間だけだった。
「そろそろ一人で寝る歳だと思うが」
剣呑な雰囲気をまとわせて、夫はベッドに滑りこむ。寝るときには相変わらず服を着ない彼だが、エマがいる時は上半身に止める。そして、それが彼が不機嫌になる理由の一つだとメイサはよく知っている。知っていて、気づかないふりをするのだった。
「いいじゃない。可愛い時期ってあっという間に終わっちゃうもの。もったいないでしょう?」
「そんなものか? そう言って甘やかしてると、おとなになってもここで寝ることになると思うが」
そんなわけないじゃない、とメイサは笑った。この人は妙なところで心配症なのだ。
「ルティ。あなた、エマが可愛くないの」
「愚問だな」
そう言いながら彼は、エマの寝顔を見て、目を細めた。
鋭い眼差しが僅かに緩むだけで、どれだけ愛情がにじむか彼は知らないだろうとメイサは思う。
この顔が見たいからこそ、エマと三人で眠るのが好きだと言っても過言ではないかもしれない。
エマが一緒に寝る日は、たいていメイサは夜中に目を覚ます。その晩もそうだった。
エマは驚くほどに寝相が悪く、布団を蹴るにとどまらず、ベッドからはみ出して落ちてしまうのだ。
むくりと起き上がるとエマの位置を確かめる。部屋には月明かりが差し込み、寝台の上を照らしている。シーツの波の中から、赤い髪を見つけるとホッとして腕の中に引き寄せる。
だが直後、メイサは間違いに気がついた。
「…………!?」
逆に強い腕に引き寄せられ、メイサはぎょっとした。娘かと思った頭は、見かけより大きい。夫のものであった。
寝ぼけているのかなんなのか、そのまま胸に頭をうずめる彼に、メイサは焦る。
(ちょっと! エマが起きちゃったらどうするの!)
小声で叫ぶ。だが聞こえているのか聞こえないふりをしているのか。夫はメイサの叱責をまるで無視して寝間着の中に手を忍び込ませた。
だが、
「とうたま――!」
ずしり、と体に重みが加わったかと思うと、夫の動きがピタリと止んだ。薄っすらと目をあけると、夫の頭にエマがしがみついて眠っていた。
彼は動きが取れずに、メイサの胸に顔を埋めたまま息を潜めている。
(父親としてなら、理性が働くのねえ……)
納得しつつ、メイサは笑いをこらえるのに必死だった。
翌朝。
胸と娘に頭を挟まれたまま眠った夫が、目の下にくまを作っていたのは言うまでもない話。




