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幕間1「カリーナ:東へ」

夜がまだ剥がれきらない。

戸口の閂が、そっと外れる。吐く息は白くならないのに、肺の奥で針の冷たさがちくりと刺さった。


裏庭に霜の名残が薄く光り、干し縄が硬く鳴る。戸口に立った村長の妻が、胡桃パンを布に包んで差し出した。二枚。

「温いあいだに食べな」

カリーナは短く頷く。言葉はいらない。


奥から村長が出てきた。肩掛けを直し、目だけで行き先を問う。

頷く。背中で交差する革ベルトの締め具を指で確かめ、背負い鞘の位置を調整する。柄が右肩の少し上に来るように。肩甲骨に沿う鞘が、歩きの拍に合わせてわずかに揺れた。革袋の中身も確認する。干し肉、針と糸、砥石、水袋は満ちている。余計なものは置いてきた。重いのは、迷いだけだ。


村長が、少し間を置いてから言う。

「理由を、聞いてもいいか」


「――親を、探す」

声は低く、はっきりしていた。


村長の眉がわずかに動く。

「襲撃の夜を見て、そう思ったのだな」


頷く。

「たくさん、死んだ。みんな、誰かの“誰か”だった。……わたしの“誰か”は、どこにいるのか、知りたい」


静けさが戸口に落ちる。村長は視線を東へ向け、短く息を吐いた。

「おまえを見つけたのは、ここヤーン大陸から遥か東、海を越え、カルメン大陸のさらに東――バルキー山脈の近くだ。若いころに一度だけ東へ出た。その時だ」


「……東の、もっと東」カリーナは小さく繰り返す。


村長は頷いた。

「名や血がすべてじゃないが、根を知ると風に強くなる。だが、名を捨てるな。『カリーナ・ヴァルクス』はここで育った名だ。帰る手を残せ」


「……帰る」


村長の妻が胡桃パンの包みをもう一度押しつける。

「食べないで意地を張るなよ。腹が減ると、力が出ないわ」


「うん」


門が開く。土の匂いがひやりと広がる。

振り返らない。東へ。


小道の端で、夜露に濡れた草が脛に触れた。川はまだ低く鳴り、葦が擦れる音が遠い。崩れかけの石祠の前に、誰かが野花を一輪置いている。人の気配は消えない――それでも背に乗るものは、静かだった。


二股。丘道と川沿いの細道。轍は丘へ傾いているが、川のほうが音が読める。浅瀬も刻みやすい。

カリーナは迷わず川沿いを選び、歩幅を変えずに進む。足裏で土の締まりを測り、踏みの“拍”だけを体に刻む。


村はまだ眠っている。屋根から落ちた霜の粉が、朝の手前でかすかに白い。



丘の端で立ち止まる。

肩越しに手を伸ばし、柄の位置を軽く叩いて確かめる。背に置かれた長剣の重みが、背骨に真っすぐ落ちてくる。木剣ではない、本物の重み。


胡桃パンを一切れ口に入れる。甘い油が舌に広がり、頬の内側に力が戻る。残りは布に戻し、革袋の外側へ括りつけた。取り出しやすい位置――走りながらでも片手で食べられるように。


空がほんの少し明るくなった。

影が薄まり、道の輪郭がはっきりする。

カリーナは肩の力を一段落とす。揺れる呼吸を、一定に。歩に、拍を。視線は遠く、耳は近く。


村は背中で小さくなり、やがて角の向こうに沈む。

湖面の静けさが脳裏に浮かぶ。まだ、戻らない。


東へ。

足音が、眠りの残る大地に短く沈み、すぐにまた持ち上がる。



耳が異変を拾う。草の擦れ方が違う。獣の腰の高さで揺れる音が二つ、間を置いて一つ。灰狼。群れの端。牙は黄ばみ、目は濁っている。腹が落ち、飢え。


足は止めない。背から柄を抜く。抜刀の拍が歩みの拍に重なる。

吸って――吐く。

刃に火を灯す。点ではなく、面。

地面へ薄く長い火の線を走らせ、狼の進路を扇形に区切る。熱の幕に鼻先がすくみ、跳躍の角度が鈍る。


先頭の一頭が低く飛ぶ。

半身を切り、切っ先で火の線を“払って広げる”。

炎が低い垣となって左右に伸び、後続の足並みが崩れる。

開いた間へ、一拍だけ火を厚くのせて喉を断つ。焼き切るより、通路を塞ぐ方を優先。後ろの二頭は火の縁に触れて跳び直し、膝下が鈍る。


二頭目がためらいなく跳ぶ。

(ためらわないのは、読める)

足もとへ円を描くように火を置き、着地の場所を燃やして奪う。一歩遅れた体に、三頭目が飛びかかるが、避けて横から刃を差し込み、火を“薄く広く”塗る。倒れる音は軽い。炎は刃に戻し、草に残さない角度で払う。


匂いが濃くなる。焦げと脂。舌に鉄の味。

握り直す。柄の汗は握力で乾かす。


灰狼の死骸をまたいで進む。畦への延焼はない。風向き、角度、出力――全部、狙った通り。

(最短。広範囲。制圧)

心の中で三つの言葉を乾いた石のように転がす。迷いが触れれば棘になる。触れぬように強く握るための言葉。


森が深くなる。枝の鳴る音、小鳥の逃げる翅。湿った落ち葉の沈む音。その底に、時々、違う拍。

鼬。尾が太い。足は速い。二匹。

刃先を“下げ”、走り込む影の前に低い火のカーテンを垂らす。鼬は熱に目を細め、踏ん張って回避する。その横腹へ最短で一閃。もう一匹は火幕をくぐろうとして毛が縮み、半歩遅れる――そこへ、刃を返して浅く切り、火は周囲へ散らして退路を潰す。鳴かせない。動線を削ぎ、確実に喉元を断つ。


息を整える。歩は崩さない。

水袋を一口。舌を湿らせるだけ。飲み込むと喉が鳴り、胃が軽く痛む。

(水は無駄にしない。)


やがて森がほどけ、なだらかな丘陵。風がよく通る。歩幅を半刻分だけ伸ばし、身体の“拍”を上げる。

遠くの街道に商隊。荷馬車二台、護衛四。鈍い鎖の音が風に乗る。

列から十分に距離を取り、斜めに交差。護衛の視線が背の鞘に触れて逸れた。互いに黙礼、それで十分。


丘を三つ越えたところで、路肩の草むらが低く唸る。

穴熊。前足が太く、爪が鋭い。鼻先は土で汚れ、目は小さい。

刃を振り上げない。

鼻面の先、円弧で火を撒いて視界を奪い、熊の顔が泳いだ一瞬に喉へ縦の直線。

骨に届く手前で火を“面”に切り替え、首周りをまとめて焼く。



歩を再開する。

太陽は雲の向こうで位置を変え、影が短くなる。

昼近い。

路傍の石に腰を下ろし、水を一口。胡桃パンを少し。口で崩し、唾で流す。

手の甲で口を拭い、立ち上がる。足裏の拍に刃の重みを戻す。


午後は平野。荒地が増える。獣の足跡は南へ濃く、東へ薄い。

群れに出会う。

灰狼六、鼬二。

逃げない。

先頭の進路に扇形の熱を敷く。狼の目が細くなり、跳びが浅くなる。

刃の縁から火を“刷く”ように広げ、包囲を切り崩す通路を自分側に作る。

一頭が通路へ吸い寄せられる。そこだけ火を厚くし、喉を短く落とす。

二頭目は火の縁で足を取られ、鼬とぶつかる――その瞬間、地に沿って低い火の帯を走らせ、群れの脚をまとめて鈍らせる。

跳ばないなら、こちらが進む。

踏んで、切って、散らす。

あとには黒い輪郭と薄い灰。延焼はない。熱は刃へ戻す。


夕方が近づく。風が冷える。小川で両手と頬を濡らす。背の鞘の革が水を弾く。

(今日は、ここまで)


焚き火はしない。火は剣にだけ置く。

低木の陰に身を縮め、毛布を肩に。片膝を立て、柄に指先をかけたまま目を閉じる。

眠りは浅く、短い。

夜半、草の擦れで目が開く。影が寄れば、低い火の輪で“入れない場所”を作る。寄らなければ目を閉じる。

やがて空がまた、わずかに明るむ。


二日目。

拍は同じ。

炎は昨日より“広く薄く”。面で奪い、点で終わらせる。


三日目。

森が減り、土が粉っぽい。風の味が乾く。

遠くに褐色の帯――砂の始まり。


背の剣の重みを確かめる。

(東へ。もっと東)

火は大きく、強く。

狩るのではなく、支配する。バルキー山脈は、まだ先だ。



丘陵が途切れ、地面の色が少しずつ褐に寄っていく。草の丈は低く、風は乾く。遠目に褐色の帯――砂漠の縁。

街道はそこへ向けて、細い糸みたいに延びていた。


半日歩いて、小さな集落に入る。井戸が一つ、風車が一つ、日干し煉瓦の家が十と少し。旅人の影がちらほら。水の匂いが、砂の匂いより少しだけ勝つ。


井戸に列。順番を待つ。

前の女が振り返って、背の剣を見て目を細めた。「砂の方へ?」

頷くだけ。

「日暮れを待ちな。昼の砂は肺を殺すよ。夜は獣が寄るけど、まだましだ」

「……ありがとう」短く返す。女は肩をすくめて列に戻った。


水嚢を二つ追加、塩と干し肉、乾いた薄布を幾枚か露店から購入。顔と口を覆うため。

露店の男が、品を包みながらぼそり。「ネフルは気まぐれだ。丘の形も、星の見え方も、夜ごと違う。足跡は朝には消える。……まさか、一人で渡る気か?」

頷く。

「近くの街まで五日はかかる。連れと焚き火を代わるのが普通だが……」

言葉はそこで切れ、男はため息と一緒に手拭を渡した。「布は二枚重ねろ。耳まで覆え」


礼を言い、店を離れる。


布を頭に巻き、耳を覆い、首の後ろで固く結ぶ。風の通り道が変わり、音が一段低くなる。


集落の周囲は、荷の匂いを嗅ぎつけた小さな影がうろつく。

牙蜥きばとかげ。甲殻が黒く、腹が薄い。四、五。

子どもが井戸端を走る。蜥蜴がそちらへ舌を伸ばす。



歩は崩さない。背から柄を抜く。

地面に、円を描くように低い火を置く。炎は腰より低く、薄く広く。

蜥蜴の視線が熱へ吸い寄せられる。外から中へ、緩い渦。

井戸側へ通路を開け、子どもに顎で示す。走り抜ける小さな足音。

渦の中心に近づいた一匹の背へ、刃の腹で火を“刷く”。動きが鈍る。

残りは円の縁で足を止め、やがて散った。炎は刃へ戻す。土に焦げ跡は浅い。


見ていた男が舌打ち混じりに笑う。「火の幕、うまいこと張るな」

「延焼しない角度と厚みだけ」

「砂漠に入っても、その調子を忘れるなよ。」

(忘れない)


井戸の陰で胡桃パンを少しちぎり、塩を舐め、水を口に含む。飲み過ぎない。胃の重さは雪だるまみたいに増えるから。

背の鞘の革紐を締め直し、肩の当たりを一回だけ確かめる。

(夜から入る)


日が落ち始めるまで、集落の外周を歩く。足の拍を保ちながら、近づく影を“広く薄く”退ける。

小さな獣は火の輪で、群れは扇形の熱で、跳ぶものは着地の場所を奪う。近寄られない距離を保つ。延々と繰り返す。身体の奥の拍が、砂に合わせて乾いていくのがわかる。


陽が橙に変わる頃、商隊が焚き火を囲んだ。誰かの三味線に似た弦の音。声が混ざる。

近寄らない。

火は見ない。

背を壁にして、ひとりで座る。毛布は半分。顔布は巻いたまま。



耳の遠くで、隊商の年寄りの声。「東へ行く娘がいる。あれは誰だ」「知らん。けど、目が砂に慣れてる」

砂に慣れてなどいない。慣れさせるだけ。

目を閉じる。掌を背の柄に乗せる。呼吸は二拍。心は三拍。

星が出る前に、立つ。


集落の外へ出ると、風の音が変わる。草の擦れは減り、砂のさざめきが増える。

砂の縁――ネフル砂漠の入口。

足裏の拍をわずかに落とし、沈みを読む。

暗さに慣れる前に、布の結び目を確かめ直す。


砂へ一歩。

沈む。戻す。

歩幅を小さく、胸の上下を浅く。

月は細い。星は多い。

砂丘のかどを避け、谷を選ぶ。風の筋を読む。

遠く、低く、うなる音。砂の下の生き物。まだ、遠い。


背の剣の重みは、頼りになる。

(東へ。もっと東へ)

足は止まらない。拍は崩さない。

砂は、始まったばかりだ。


夜の砂は、踏むたび低く鳴いた。

星を三つ結んで東を取り、丘の稜を避け、谷筋だけ拾う。頬の布が風向きを教える。足は沈ませず、呼吸は浅く長く。


最初の群れは砂狼。二十。音もなく包む輪の足取り。(近づけない)


背の長剣を抜くと同時に、地表すれすれへ扇形に熱を走らせる――膝丈、薄く、広く。

火線が砂の皮をはぎ、前列の脚が一斉にすべる。崩れた鼻面へ半歩、水平の押し流し。刃が喉を割り、砂に赤が広がる。

背後から二匹。振り返らず、背に半円の“幕”。鼻先が触れて焼け落ちる。二体とも痙攣し、動かなくなる。

回り込んだ四体は逃げに転じる。追わない。残りは刃の間合いに入った順から、喉・目・腱。倒れ、沈み、砂がふたをする。

(広く、薄く。数は面で取る)

――進む。


砂の下が震え、砂蠍。大。尾の節が多い。(潜るなら、出させる)

三歩、拍を乱して誘う。砂が寄る。

輪――直径二丈――を焼き起こす。空気が歪んだ瞬間、蠍が腹を見せて飛び出す。

円縁を一段高く。振り下ろされた毒尾が自分の“幕”に触れて焦げ、折れる。甲殻が柔らかんだ腹へ刃を差し入れ、心臓を裂く。脚がぱらりと落ち、沈黙。

(焼くのは敵だけ。砂は残す)


さらに東。砂蛇。長、見えない。(火で道を“映す”)

地表に細い熱の線。蠢く輪郭が浮いた瞬間、刷毛で塗るように横へ広く熱を払う。

背がひび割れ、のたうつ頭を刃先で撫で、動脈を断つ。身がほどけ、砂に溶けた。


――一夜目の終い。

一度も座らず進んだせいで、肩が重い。喉の奥が塩辛い。

(弱めるな。砂は弱さを覚える)

それでも、指の震えを隠すために、火の“幕”がひと寸高くなる。熱が余計に砂を黒くし、足跡が目立つ。


 昼 


陽が上がる。空は白に近い青。影が短い。

岩棚の陰を見つけ、背中の剣を壁に立てかける。布を解き、水を口の中で転がし、半分だけ飲む。残り半分は布に含ませて首筋へ。

掌の水ぶくれが潰れ、柄に貼り付く。革手袋の内側が塩でざらつく。

短い仮眠――目を閉じても眠れない。砂の奥で何かが這う音が、耳の骨に触る。

(止まれば、負ける)

立ち上がる。背の剣の重みがいつもより増して感じる。歩く。

陽炎の向こうで小さな群れが揉める。近づかない。熱は使わない。体温を保存する。

午後、風がいくぶん出て、熱の刃をほんの少し切りやすくする。

空気の匂いが変わる。(乾きすぎだ)

舌の裏に砂が溜まる。足底に鈍い痛み。歩幅が少し広がる――無駄だ。すぐ戻す。

西に傾いた陽を背に入れ、影を前に伸ばして進む。影の輪郭が乱れないよう、呼吸で合わせる。


二日目の夜


風が止む。星が出る。冷える前に、走る。

砂の鼓動が増える。近い。小刻み――砂狼の二群目。三十。背中に冷たい汗。

広い“幕”――高すぎた。火柱が一瞬立ち、砂がガラス質に光る。狼は焼けた面を避け、側面から潜ってくる。

「……ッ」半拍遅れ。二体の牙が布を裂き、皮膚を掠める。

幕を落とし、足元だけに火を走らせる。弾かれた鼻面へ逆袈裟。

頸の後ろの骨を断ち、頭が砂に転がる。血が熱で立ちのぼる。

(抑えろ、抑えろ……)

動きの“無駄”が自分で見える。間合いに入らない一歩、不要な肩の力み。

それでも前列は倒した。後列が逸れる前に、横一文字の熱で群れの腹を薙ぐ。八体が同時に崩れ、砂が重く沈む。

残りは散る。追わない。足に力をため直す。


砂の下が“鳴く”。砂蠍が二。毒尾が長い。

今度は誘わず、先に蓋をする。

自分を中心に半径一丈、薄い円盤状の熱。砂が瞬時に締まり、蠍が出られずにうろつく。

一点、刃で穿つ。顔を出した瞬間の関節へ突き。一本は口から血砂を吐いて沈黙。

もう一本は輪の外から尾だけ出してきた。読めていた。

尾の影に合わせて、三分の一拍先に薄い壁。尾が焦げ、節で折れる。転げ出た胴に踏み込み、心臓を裂く。

(まだ抑えられる)


息が速い。布の内側が湿り、柄が滑る。握り直す回数が増える。

出力のつまみが、焦りでじりじり上がる。

熱の“面”が一寸厚い。その一寸で、砂が余計に焼ける。体力の減りも速い。


――地面が、一度だけ深く、ゆっくり沈んだ。

骨の中まで震える低い揺れ。

砂の鼓動が、一拍、跳ね上がる。すぐ下ではない。遠からず、重い。

(大きい)

布を締め直し、重心を落とす。火はまだ張らない。

どこで上がる? 前じゃない。斜め――


砂が波打った。

黒い丘の稜が三寸、すうっと沈む。

夜の底で、何かが体勢を変えた。

焦りが、出力のつまみをまた回す。

掌に汗。指が強張る。肩が上がる。無駄だ。落とせ。落とせ――


(来る)


初手を迷わない。

地平線まで届くつもりで、扇を――厚く、広く、速く。

火線が闇に走り、砂が爆ぜる。

赤が、夜を切り裂いた。


砂海そのものが“盛り上がる”気配。

カリーナはさらに一歩、前へ出た。

呼吸を細く切り、長剣握りしめる。火を大きく張ろうとした指に、疲労の重さが絡みつく。


“何か“が地面から現れるのをじっと待つ







突然空気が変わった。風が止み、音が消え、地面の気配も止まった。

砂粒そのものが細かく震える。時間が停止したかのようだ。砂の稜線に、外套の影が立つ。フードを被り顔がよく見えない、背には光を飲み込む漆黒の棒。ただ、その存在だけで空気が張り詰める。



しばしの沈黙の後、突如音が戻った。砂が隆起し、裂け、巨なる影が口を開いた。輪歯が幾重にも蠢くワームが、砂と闇をまき込みながら躍り出る。カリーナは体を切って踏み替え、火を広げようとするが、出力が思うほどに立たない。間が悪い。迫る口縁が視界を呑む。


影の男が、カリーナの前に現れた。

漆黒の棒を静かに構え、夜の一点に先端を「置いた」。

ワームが棒の先端に触れた..........

次の瞬間、ワームの頭部が、世界から切り取られたみたいに消える。

遅れて――


「ドドゴォォォォン!」


置き去りにされた轟音が、空を叩き、胸郭を内側から揺さぶった。砂が高く舞う。頭が、「なかった」ことにされたのだ。切断でも粉砕でもない。真円の欠損が瞬間に穿たれ、輪歯も肉も骨も、そこだけ空白に置き換わる。


男は棒を背に戻し、こちらを見た。そこで、張っていた心の糸が切れる。視界の端が黒く欠け、膝の力が抜ける。倒れ込んだ頬に、冷たい砂の感触。


ふわりと身体が持ち上がる。肩と膝裏を支える確かな腕。

次の瞬間、男は地を蹴った。とんでもない強さで。砂が後方に巻き上がり、影は東の闇へ吸い込まれる。足取りは軽く、しかし速さは常識から逸している。


カリーナの意識は、その加速の中で静かにほどけ、完全な闇へ沈んだ。





目が覚めた。

固い藁じゃない。柔らかな寝台。喉の奥が砂で擦れたみたいに痛い。指先に力を入れると、腕が自分のものじゃないみたいに重かった。


白い漆喰の天井、壁。鼻に薄く薬草の匂い。脇の椅子に、自分の長剣が立てかけてある。背負っていた革鞘は外され、紐はきちんと結び直されていた。


きし、と扉が開く。

黒い外套の男が入ってきて、フードを外した。そこで初めて顔がよく見えた。目は深い赤。頬には竜の鱗のような模様が薄く走っている。竜人族(ドラゴニュート)か。髪は煤のように黒く短く刈り込まれ、余計な影を作らない。昨日、砂の上で見た“黒い棒”は手にない。代わりに――男の右肩の上あたり、空中に黒い球が、ゆっくりと、音もなく浮いていた。光を飲むみたいな黒。部屋の気配から、ほんのわずかに音が削れる。


窓の外には、白土の壁と見張り塔。往来のざわめき、水売りの呼び声、関所の木柵を出入りする荷車。塔の上で旗が風に鳴った(柄は見覚えがない。どこかの王国の旗だろうか)。


「助けてくれたの?」声が掠れる。自分でも驚くほど小さい声だった。


男は短く頷いた。「一人で砂漠を渡るつもりだったのか?」


「ええ」


「何故だ? 死ぬつもりだったのか?」


「まさか」カリーナは上体を起こし、息を整える。「両親を探しに、バルキー山脈へ向かってた」


男の視線が動く。「名はなんという?」


「カリーナ・ヴァルクス。……ここはどこ?」


「関所街ネフラだ」


「……あれから何日、経ったの?」


「何日?」男は首だけわずかに傾ける。「五、六時間くらいか?」


「そんなはずないわ」カリーナは目を瞬かせる。

「街まであと三日はかかる距離だった」


「急いだからな」男は淡々と言う。「お前は魔力が枯渇する寸前だった。枯渇すれば、待つのは死だけだ」


「……そうだったのね。ありがとう」


男は黙ったまま近づき、黒い球の影の縁に立って、じっと顔を見る。

「顔をよく見せろ」


黒球がふわりと位置を変え、光がわずかに移る。


「名はなんと言った?」


「カリーナ・ヴァルクス。……さっきも言ったよ?」


「ヴァルクスというのは、このあたりではよくいるのか?」


「名は村の村長に名付けられた。私はバルキー山脈で拾われた」


男はほんの少しだけ目を細め、考える素振りを見せた。「バルキー山脈に行くと言ったな。行き方はわかるか?」


「行き方は聞いてない。とにかく東へ向かっていたところ」


「バルキー山脈には昔、何度も行っていた」男は視線を窓にやる。「同行してもいいか?」


「行き方を教えてくれるなら。……でも、なんで?」


「用事ができた」


「あなたの名は?」


男は一拍置いて、わずかに口の端を上げた。「そうだな、サンドとでも呼べ」


「わかった」――絶対に偽名だし、サンドって……砂ってこと? 胸の内だけで呟く。


窓の外で、関所の角笛が短く鳴った。通行の列が折れ曲がる。砂埃をかぶったキャラバン、露店の赤い布、吊るされた水袋。街が息をしている。


「ここを出る」サンドが言う。「立てるか」


カリーナは寝台から足を下ろす。ふらつく。サンドが手を出す前に、壁を掴んで踏ん張った。黒い球が、肩の上で静かに一度、脈打つみたいに揺れる。


「水」サンドが短く告げ、卓上の皮袋を顎で示す。口をつけると、甘い塩の味が喉を滑った。体の輪郭が少し戻る。


「……行こう」カリーナは長剣を背に背負い、革紐をきゅっと締め直す。肩に重みが帰ってくる。いつもの重さ、いつもの熱。


サンドは扉に手をかける。「外で話す。ここネフラはネフル王国の領土だ。関所街だという自覚を、少し持って歩け」


「了解」


扉が開く。昼の光と、外気のざらつき。石段を降りると、広場にはネフル王国の衛兵が槍を立て、交代の合図を交わしている。槍の石突が石畳を叩く乾いた音。

「西が昨日の夜から、ものすごい砂嵐だってよ」

「今まで見たこともない規模らしい。隊商が何本も足止めだ」


西――昨日、私たちが来た方角だ。砂嵐なんて……なかった。胸の奥で小さく引っかかる。横を見ると、サンドが気まずそうにフードを被り直し、視線を前に戻した。


外は白と砂の匂い。



関所街ネフラは、二重の土壁に抱かれた砂の楔だった。中央の給水塔から石樋が四方へ走り、根元では水売りが革袋を吊るす。干し椰棗や塩肉の屋台、砂避けの砂布を顔に巻いた商人たち、乾いた染め布が風で鳴る音。砂の匂いに、鉄と革の匂いが混じる。


サンドはフードを深くかぶり、肩口の黒い球を連れて歩く。球の周囲では空気がひりつくように震え、通りの人々は理由のわからぬ圧に無意識に道を空けた。


「まず水だ」

給水塔の根元でサンドが二人分の革袋を受け取り、口を湿らせる。「砂は、喉が渇いてから飲むと遅い。歩く前に満たしておく」


掲示板の板札には黒墨の太字。

《西門閉鎖 昨夜より砂嵐強》

《巡察交代 日没》

《炎天時の移動禁止》

門楼の上ではネフル王国の衛兵が交代を告げ、砂色の外套の肩章が日光を白く返す。槍の石突きが床石をコツと叩き、ひとりが仲間に漏らした。


「西は昨夜から地鳴りみたいな砂の唸りだ。見たこともない壁だぞ」


鍛冶場からは鉄槌の乾いた響き。露台には砂漠行きの砂靴や砂避けの頭巾、色ガラスの砂眼鏡がぶら下がっている。カリーナは頭巾を一枚買い、頬と口元を覆った。長剣は背に背負う。足元の革は砂で白く粉を吹いていた。


「東門へ出る。陽炎が強くなる前に影を拾い距離を稼ぐ」

サンドの声は淡々としているが、道順を告げる調子に確かさがあった。


「“影を拾う”ってどういうこと?」

「砂丘には風下の影帯ができる。稜線から二、三歩下の斜面、色が一段濃いところだ。そこは風が返すから体温が上がりにくい。砂も締まっていて、足が沈みにくい」

サンドは近くの砂盛りを指先で示し、続ける。

「進むときは影帯の縁を斜めに切る。頂を越すなら真正面ではなく斜行して登れ。足跡は稜線で消されるから、迷う場合は間隔を詰める。風紋の筋は風向きを教える。筋に対してわずかに斜めに足を置け。膝と足首で衝撃を逃がすんだ」


ひとつずつが具体的な手順だ。長いこと旅をしていたことがわかる。カリーナは頷き、革袋の口を締め直す。


東門は開いていた。門影は涼しく、祈祷所の鐘がひとつ鳴る。女たちが水鉢に銀片を落とし、家族の無事を祈っていた。風が一度、街路を横切って埃を巻き上げる。黒い球がふっと脈を打ち、周囲の空気の緊張だけがわずかに強まる。


「行くぞ」

「うん」


白い城壁のざわめきが背でほどけ、前は砂と風の匂いだけ。陽が上がりきる前に、二人は影帯を拾いながら、音を立てずに砂の海へ踏み出した。


東の砂原に、低い土壁の残骸が蛇のように延びていた。昔の防砂帯だろう。壁の風下には黒ずんだ焚き跡、転がる壊れた水樽の輪。空気がきしむほど乾いて、陽炎が地面をゆがませる。


「止まれ」


砂の盛り上がりから、顔と口を砂布で覆った男がぞろぞろと降りてきた。十……二十……数えるのをやめる。弓、曲刀、槍。土壁の向こうからも足音。二人を円のように囲む。


「荷を置いてけ。水もだ」

「女は置いてけ。男は砂に埋まれ」


カリーナは背の長剣に指をかけ、足の幅をわずかに広げた。火が、胸の内側で即座に立ち上がる。(全員焼く。最短で)


その瞬間――空気が震えた。


右肩上の黒い球が、無音のまま形をほどき、サンドの掌へ黒い棒として落ちる。彼は一歩も動かない。肩と肘がわずかに沈み、黒棒の先端が斜め下を向いた。


「……下がっていろ」


声と同時に、世界の輪郭が一瞬だけ空白になった。


次の瞬間――人が消えた。取り囲んでいたはずの人が.....


立っていた場所に塗りつけるような血だけがべったり残る。土壁の表面に扇状の飛沫。砂面には半月の赤い線が並行に刻まれ、風にさらわれる前の瞬きほどの生温い霧が漂う。


音は、遅れてきた。


ドドォォォン――。


胸骨の内側を叩く、置き去りにされた轟音。砂がわずかに波打ち、土壁の欠片がぱらぱらと崩れる。円は壊れ、いたはずの男たちは形としてどこにもいない。残っているのは、壁と地面の大量の血、折れた矢、砂に半ば沈んだ曲刀だけ。


カリーナとサンドの衣には一滴も付いていない。風が、血と鉄の匂いだけを連れ去った。


(……なに、今の)


喉が乾く。火を解かないようにしながらも、両足の裏がきゅっと砂を掴んだ。思考が追いつかない。上級剣士のオリヴァーでも、こんな**“消え方”はしなかった。構えた瞬間には、もう終わっている**。


サンドは黒棒を持ち直し、砂の縁に軽く触れただけで、武器はふわりと空へ戻る。右肩の少し上、いつもの黒い球。表情は変わらない。


「……教えて」


口が先に動いた。自分でも驚くほど声はまっすぐだった。

「あなたの歩き方、戦い方。どうすれば、届くのか」


サンドはカリーナを見た。眼の赤が、砂光の反射で暗く深く見える。ほんの短い沈黙。


「ああ」


一言。淡い了承。


「歩きながらやる。砂は止まる者を嫌う」

彼は踵を返すと、散った影と血の円から滑るように出た。足跡が極端に浅い。砂の上の身体の運びが、音よりも薄い。


カリーナは遅れずに続いた。


しばらくすると砂の皮膚がざわつき、呼吸穴が点々と開く。小ワームの群れがまた浮き上がろうとしている。


「来る。小さい群れだ」

サンドが横目で告げ、半歩だけ後ろへ下がる。「任せた。」


カリーナは長剣を抜き、刃に細い炎を絡める。最初の一体――砂を破った喉節に逆袈裟、頸が灼けて割れ、黒い粉が散る。二体、三体――扇で広く焼き払い、殻を連鎖で崩す。だが穴は増え、炎の幕は広がるほどに戻しが遅れ、腰の浮きが出る。


「貸せ」


サンドが手を差し出す。カリーナは息をのみ、長剣を渡した。サンドは柄を握り、砂に沈まぬ足でふっと立ち位置を整える。右肩上の黒い球は黙って浮遊したまま、風も音も飲み込んでいる。


「まずは火だ。大きく、強く。隙は、その次でいい」


短い言葉のあと、サンドは一息吸う――途端に周囲の空気が集まり出すのがわかった。熱の芽が刃先に宿り、風が見えない鞴のように火へ息を吹き込む。炎は細く尖るのではなく、ふくらみ、息を得た獣の胸のように膨張していく。


「風は火の腹だ。押せ。抱えろ。広げろ」


低く囁きながら、彼は刃を水平にわずかに払った。

風が先に走り、砂面一帯に薄い膜を敷く――その上に、炎の幕が重なる。炎は風の背骨に支えられてたわまず、砂を舐めるように滑っていく。扇ではない。火の「潮」が押し寄せる感触。熱は前へ、前へ。横へは逃がさない。


群れの先頭が触れた瞬間、節と節の継ぎ目が一斉に白んで、崩れた。次列、三列――炎の潮に飲まれ、影は抵抗もできず黒い塵となって沈む。砂がガラスのように淡く光り、表面が薄く焼き締まる。後方で跳ね上がろうとした個体も、風の壁に押し戻され、燃える海に沈んだ。


サンドは一歩も動かない。ただ、風で火を抱え続ける。火は暴れない。だが力は衰えず、むしろ増していく。風が腹、炎が皮膚、刃が骨――三つが一体になったような熱の波が、半径広く砂原を洗った。ワームの気配が断たれ、穴という穴が黒い縁だけを残して沈黙する。


「見たか。風で火を“養う”。絞るのは、後でいい。いまは出力を知れ。広さを測れ。火は風で伸び、厚くなる」


彼が刃を下ろすと、炎は急にしぼむでも消えるでもなく、従順にほどけて消えた。焼けた砂がまだ微かに赤い。空気は熱いのに、乱れていない。風が熱を前へ運んだ痕跡だけが、遠くへ薄く伸びていく。


カリーナは息を詰めていたのに気づき、慌てて吸い直す。「……すごい。扇じゃない……押し流してる」


サンドは剣を返した。柄が温い。刀身は熱で淡く色づいているが、触れられないほどではない。


「火力はお前の持ち味だ。殺すつもりで大きくしていい。ただし、風で背骨を作れ。暴れさせるな。いまは“満たす”ことを覚えろ。隙を消す稽古は、その後だ」


「風……覚える」


「覚えろ。火は風で強くなる。届く。厚くなる。いまの広さで、半歩短く戻せるようになれば、砂でも包囲されにくい」


カリーナは頷き、同じように息を吸った。腹に火を落とし、刃先へ上げる。風はまだ使えない――だから、意識だけでも空気の通り路を作る。足を砂に取られぬよう浅く置き、刃を横に払う。

火は先ほどほど大きくはならない。それでも扇ではなく、帯。砂面に低い炎の帯を走らせ、浮かび上がった遅れの個体を飲み込む。残った穴が、音もなく閉じる。


「それでいい。」


サンドは短く言い、先を指した。「歩け。砂は止まる者を嫌う」


「うん」


二人は再び東へ。カリーナは歩調を乱さず、呼吸を刻み、炎の帯をときどき走らせて周囲を掃く。まだ風は扱えない。だが、火を「養う」という感覚が、さっきより手に近い。

(風で、火を大きく。まずは出力。隙は――その後)


砂は熱を飲み込み、遠くの地平が揺れていた。風は背から前へ、前からさらに前へ。サンドの右肩上で黒い球が静かな影を保ち、二人の歩みを一定に保たせるように浮かんでいた。


やがて砂嵐に遭遇した。西の空が、砂でできた黒い壁になっていた。

地鳴りにも似た唸りが遠くで続き、やがて風が角度を変える。砂柱がいくつも立ち、互いに絡み合って、砂の壁がこちらへ押し寄せてくる。

(これは........!!)

カリーナは鼻と口を腕で覆い、目を閉じる。

しかしいつまで経っても、砂を感じない。

目をあけ、サンドを見ると、

黒い棒を右手に持ち、地面と水平に構えている。

次の瞬間、**ビュン、ビュン――**と鋭い風切り音が走る。(サンドは何をしているのだろう)


「何を……してるの?」カリーナが声を張る。


「砂を薙ぎ払ってる」

短い答え。だが、その“薙ぎ”は目に見えない円の刀身のようで、風切り音は膜のように二人の周囲を包み、飛砂がその膜に触れるたび、刃で削がれたみたいに進路を変える。砂は確かに飛んでいるのに、二人の輪郭を避けるように流れていく。半径20m程度の円が、ぽっかりと保たれた。


「前を見ろ。歩幅、乱すな」


サンドはそう言うと、砂嵐の中を躊躇なく進んだ。カリーナも続く。外縁では砂が白い獣の毛皮みたいに逆立ち、横殴りに視界を削っていく。だが足元だけは沈まない。二人のつくる静域の床が薄く固まっているかのように安定し、風切り音は途切れない。


ときおり砂面が「ぼこり」と膨らむ。小ワームの呼吸穴だ。

「任せる」背中でそう告げると、サンドは視線を前に固定したまま一定の歩を崩さない。


カリーナは長剣を抜き、刃に火を落とす。呼吸一拍、足半歩。穴から噴き上がる顎を、刃を寝かせた受けで“滑らせ”、勢いを外へ逸らす。すかさず火を厚く纏わせ、逆袈裟――頸の後ろを断つ。焦げた節が黒く沈む。

横の穴が弾けた。カリーナは火の帯を低く走らせ、砂ごと焼き締め、浮き上がる前に封じ込める。


「戻し、半歩短い」

サンドの声が、風切り音の合間に落ちる。


「了解」


三つ同時に呼吸穴。帯の幅をわずかに広げ、腰の回転で送り続ける。炎だけが静かに太った。

一つ、二つ、三つ――いずれも浮上の瞬間を焼き切り、砂へ返す。炎は消さず、薄くたたむ。歩幅を崩さず、円の縁が乱れないように。


嵐はなお強さを増し、視界は灰に染まる。それでも風切り音は続く。二人の靴底がさらさらと鳴る音と、その鋭い音だけが、一定の拍を刻んだ。


前方、砂の襞が持ち上がり、中型の砂トカゲが斜めに切り込んでくる。顎は鋸、眼は砂に埋もれたまま。

カリーナは間合いを詰めず、逆に半歩引いて角度を作る。鋸の噛みつきを刃の角度で滑らせて空を切らせ、そのまま空いた首筋へ火を乗せた逆袈裟。頸骨が灼け、頭が音もなく外れる。胴は勢いで二歩流れ、砂に沈んだ。


(――どうやって、この円を保ってるの)

私と魔物の動きに合わせて外縁が撓むこともなく、円は常に同じ半径で“在り続ける”。踏み込みのわずかな乱れにも応じ、砂と風を同時に“薙ぎ払う”その手際。

(私や魔物には当たらないように避けながら、薙ぎ続ける? そんな芸当……)

サンドの横顔は微動だにせず、視線は遠くの一点に固定されたまま。黒い棒は水平のまま、ただ風切り音だけが彼の技を代弁していた。――異常、としか言いようがない精度だ。


「いまのは良い。帯の厚み、落とすな」


「うん」


右前に呼吸穴、左後ろに影。帯を二重に――ひとつは低く、ひとつは膝丈。二層の炎が同時に湧いた気配を撫で切る。砂は黒く縁取りされ、また無音で沈む。耳の外では嵐が咆哮しているのに、内側はその風切り音で塗りつぶされていた。


「――抜ける」

サンドが呟く。灰色の天幕が薄くなり、喉の砂が少し軽くなる。砂の壁が背後に移り、風が斜めから横へ――そして前へと変わる。音はなお続き、二人の前に細い通路を刻み続ける。


静域がふっと広がった。砂嵐の背を抜けたのだ。

サンドが黒い棒を下ろした瞬間、風切り音はふっと途切れ、代わりに遅れていた嵐の唸りが耳に戻ってくる。


カリーナは額の汗を拭い、小さく息を吐いた。(“薙いでいる”――言葉は簡単だけど、やっていることは桁外れだ)

サンドは東を指す。「陽が傾く。進むぞ」


二人はまた歩き出した。背後で砂嵐が遠ざかり、その唸りはようやく、ただの自然の音に戻っていく、風は嘘みたいに静まった。

陽は傾き、砂は夜の気配で冷えはじめる。二人は低い砂丘の陰に腰を下ろし、水袋を順に回した。喉を湿らせたカリーナは、ずっと胸に引っかかっていたものを指さす。


「……それ、何?」


サンドの手にある黒い棒。さっきまで風を裂き続けた、あれだ。


男は視線だけ落として答えた。「宝具ほうぐ、プロテウス」


「宝具……村長から聞いたことがある。特別な魔道具で、世界の理をねじ曲げるような――」


「すべてがそうではない」サンドは短く否定し、黒い棒を持ち上げる。

棒の輪郭がわずかに震え、粒子が逆流するみたいにほどけ、掌大の球へ。続けて楯のような扇、細身の槍、また棒へ――無音で連続して形を変え、元の姿に落ち着く。


「重さも、長さも、形状も。俺の意思で変える。意識しなければ、球に戻る」


カリーナは目を見張る。「……代わりに、代償は?」


「ある」サンドはあっさり言った。「魔力は込められない。だから持ち主の膂力に依存する」


「じゃあ――今度、わたしに貸して。一度でいい、触ってみたい」


「今はやめろ」即答だった。「旅が止まる」


それでも食い下がるように、カリーナは続ける。

「わたしも、使えるようになる?」


サンドは短い沈黙ののち、目だけで頷く。「不可能ではない。ただしこれは“選ぶ”。誰にでも従うわけじゃない。握るだけなら誰でもできるが、魔力が通せない分、膂力がない者が扱えば、普通の剣より弱くなることもある」


カリーナはうなずき、火の息をひとつ深く吸うみたいに胸をふくらませた。


「まずは火を高めろ。それでいい。風は次に覚えろ。火をもっと強く、広くする“息”だ」

サンドは淡々と置いてから、砂上の足跡を眺める。「隙の話は、そのあとでいい。まずは“燃やす”を極める」


「教えて」即答だった。


「教える。見せる。だが全部は渡さない。自分の手で取りに来い」

黒い棒の端で砂を一筆切り、短く告げる。「明日は港に行く。船に乗る。――カルメン大陸だ」


「……本当に?」カリーナの瞳に、小さな炎が映る。


「本当に」


夜の冷えが少しだけ和らいだ気がした。カリーナは外套を肩まで引き上げ、背の長剣を枕にして横になる。瞼を閉じると、ワームの熱と砂嵐の唸りが遠ざかり、代わりに、黒い棒が見せた形の残像が、ゆっくり胸の奥に沈んでいった。

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