第6話 織りと剣と夜の気配
一年が経った。
季節は四巡し、景色は何度も同じ顔で訪れたのに、同じでいられないものがある。身体つき、言葉の選び方、テラもリアムも、そしてペネロペも、それぞれに少しずつ輪郭を濃くした。
ペネロペの一年は、とりわけわかりやすかった。彼女は織物職人の家系に生まれた。
初めて機の前に座った頃は、糸の鳴き声におびえる小動物みたいで、杼を投げる腕は震え、打ち込みの拍は数えるほどしか続かなかった。呼吸と糸の呼吸が噛み合わず、縦糸に触れる指先は必要以上に遠慮がちだった。
けれど今は違う。朝いちばん、まだ工房の板床がひんやりしているうちから、彼女は機の前に座り、黙って縦糸に掌を当てる。湿り気、張り、ほんのわずかな軋みを確かめる仕草に揺れがない。ヘルド(綜絖)を上げ下げする足は迷わず、杼は迷路を知り尽くした鼠のように走る。打ち込む拍は軽やかで、布面に残るのは均一な呼吸だけ。
口数も少し増えた。以前は頷きだけで終えた場面で、「今日は藍が機嫌いい」「麻は曇天の方が落ち着く」なんて、糸と天気のあいだにある見えない会話を教えてくれるようになった。笑う頻度も、僅かに上がった。歯を見せず、目尻だけがやわらぐ、あの控えめな笑い方で。
その日、テラとリアムは、ペネロペの家に遊びに行くことになっていた。
スティッチ家は代々の織りの家系。村の南に位置する、ゆるやかな坂をのぼりきった先、木柵に囲まれた平屋が、染めの匂いと一緒に風に乗って見えてくる。戸口の鈴を鳴らすと、すぐに足音、そして優しい声。
「こんにちは。糸に触る手を止めるから、少しだけ待ってね」
顔を出したのは、ペネロペの母、リネット。手元には藍の気配が残っていて、爪の間に青の影が薄く残っている。後ろから背の高い男も現れた。父のエルドだ。腕には染料の染みが刻まれ、梁にぶらさがる糸札を確かめる目が、職人のそれだった。
お邪魔します、と二人があいさつを済ませると、工房の奥へ案内された。
四方の壁には反物の試し織りが掛かり、中央には大小の機が三台。手前は小幅、奥は広幅。窓際には染め桶が並び、藍、刈安、胡桃、茜――季節の色が並んでいる。どの桶にも蓋があり、布でくるまれた木槌がそっと寄り添う。床には米糠を混ぜた滑り止めの粉がうっすら。空気には、生糸と木の香り、そして草木の甘みが立ちのぼっていた。
「うわ……」リアムが鼻をくすぐられたみたいな顔をする。「いい匂いだ」
リネットが笑う。「染めの日は、どうしてもね。藍は機嫌が目まぐるしいの。気温、湿り、かき混ぜの回数。たくさん世話してやるほど、綺麗」
エルドがそれに頷く。「糸も、夜に機から降ろして休ませる。張りっぱなしは駄目だ。昼は働かせ、夜はほどいて息をさせる。人と同じだよ」
テラは興味津々で、機の構造を眺めていた。
縦糸を上下に分ける綜絖。それを引く踏木。開いた口(経糸の隙間)へ走る杼。打ち込みの拍子を作る筬。ひとつひとつの名前に、機の語彙が宿っている。名前があるということは、そこに気づきが積もっているということだ。
「ペネロペは?」とテラが訊くと、奥から小走りの足音。「ここ」
三つ編みをひとつにまとめ、薄い前掛けを巻いたペネロペが顔を出した。額にはうっすら汗。けれど目は明るい。
「来てくれてありがとう。今、藍の上がりを見てたところ」
リアムが笑って手を振る。「こうして来るの、久しぶりだな。最初に来た時、糸が怖いって言ってたの誰だっけ?」
「だれだっけ」ペネロペはそっぽを向いて、でも頬が緩んでいる。「あの頃の私は、糸が切れる音を『叱られてる音』だと勘違いしてたの。今は、『気が立ってる音』か『乾いてる音』か、なんとなく区別つくようになってきた」
「一年でそこまでわかるもんなのか」とテラ。
リネットが微笑んで口を挟む。「わかるよ。毎日、同じものに触ってたらね。――そうそう、あなたたちに話したかったことがあるの」
と、そこから、いつもの朗らかな調子で――けれどどこか誇らしげに――リネットが家の話を始めた。
「この家の機と染め桶、梁に吊ってある札――ぜんぶ祖母と母が残してくれたもの。私は三姉妹のうち、末っ子でね。上のふたりは早くに嫁いでいって、それぞれ別の土地で布を織ってる。私は最後までここに残って、家の織りを守る、と決めたの。誰かが残らなきゃ、家の呼吸が途切れる気がして」
エルドが横から「そこに俺が転がり込んだんだ」と冗談交じりに言うと、リネットは「転がり込んだは失礼よ」と小突いて笑いが起きた。
テラは素直に感心した。「家の呼吸……」
「そう。織り目って、人の時間に似てるのよ」リネットは吊るされた反物の端を指先で弾いた。「どこか一段が乱れても、次の段で取り返せる。でも、乱れに気づけなかったら、いつか裂ける。家も同じ。ときどき緩めて、湿りを吸わせて、また張る。だから、戻る場所は柔らかくないとね」
その言葉に、ペネロペが小さく頷いた。「わたし、いつか冒険に出たいけど、最後はここに戻ってくるつもり。どこに行ってもいいけど、戻ってこられる場所でありたいの」
リアムが腕を組んだ。「いいな、戻る場所。俺も作りたいかもしれない」
エルドが瓶詰の干し葡萄を出してきて、茶と一緒に卓へ置く。「君たちの“今”も十分に柔らかい。柔らかいうちに、よく喋って、よく食べて、よく寝るといい」
茶をすすりながら、話題は自然と育成場へ流れた。
「カリーナ、最初に会ったときと比べると、だいぶ慣れてきたよね」テラが切り出すと、ペネロペは笑みを深くして頷いた。
「うん。目が違う。前は刺すみたいだったのが、今は“測る目”になった」
リアムも「言い方が少し荒いのは相変わらずだけどな。そこが逆に安心する」と肩をすくめる。「今日も、育成場でカリーナに何か言われそうだ。帰りに寄る?」
「寄ろう」テラが立ち上がる。「ペネロペ、片付け手伝うよ」
「大丈夫。それは家族の仕事。来てくれたなら、それで十分。――帰り、暗くなる前に気をつけて」
「うん。夜の森は、最近風の音が重い気がする」
エルドがその言い方に眉を上げた。「重い? 耳がいいね。今朝も、東の細道に獣の足跡が増えていた。大きくはないが、数が多い。用心するに越したことはない」
スティッチを後にし、育成場へ向かう、リネットの「またおいで」が背中にあたたかく当たった。スティッチ家の戸が閉まる音は、布の端をそっと切るみたいに優しかった。
育成場は、乾いた土の匂い。風が砂をかすめ、流木の影が短く揺れる。
テラとリアムが着いたとき、カリーナはすでに木剣を握っていた。肩のラインは以前より落ち着いていて、視線の揺れは少ない。髪をざっくりと結び、額の汗を手の甲で雑に拭う。荒い言葉が口から出ることはあるけれど、今は口を結んで、ただ相手と自分の距離を測っている。
「来たか」とオリヴァーが声をかける。
彼はいつものように無駄のない立ち姿で、育成場の端に立っていた。テラにとっては“当たり前にそこにいる人”。稽古の合間に指で刃筋を描いて見せるあの癖も、一年前から何ひとつ変わっていないようで、でも、声のかけ方だけ少し柔らかくなっている気がする。
「一往復、見てて」カリーナが言う。口調は粗いが、頼むときの目はまっすぐだ。
「見てる」オリヴァーは頷いて、砂の上に影を落とす。
カリーナの打ち込み。
踏み込みは直線。土を割る音が小さくなった。打ちの終わりで生まれる“戻りの隙”を、彼女は意識して潰そうとしている。木剣を引くのではなく、引きながら肩を落とし、次の一歩の準備へ“流す”。
荒い呼吸はまだ消えない。だけど、その荒さを呼吸のリズムへ編み込むのが少し上手くなった。
カリーナ視点――
(見られてる、と思うと余計に力が入る。けど、力を抜く“場所”を決めておけば、前ほど乱れない。――オリヴァーは“いい”も“悪い”も短い。短いから、刺さる。
……テラとオリヴァーのやり取りは相変わらず滑らかだ。目線と、吐く呼吸と、足の角度で、二人が何を言っているのかがわかる。いいな、って思う。羨ましい、って言葉は、喉の奥で砂になるけど)
オリヴァーが短く言う。「先の“間”、隠せ。外からは見えなくても、自分には見えてる」
「わかってる」とカリーナ。言葉と一緒に、肩の力がほんの少し抜けた。
もう一度。踏む、一撃、肩落とし、戻りを流す。
木剣が空を切る音が、先ほどより細くなった。隙間の縁が丸くなり、次の一撃が入りやすい蛇口のように整う。
「よし」オリヴァーの“よし”は短い。けれど、短い中に全部が入っている。
カリーナが目だけでうなずいた。その目に、あの刺すような硬さはもうない。ただ、前を見ている目。
「次、テラ」
呼ばれた瞬間、テラの背筋の中で何かが静かに伸びた。木剣を持ち替える。足幅、視線、呼吸。
――火は、まっすぐに。
最初の一撃は、火の剣士の“らしさ”を残す。強い踏み込み、相手の中心を割る線。土が軽く跳ね、砂が薄く壊れる。
――隙は、水で包む。
打ち終わり、その一瞬に生まれる“戻りの隙”を、テラはそのまま流れに変える。腕を引くのではなく、肩と肘を半円で回し、刃筋を斜めへ逃がす。足は後ろではなく、斜前へ。呼吸を止めず、吐く。
木剣の軌道は、直線から曲線へ、そして再び直線へ戻る。火が風に形を与えられるみたいに、強さが流れに支えられていく。
「今の“戻り”、遅い」オリヴァーが指先で空に刃を描く。「火の力みが残る。力みを吐け。吐いた分だけ、水が入る」
テラは「はい」と答えて、同じ動きをもういちど。
肩の内側に溜めていた熱を息で捨てる。足の指で土を掴む。刃筋は淀みなく前へ。
さっきよりも、刃の“終わり”が曖昧になった。曖昧さは、弱さじゃない。追撃の余地。次の手の余白。
オリヴァーの“よし”がもう一度、短く落ちる。
リアムが脇で、口笛を小さく鳴らし。「お前、そのへんの“間”、前は全部“力”で潰してたよな」
「まだ、潰したくなる。けど、潰すと息が続かない」テラは自嘲気味に笑って、掌の汗を裾で拭った。
「カリーナ」オリヴァーが視線を移す。「さっきの“間”を、あえて見せてみろ」
「見せる?」カリーナが眉をしかめる。
「全部隠すことしか知らないと、隠せなくなったとき壊れる。見せた上で繋ぐことを覚えろ」
言われたとおりに、カリーナは一拍、わざと置いた。刃が止まる――かに見えた瞬間、足が半歩、肩が半寸。次の切っ先がもう出ている。
“隙”が罠になった。見せたのに、入れられない隙。
「……こうか?」
「そう。今のは“嘘じゃない見せ”。いい」
テラは横でそれを見ながら、胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。
(まだ行ける。火を消さないまま、水に溶かす。できる)
稽古は、それからも小さな修正と短い「よし」で進み、夕暮れが地面の上に長い影を落とす頃に、ようやく区切りがついた。
夕飯は育成場の隅、藁座を囲んで。塩気のある干し肉と雑穀の粥。
ペネロペが持たせてくれた胡桃パンを千切ると、くるみの香ばしい油が指に移った。
「なぁ、ペネロペの家、やっぱりすげぇよな」リアムがパンをかじりながら言う。「あの匂い、忘れられない」
「糸の匂いは、腹も落ち着く」テラが笑う。「――そういえば、最初に行ったときのペネロペ、杼が飛ぶ音で目をつぶってた」
「言うな」背後から声。見れば、いつの間にかペネロペが戸口に立っていた。届け物のついでに顔を出したらしい。
「お母さんが“あんたも一緒に食べておいで”って。て言うか、聞こえてたから」
「おかあ……リネットさん、いつもありがたいな」テラが頭を下げる。
「こちらこそ。うちの話、ちゃんと聞いてくれて嬉しかったって」ペネロペは照れくさそうに微笑んで、胡桃パンをもうひとつ出した。「追加。甘さ半分」
カリーナはパンを受け取りながら、ぼそっと言った。「ペネロペ、笑うの上手くなったな」
「糸が教えてくれるから」ペネロペはさらりと返す。「笑うと、手の汗が変わるんだって」
「はぁ? なにそれ意味わかんない」カリーナが鼻で笑う。けれど目は楽しそうだった。
オリヴァーはそんな彼らのやり取りを横目に、黙って木剣を拭いている。油がほどよく染み込んだ布で、柄の汗と土を落とし、刃筋を指でなぞる。
ふと顔を上げ、テラを見る。「明日の午前は基礎。午後は自由。森の縁に行くなら、戻りの刻を決めろ」
「ついて行ってもいいのか?」
「ついてきてもいい。暗くなる前には帰るぞ」
短い言葉に、静かな信頼がぶら下がっている。テラは短く「はい」と答えた。
(明日はオリヴァーが東の森へ、獣退治に行くというので、見せて欲しいと頼んだ)
ペネロペがふいに空の匂いを嗅いだ。「風、変わった」
確かに、育成場に吹き抜ける風の肌触りが、さっきまでと少し違う。湿りが重く、音が低い。
「森の方から、獣の匂いがする」テラが独り言のように言った。
リアムが耳をすます。「俺は鼻が鈍いからわからんが、虫が黙ったな」
オリヴァーは立ち上がり、戸口の閂を確かめる。「みんな、今日はここに泊まれ。嫌な予感がする。俺が見張ってる間に休むことだ」
オリヴァーはそれだけ言い、夜の準備を始めた。
ペネロペが怯える体を震わせた。リアムは欠伸をこらえながら藁座に寝転ぶ。カリーナは壁を背にして座り、剣を膝に横たえる。テラは道具を片付ける手を止めて、外の闇を一度だけ見た。
見ても見えない。見えないから、耳と鼻に頼る。草の先を誰かが撫でたみたいな音。土を三歩だけ踏んで止まる足音。遠くで犬が一声だけ吠え、すぐに口を閉じた。
(重い。やっぱり、風が重い)
藁の匂いに混じって、湿った土の匂いが濃くなる。
テラは横になり、柄に指を触れた。柄は冷えていて、安心できた。呼吸を数え、数を忘れ、まぶたの裏側で刃が揺れる。
夜半。
育成場の木戸を薄くなぞるように、風が通る。
砂利の上に、柔らかく、でも多すぎる足音が降りた。ひとつ、ふたつ、みっつ――数えるのをやめた。動きの軽い、小さな影が複数。獣か、あるいは獣に似た、何か。
テラは目を開けた。暗い。けれど、暗いことが怖くないのは、そこに“いる”から。まずは集中、呼吸を浅くして、上体を起こし、足音の方角へ耳を向ける。
育成場の梁が夜の光を飲み込み、床の藁がかすかに鳴る。ペネロペは胸の前で手を合わせて寝ていて、隣でリアムが寝返りを打ち、カリーナの膝の上の木剣がほんの少しだけ位置を変えた音。
オリヴァーがすでに起きている気配がある。気配といっても、気配が“ない”。気配を消すのではなく、初めからそこにないみたいに、空気に埋もれている。
「テラ」低い声。オリヴァーだ。
「はい」テラも囁く。「来てる」
「外に出るな。耳と鼻を使え。目は、最後でいい」
木戸の向こうで、何かが嗅ぐ音。
鼻を鳴らす短い呼吸。
地面を掘るような、でも掘らないような、踵のない足の動き。
闇は、こちらを試している。
テラは呼吸を整え、火の熱を小さく掌に集め、水の流れを肩に落とす――いつでも立てるように、立たない準備。
(織りと同じ。張りっぱなしは、駄目だ。緩めて、息をさせて、張り直す)
藁座のあいだに、オリヴァーは各自を叩き起こした。ペネロペは目を開け、リアムが目を擦り、カリーナが木剣を強く握る。
オリヴァーは木戸に背を向けず、光を背負わず、ただそこにいる。
外の足音が、一度だけ止まった。
夜の鳥が低く鳴き、風が草の先を撫でる。
そして――風が、真下へ落ちた。
「来る」テラが呟く。
夜の濃さが、育成場の縁でひとつ分厚くなった。
その厚みが、ゆっくりと扉へ寄ってくる。
獣の匂いと、湿った土の匂いと、知らない匂い。
(“戻る場所”は、柔らかく――でも、折れない)
テラは柄を握り、息を吐いた。
火の熱は小さく、水の流れは長く。
夜は、こちらの準備を待ってはくれない。
でも、準備をした者の背を押すことはある。
木戸の向こうで、爪が木を軽く引っ掻いた。
――夜の編み目が、きしり、と鳴った。




