第1話
「イザベル。私はお前の姉が気に入った。だから、お前との婚約は破棄する。文句はないな?」
突然のことでした。
私の婚約者であるメレデール公爵が、興味のなくなった玩具を見るような目でこちらを見て、そう言ったのです。
私は小さく、「はい」と答えました。
文句など、なかったからです。
本当に、ほんの少しの文句も、不満もありません。
いきなり婚約を破棄されたのに、文句の一つも出ないなんて、妙な女だと思うでしょう?
でも、それには理由があるんです。
私、最初から、公爵様とは結婚したくなかったんです。
公爵様は、この辺り一帯を治める領主であり、一見女性と見間違うほど美しい方だったので、彼を崇拝し、恋焦がれる女の人は沢山いました。……しかし、私は昔から、公爵様がとても苦手でした。
その理由は、ハッキリしています。
彼の、目です。
もっと具体的に言うなら、女性を見る際の彼の目。
ギラギラとした欲望にまみれた、獣のような目。
あれが、どうしても駄目なのです。
私とて、もう子供ではありませんから、若い男性が女性に対し、どのような欲求を抱くのか、知らないわけではありません。そして、そんな男性の欲求を、けがらわしいとなじる気もありません。
だけど、公爵様の場合は少し違うのです。
うまく言えませんが、公爵様の欲望は、先ほど言った通り、まさに獣じみているというか、人間の情愛を超えた、狂気に近いものだと感じてしまうのです。だから私は公爵様が苦手でした。……いえ、『苦手』というより、『恐ろしい』と思っていた、と述べるのが、より適切だと思います。
しかし運命とは残酷なもので、とある舞踏会で、たまたま私は、公爵様のダンスのお相手をすることになりました。その際、公爵様は私をとても気に入り、なんと、その日のうちに私は、公爵様と婚約を結ばされてしまったのです。
公爵様は、非常に強引でした。
私がやんわりと拒否の意思を示しても、完全に無視されました。
とうとう泣き出してしまった私が、涙ながらに『私には、好きな人がいるんです。どうか、許してください』と哀訴すると、公爵様は不機嫌に鼻を鳴らし、それから、おぞましい脅しの言葉を並べたてました。
「この辺り一帯での、私の権力は知っているね? 私がその気になれば、お前の家に、適当な罪状をでっちあげて、お前の父も、母も、姉も、皆、断頭台に送ることだってできるのだよ? 大人しく、私の言うことに従いなさい。私の妻となり、私の『おもちゃ』になりなさい。それが、お前のためであり、お前の家族のためだ」
大切な家族を脅しの材料に使われては、もう、拒否することなんてできるはずもありません。
私は涙をのみ、公爵様との婚約を受け入れました。
……幼いころに見た、怖いお話。
何も知らない女の子が、生贄として怪物に食べられてしまうお話。
自分がまるで、その『生贄の女の子』になったような気分になり、私の心は絶望に包まれました。私の人生には、もう二度と光が差し込むことはない……そう思うと、怖くて、悲しくて、私は家に戻ってから、何度も、何度も泣きました。
ある時は自室で。
ある時はお庭で。
ある時は、正門の陰で。
……誰にも、この悩みを打ち明けることなどできません。
お父様やお母様、そしてお姉様に相談なんかしたら、大変な心配をかけてしまうでしょうし、いつも一生懸命働いてくれている使用人の皆さんにこんな話をしても、困らせ、嫌な思いをさせてしまうだけでしょう。
私は、皆の前では、これまで以上に明るく振る舞い、誰にも心配をかけないようにしていました。……しかし、ただ一人だけ、私の苦しみに気がついてくれた人がいました。
それは、私が子供の頃から、うちの門番をしてくれているウェインさんでした。……どうやら、正門の陰で泣いているところを、見られてしまっていたようです。
ウェインさんは、大きな体を折り曲げるようにして私の前に膝をつき、こう言ってくれました。
「イザベルお嬢様。どんな悩みも、口に出せは、少しは楽になるものです。俺は無骨者で、つまらない男ですが、それでも悩みを聞く程度のことはできます。よろしければ、何に悩んで、涙まで流しているのか、聞かせてくれませんか」
意外な言葉でした。
いえ、『言葉の内容』が意外というより、ウェインさんが口を開いたのか、私にとっては意外でした。ウェインさんは寡黙で、これまで、『はい』『承知しました』『行ってらっしゃいませ』『おかえりなさいませ』……この四つの言葉以外に、喋っているのを見たことがなかったからです。
少しだけ迷いましたが、私は悩みのすべてを、ウェインさんに打ち明けました。
本音を言えば、ずっとずっと、誰かにこの苦しみを聞いてほしかったのです。
私は、話しました。
まるで、言葉の洪水を浴びせるように、話し続けました。
ウェインさんは、ただじっと、巨木のように、私の話を聞いてくれました。
私は、時に興奮し、時に涙し、時にグチグチと、ありのままの感情を、直接ウェインさんにぶつけました。……ぶつけながら、思いました。私はウェインさんの厚意に甘えていると。
そう思いながらも、私は長々と、好き放題に、ウェインさんに語り続けました。ウェインさんは、時折相槌を打つだけで、一度だって私の話を遮ったりはしませんでした。
ああ。
なんて静かで、優しい聞き方をしてくれるのでしょう。
私は、問題の解決を求めてはいません。こう言っては失礼ですが、ウェインさんに、私の抱えている問題を解決できるとは思えないからです。
だから、静かに聞いてもらえるだけでいいんです。
私はウェインさんに甘え、一時間以上も語り続けました。……私には兄弟はいませんが、年の離れた兄に甘えるというのは、こういう感じなのでしょうか。
そして話が終わると、ウェインさんは深く頷き、きっぱりと言いました。
「その男、許せません。自分の権力を誇示し、家族を人質に取るようなやり方で、婚約を強要するなんて。……しかも『私のおもちゃになりなさい』だなんて、悪趣味が過ぎる!」
最後の方は、怒りの叫びになっていました。
物静かなウェインさんが声を荒げたことに、私は驚きました。……そして、それ以上に嬉しかった。私のために、一人でも怒ってくれる人がいる。それだけで充分でした。
私はウェインさんにお礼を言い、その場を去ろうとしました。
そんな私の背に向かって、ウェインさんは力強く、こう言いました。
「イザベルお嬢様。こんな婚約、守る必要はありませんよ。公爵よりも上の立場……えっと、公爵より上って、なんだったかな……大公……でしたっけ? その大公様、あるいは王様に直訴して、こんな話、取り消してもらいましょうよ」
私は振り返り、笑いました。ウェインさんを馬鹿にしたのではありません。彼の思いやりが、純粋に嬉しかったので、笑顔になったのです。
もちろん、地方領主の婚約に関する些細な問題程度で、王様や大公様に直訴するなんて、できるはずもありません。しかしそれでも、必死に問題を解決しようとしてくれているウェインさんの想いが、嬉しかった……
だから私は、ウェインさんの提案を露骨に拒否したりはせず、「そうですね、検討してみます」と言った後、静かに言葉を続けました。
「ウェインさん、良かったらこれからも、私の話し相手になってもらえませんか?」




