第六 幕間―回想
亜葵が初めて彼女に会ったのは、いつものごとくふらりと姿を消した零央を探しに森に入った時だった。
草を踏みしめる音に振り向いた彼女は、亜葵の姿を認めると少し驚いたように目を丸くし、次いでやわらかく微笑んだ。
『すみません、突然。零央という男の子を見ませんでしたか?』
村人たち向けの笑顔を貼り付け、丁寧に尋ねた亜葵の質問を、彼女は綺麗に無視した。
『君が、もうひとりのオッドアイ君の“亜葵”か』
面食らった亜葵に彼女は遠慮なくズカズカと歩み寄り、淡い空色の瞳で亜葵の目をのぞきこんだ。
『なるほどね。左が露草色、右が臙脂色。零央の言った通りだ』
硬直する亜葵の瞳を思う存分じっくりと見つめたあと、彼女はからりと笑った。
『ようこそ僕の森へ。歓迎するよ、亜葵。あの小生意気な小僧零央のお仲間さん』
えーっと、と亜葵の明晰な頭脳は考えた。小生意気?小僧?お仲間?どこもかしこも事実だが、それを言える人がいたとは。いやしかし、あの零央を小生意気な小僧。何者だこのヒト。
混乱する亜葵の口からもれたのは、力のない声だった。
『あなたの森なんですか・・・』
亜葵はぎょっとした。
何言ってるんだ自分。そんなのどうでもいいじゃないか。てか、何だその辛気臭い声。
顔は鉄壁に笑顔を保ちながらもおろおろしていた亜葵の頭を、彼女はなだめるようにポン、と叩いた。
『君、面白いねぇ』
亜葵はむっとした。面白い?面白いって何がだ。
顔をしかめた亜葵を見て、彼女はふふん、と得意そうにした。
『そっちのが本当だね。その顔のほうが何万倍も自然に見えるよ。やっぱり素直って大事だね』
『・・・何ですか』
『これは零央にも言ったんだけれどね。ほかの誰にも素直になれないのなら、せめて自分と、それから僕には素直になりなさい。そしたらもっと、生きるのが楽になるよ。というか、僕の前では嘘なんか通用しないんだ』
『初対面で、何をいきなり―』
『零央は初対面の僕の前で泣いたぞ』
亜葵は目を見開いた。
『・・・零央が?そんな、ありえない』
『本当だよ』
亜葵は彼女をじっと見つめた。彼女もまた、真面目に見返してきた。
嘘をついているようには、見えなかった。
亜葵は目を伏せた。
『そうですか・・・』
彼女は黙っていた。亜葵はきびすを返そうとした。
『――亜葵』
真摯な声が、亜葵をその場に縫いとめた。嫌でも振り返らずにはいられない、声。
『君は、零央が大好きなんだね』
ざぁっと風が吹いた。木々の間を渡っていく音に、亜葵は目を閉じた。
舞い上がった木の葉が小川に落ちる。一枚、二枚、三枚。
亜葵はゆっくり目を開けた。空色の瞳をまっすぐにとらえて、微笑む。
『いいえ』
彼女が眉を寄せた。亜葵、と咎めるように呼ばれる。
『あんな奴、大嫌いです。零央なんか、』
亜葵は息を吸った。
『所詮、俺がいなければこの村で生きてなんかいられないような奴で、』
今度は、彼女が唇を開く前に。
全部、言い切ってしまおう。
『態度と口ばかりでかくて。皆と違う俺らは、人一倍努力して溶け込まなくてはやっていけないのに、皆が変わることだけを求めて自分から変わろうとしない。それで仲間はずれにされたって自分のせいなのに、そのことでまた頑なになって、悩んで。馬鹿げてます』
『亜葵』
『あいつと同じオッドアイなんて、考えたくもありません。俺とは違うんです』
『亜葵』
『世の中うまく立ち回っていかないと俺たちみたいなのははじかれるんですよ。それを今身をもって感じてるっていうのにまだ意固地になって・・・』
『亜葵!』
亜葵は息をのんだ。彼女が険しい顔を向けてくる。
『それ以上は言わせないよ、亜葵』
『・・・・・へぇ、零央もあの性格でひとついいことがあったんですね。まわりからはじかれてるからってあなたの同情をもらって・・・』
ぱん、と乾いた音がして、亜葵の顔が横を向いた。
何が起こったのか一瞬理解できなくて、頬をはたかれたのだ、と分かったときには、亜葵は彼女の腕の中にいた。
彼女の細い腕が拳三つぶん低いところにある亜葵の頭をそっと抱く。
『自分に嘘をつくのはやめなよ』
彼女の声はらしくもなく湿っていて、すべて見抜かれていたのだ、と思うと、あきらめたように涙があふれた。
あやすようにそっと背中を叩かれれば、言葉は自然と転がり落ちた。
『・・・・・・あいつが、はじかれる理由なんてない。自分との違いを認められない村の奴らが悪いのに。あいつがはじかれることのどこにも正当性はないのに。・・・たまたま村の奴らが選んだ対象が、あいつだったんだ。俺になっても、おかしくなかったのに。あいつが、――零央が、あんなに苦しむことなんてないんだ』
順序も何もなく思いつくままかすれた声でつぎつぎと呟いた言葉すべてに、彼女は何度もうなずいた。
『でも、零央は強い。俺だったら多分逃げ出してるけど、あいつは耐えてる。全然適わない。だから、俺は・・・・・・零央が俺の憧れだから、あいつが弱り切ってるのを見ると憎らしくて、お前は強くなくちゃいけないって勝手に思ってるんだ。そのくせ、あいつの強さとかを垣間見るとき、自分の弱さが憎くなる』
『君は、零央が大好きなんだね』
二度目の問いに、今度はうなずいた。
小さい首肯だったし、かすかな声で多分、と付け足さずにはいられなかったけれど。
『君は、零央の強さに憧れて、大好きで、ずっと強くいてほしいと思ってる・・・けどね、亜葵、その“好き”はあまりにも無責任だよ。“好き”なら、零央の弱さも、認めてあげなくちゃ』
亜葵はしばらく黙った後、やはり小さくうなずいた。
それを見て彼女は、満面の笑みを浮かべた。
そう、好きだったのだ。
自分のようにうまく立ち回れなくて悩んでいる零央を見て苛々したこともあったけれど。
馬鹿みたいな頑固さに呆れたこともあったけれど。
それでも、自分を偽らない真正直さに。
ありのままの自分をはじかれても、それを貫く強さに。
憧れもしたのだ。
はじかれることに怯えたゆえに笑顔の仮面をつくった自分には、一生手に入らないものだったからこそ。
眩しかった。到底適わないと思った。
羨ましかった。一生届かないと思った。
多分、その気持ちを“好き”と言うのだろう。
だから、その真正直さを、強さを、彼が失わないように、そばにいた。
彼をはじく世界に、彼が絶望し、自らを捨てることのないように、自分だけは受け入れた。
自分が生涯をかけても手に入れられないものをすべて持っている彼が、己を貫けるように。
俺が、守ろう。
悔しくなかったわけではない。けれど、生きていくうえで、自分のほうが何倍もやりやすく、得をするだろうと思った。零央の真正直さも、強さも、このひとたちには理解できまい。
だから、俺が守ろう。その妙なるまっすぐな心を。
憧れと羨望は、尽きることなく。
それはいつか、“友達”としてそばにいたいという、思いへと変わった。
亜葵は、ゆっくりと目を開いた。




