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暁に惑う月  作者: 碧檎
後日談 それは、恋の入り口
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 エマの視界の隅で、アリスがエマの書いた文章の校正を行っている。眼鏡を掛けて怜悧さを増した横顔が書類を睨んでいる。

 長いまつげの奥で瞳が左右に動く。驚くほどの早さで書類がめくられていき、時折、彼が視線を動かすのを止める。彼の大きな手がペンを握る。書類に真っ直ぐな赤線が引かれていく様を、いつしかエマは息を呑んで見守っていた。


(ああ、いけない……)


 ここ数日、エマはぼんやりと過ごすことが増えている。自分でも注意せねばと思っているのだけれど、隣で淡々と仕事をこなすアリスが視界に入るたびに、心が彼に囚われる。

 手に入れたばかりの時は、本当に恋の入り口だったのだなあと今になればわかる。際限なく膨らんでいきそうな想いを押さえつけることがどんどん難しくなっている。


「ほら、エマ。手が止まっている。今日中にまとめるんじゃなかった? もう日が暮れたよ」


 そのアリスが、不思議そうにエマに視線をよこした。暖かな茶色の瞳と目があって、エマは慌てて目を逸らす。うつむいて、手元の書類にペンを走らせる。


 これは留学者の選抜試験に関する企画書だ。優秀な人材をジョイアをはじめ諸外国への留学させるための人選を学校からの推薦枠、一般からの公募枠とに分けて募集することにしようと提案するためのものだった。


 以前デジーが、『学校に行くこともやっと許してもらえた』みたいなことを言っていた。ということは、反対されて学校に行けない優秀なものも潜在するのではと思ったのだ。それに、トニみたいに不正入学するものがいれば、そのせいで振り落とされる人間も多くいるだろう。

 また試験で合格するような平均的に長けている人間もほしいけれど、一芸に秀でている人間もほしいのだ。そういった者を見過ごすのはもったいないと、普通の試験では落ちてしまうタイプのエマは思うのだった。

 真剣に陳述の続きを書き始めたエマだったけれど、視界にアリスが映ると、やはり手が止まる。ほんの少し、綺麗な指先が入っただけで、だ。もう病気かもしれないとエマはため息を吐いた。

 そんなエマを見て、アリスが椅子から立ちあがる。


「休憩しようか」


 彼はこめかみを軽く揉んで、女官に向かって茶を催促した。そして、エマの机までやってくると、身をかがめ、書類を覗き込んで、眼鏡の奥の視線を細めた。

 銀色の髪が、エマの頬に僅かに触れる。エマは心臓の音が彼に聞こえるのではないかと気が気でない。

 喉が干上がり、息が上がる。

 やっぱり、これは、病気だ。

 エマはギュッと目を閉じ、息を潜めて高揚をやり過ごすことにした。

 やがて、


「うん、大体、大丈夫みたい。あとは僕がやるよ。その後校正しておくから、朝までには仕上げられる。明日の会議には間に合うよ」


 やっとアリスが離れてホッとしたエマだったが、朝までには、という言葉に驚いた。


「え、でもアリスが休めない」

「僕は大丈夫。体力はある方だから」


 くすり、となんでもないことのように笑われたけれど、エマはそういうことじゃない、と言いたくなった。




 結婚して一月ほど経つけれど、アリスとは昼間しか一緒に居られないことが多い(しかもそれは執務室の中で、大勢の官吏に囲まれてだ)。遅くまで仕事をしてくる彼は、エマが眠ってしまったあとに部屋に戻ってくるのだ。そして朝目覚めた時には、もう姿がない。隣には眠った形跡はあるのだけれど、夫婦となった実態も実感もないのだ。


 慌ただしいのはわかるのだけれど。そして慌ただしい理由も自分の王位を得るためだということもわかるのだけれど。


(だ、だけどね)


 まさかこんなふうに悩むことになろうとは。

 以前アリスの部屋で押し倒されたことがあるだけに、初夜のことで悩むなど思いもしなかった。


(まさかだけど、知らないなんてこと、ないわよね……)


 エマでも最低限の知識は書物から得ているくらいなのだ。同じ寝台で寝るだけなどとは思っていない。だからこそ、あの物知りなアリスが知らないとは思えない。思えないのだけれど――


 二人が寝室を同じくして一月だというのに、二人はまだ真実、夫婦とはなっていない。そのせいで、疑いがエマの中で濃厚となっている。


 そもそも、初夜となるはずだったその日に、酔っ払ってしまったエマが悪いといえば悪いのだけれど。あれでタイミングを逃したと言っていいような気がする。

 緊張を和らげるためにと薦められて飲んだ酒だったけれど、自分があれほど酒に弱いとは思いもしなかったのだ。起きたらすでに明るかったというのは衝撃がすぎた。猛反省ののち、謝って、アリスも笑ってゆるしてくれたのだけれど、……以降アリスはなんだかんだ理由をつけて――しかも誰もが納得行くような理由をだ――寝室を留守にするようになってしまったのだった。


 いつもならば本人に問いただすエマだけれども、自分が悪いという意識もあるので、強く出られない。それに、事が事だけに言い出しづらい事この上ない。切りだすとしても、どうやって切り出せばいいのか。下手すると誘っているようではないかと思ってしまえば、余計に何も言えなくなる。


 この状況を打開したいと思っているけれど、周囲から新婚夫婦に向けられる独特の生温い視線を受けていては、相談相手も見つからない。

 エマは表面には出さないようにしていたけれど、実はほとほと参っていたのだった。

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