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涙に濡れた一夜が明けると、エマを取り巻く状況は一変していた。明朝には、隣国の皇太子――ルキアの元を訪ねろとの母の言葉に、エマは耳を疑った。鏡の前に座らせ、肩に手を載せて鏡越しに話しかける母にエマは問いかける。
「なぜこの時期に?」
「あら? あなた、留学についてジョイア側と話し合いたいと言っていたでしょう?」
母は軽く言う。だがどこか含みを持った眼差しが怖かった。アリスへのお仕置き、という不穏な言葉を思い出すから余計にだ。
「あ、あの、お母様、わたし、アリスと別れるつもりは――」
先回りをして断る。だが、言ったとたんに彼と離れることを想像した胸が悲鳴を上げた。
(アリスと、別れる!? そんなの、無理!)
いくら喧嘩をしようとも、彼の傍に居られなくなる選択肢を選ぶことはない。そんな可能性は考えることさえ厭うていた。
白い結婚であることを理由に引き離されるのかもしれない。それならば、言わなければよかった。一人で何とかすればよかった。そんな後悔が胸を焼き、それ以上言葉の出ないエマに、母は「わたしだってそんな気は毛頭ないわよ。あんな出来た息子、逃したら二度と手にはいらないもの」と笑った。
(よかった……!)
安心しすぎて涙がにじんだところで、母はいたずらっぽく笑った。
「大丈夫。アリスも一緒に行くって言っていたから」
「アリスも?」
「昔から、押してもダメなら引いてみるって言葉があるじゃない? ルキアと聞けば、さすがにあの子も焦ったみたいよ。あなたのことをちゃんと想っているから大丈夫」
「……本当?」
自分のことを失いたくないとアリスも思ってくれている。嫉妬してくれている――それならどれだけ嬉しいだろうか。
失いかけた自信が僅かに戻ってきた。母はうなずき、エマの髪をそっと梳くと「今日は私に髪を結わせてね」とようやく肩まで伸びたけれどまだまだ短い髪で、器用に編みこみを作りはじめる。そして「これをあなたにあげるわ」と髪飾りでまとめてくれた。赤い石で花が象られた繊細な髪飾りは、確か、母が若い頃に使っていたもの。
「それにね、環境を変えてみるのは案外大事だと思うわ。だってあなた達、小さな時からずっと一緒で、しかも同じ場所で過ごしすぎて、関係を壊すのが怖すぎて踏み切れなくなってるみたいだから」
母からの、女の先輩としてのアドバイスに、エマは目を丸くする。メイサ様は陛下が彼女に向ける愛情に関しては鈍いのですけれど、他の人間に対しては案外鋭いのですよ――とルイザに聞いたことがあるが、そのとおりなのかもしれない。いやに的確に思えて、おとなしく頷くエマに、母は「そういえば……」と尋ねた。
「どうしてお酒を飲んだの?」
「ええと……ちょっと怖くて。侍女が勧めてくれたの」
ふうん? と母は片眉を上げた。てっきり母も知っていること――というよりは、母の差金だと思っていたので少し意外に思う。
「まだ、怖いかしら? アリスを失うこととどっちが怖い?」
「――アリスを失うことに決まってる」
即答すると同時に覚悟が決まった気がした。そうだ。それ以上に怖いことなど、エマにはない。先ほど知った、彼を失うかもしれないという恐怖に比べれば、……全然なんてことない。
恐怖を感じた時にエマが思い出していたのは、初めて彼に押し倒されてキスをされたときの、彼の重み、思わぬ力強さ。それから……アリスの、知らない男の人のような大人びた顔だった。エマはアリスが別人になってしまう気がして、……それが多分一番怖かった。
浮かび上がりかける恐怖をエマは無理矢理に払う。
――怖くなんかない。
あのアリスも、いつものアリスも、同じアリスだ。
「じゃあ、お酒に頼るのはもうやめましょうね。目を逸らすのはあなたらしくない。時間もたくさんあるから、正面から向い合いなさい。そうすればきっとうまくいくわ」
母はエマを見つめ、少し考えこむようにしてそう言う。そして、鏡から離れると、エマの旅の荷物を丁寧に包み始めた。
*
用意された馬車は、前に腰掛けたエマの息遣いが聞こえるほどの狭いものだった。
妙にクッションが良いのは、気のせいだと思いたい。気のせいでなければ、その許可を得ているという事で――となると、アリスは何を歯止めにすればいいのかわからないのであった。
窓には厚いカーテンまで付けられていて、アリスは気もそぞろになる。カーテンを全開にし、窓の外を見て気をそらそうとするものの、それが上手くいっているとは到底思えなかった。
エマは終始無言だった。アリスの方からも気の利いた会話を切り出すことが出来ない。なにか口にすれば、かろうじて保っている心の均衡が傾き、理性が焼ききれそうな気がした。
無言の二人を載せた馬車は、やがてムフリッドへの分かれ道に入る。エマがせっかくなら、と陸路を指定したため、砂漠の道を行くこととなったのだ。その昔は馬しか通れないような荒れた道だったと聞くが、今は硝子工房の成功も有り、王都まで立派な道が走っていた。馬車も難なく通れるおかげで、馬を使って砂まみれになることは避けられていると聞く。
それでも景色は硝子の原料となる砂だらけ。見るべきものを失って、アリスは途方に暮れかける。
いっそ眠れたらいいのに。そう思った時だった。
エマから小さな吐息が落ちる。
呆れられたのだろうかと恐怖が渦巻く。視線を感じ、思い切って窓から目線を外すと、エマがまっすぐな視線をアリスに向けていた。眼差しに刺されて、息ができない。エマは、大きな目を瞬かせると、囁いた。
「ごめんなさい」
アリスは目を見開いた。それは自分の台詞であって、彼女の台詞ではない。
「君が謝ることじゃない」
均衡が崩れる音がする。すばやく立て直そうとするけれど、砂の城のようにそれはどんどんと崩れていく。それに気づくこと無く、エマは小さく首を振る。
「わたしも、悪かったし。お酒に頼るなんて、馬鹿よね。お母さまにも言われたの。逃げるみたいで、わたしらしくないわよね?」
エマは照れくさそうにしながらも、笑顔を浮かべた。
「とにかく、これから五日もあるんだし、馬車の中で息が詰まってしょうがないのは嫌だわ。移動時間も有効に使わないと」
彼女の切り替えの速さに救われるはずのアリスだった。
だけど、何か、違和感があった。やがて、立ち直るためにはいっぱい泣いたのだろうなと思いついたとたん、アリスは胸がどくんと妙なふうに跳ねるのがわかった。
泣かせたことに対する罪悪感かと思ったけれど、ずれがあった。
以前、エマと喧嘩した時も、アリスはエマを泣かせた。――けれど、彼女はあのとき立ち直らなかったのだ。エマの笑顔を取り戻したのは、アリスの言葉だったはずだ。アリスとの仲直りのはずだった。
エマはアリスのところで泣いて、そして、飴を食べて、いつもの彼女に戻るのだ。そうしなければならないのだ。なのに、今回、彼女はアリスのところで泣かずに、他のところで泣いて立ち直ってきた。喧嘩なんかなかったかのようにカラッと笑ったのだ。
そう思うと落ち着かない。どうしても、落ち着かない。自分のせいだとわかっていても。
(泣くのは、僕の前だけにしてくれ――。そして、最初の笑顔を見せるのも、僕の前だけだ)
自分勝手な願いだ。だが、自分の見ていないところでエマが泣くのは我慢ならない。しかも飴も食べずに立ち直るなんて、なんだか許せない。
湧き上がるどす黒く、破壊的な感情は独占欲だ。今まで理性で抑えてきたはずの感情が、今、馬車という小さな箱に詰められて、行き場を失っている気がした。
笑顔のエマは待っている。いつもどおりの会話を待っている。だけどアリスは何と返していいのかもわからない。息の仕方さえ思い出せない。
(ああ、僕は――――)
アリスは、今、諸手を上げて、降参したかった。
「どうしたの? ほら、もうすぐムフリッドよ。お父様が、お母様の実家の屋敷に泊まって、工房を見ていけと行っていたわ。あと、ジョイアではシリウス陛下が別荘をお貸ししてくれるそうよ。素敵よね」
目の前の妻は、無垢な、女神のような笑顔を向けてくる。いや、ような、ではない。アリスにとっては彼女は女神そのものなのかもしれない。なのに――
(泣かせたい)
どうしようもなくそう思う。彼女の笑顔を取り戻す役目は、自分のものだと主張したくて仕方がないのだ。
その感情は劣情の一部かもしれない。その証拠に唇から目が離せない。この一月、ずっとアリスを誘い続けた唇。一度しか深く味わったことのない唇。どこかで誰かがささやく。今すぐ、貪ってしまえばいい――そうすれば、彼女はきっと泣く。泣いた彼女を、今度こそ、アリスが飴で慰めるのだ。
と、ふと彼女がまつげを震わせて瞬きをし、アリスはハッとした。甘美な妄想から立ち返ると、どうしたの? とでも言うように、エマの瞳には困惑が漂っていた。
アリスがしようとしていたことなど、エマは欠片も考えもしないのだろうと思うと、その温度差に頬が急激に熱くなる。己がこれほどにも醜く感じるのは初めてだった。
「……ちょっと暑いね」
伸ばしかけた手を握りしめ、頬に触れる代わりに馬車の窓を開け放つと、馬車の中に篭ってしまったものが隙間から流れていく。砂漠のからっとした空気と砂の中に、霧散していく。
「内陸だから。でも、夜は冷えるのよ」
さらっと乾いた返答が返ってきて、アリスはなんとか冷静さを取り戻す。
理性の糸がなんとか切れずに済んだことに、アリスはほっと息をつく。だが、エマは「砂が入るわ」と窓をあっさり閉めてしまう。
劣情を逃がす場を失ったアリスは途方に暮れながら、目をつぶる。するとエマが残念そうにため息を吐いたのがわかった。
彼女はいつもどおりの彼を望んでいる。
だけど、今のアリスには気の利いた会話など、どう頑張っても不可能だった。




