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第9話 副団長ダリウス・モルデイン

まぶたを押し上げるような重さの先に、ぼんやりとした光が滲んでいた。

視界に広がるのは天井の木目。鼻を掠めるのは、焦げた匂いと、どこか湿った土の香り。


(……ここは……)


声を出そうとしたが、喉がひりついて音にならなかった。胸の奥が重く、呼吸を吸い込むたびに痛みが広がる。手を動かすと、右腕が痺れて自分のものではないように感じられた。


ゆっくりと身を起こすと視界に入ったのは、椅子に腰掛けて眠る母ミレイユの姿だった。

目元は赤く腫れ、頬は少しやつれている。それでも握る手には温もりと力があった。

(俺が眠っている間、ずっと……)

(俺は……生きてるのか……?)


瞬間、脳裏に焼き付いた映像が蘇る。

バルグの咆哮。大剣が迫る閃光。両親を切り裂かれたペネロペの絶叫。カイルの胸を貫く刃と、飛び散る鮮血。

息が詰まり、全身が震えた。胸が軋むように痛み、荒い息を吐く。


「……テラ?」

微かな声に振り返ると、母が目を覚まし、涙を溜めた瞳でこちらを見ていた。


「よかった……本当に……」

彼女が手を握る。温もりが指先に広がり、初めて現実に戻れた気がした。


「……俺は、どれくらい……」

かすれた声を絞り出すと、ミレイユは静かに答えた。

「四日間、眠っていたのよ」


四日。

その間、仲間はどうしていたのか。ペネロペは。リアムは。カリーナは。

心がざわめく。


少しずつ体を慣らすように布団から降り、足に力を込める。ふらつく体を支えると、庭先から木剣のぶつかる音が聞こえた。


――オリヴァーだ。


外に出ると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。村の一角には焼け跡が残り、黒ずんだ木材が無残に立ち尽くしている。風が吹くと煤の匂いが鼻を刺した。


庭の真ん中で、父は木剣を振っていた。長い影が土に伸び、動きに合わせて揺れる。

彼はこちらに気付くと、剣を止めて振り返った。


「……起きたか」

オリヴァーの声は低く、それでいてどこか安堵を含んでいた。


「まだ立つのもやっとだろうが……構えろ」

木剣を一本投げてよこす。


驚きと同時に、胸が高鳴った。痺れが残る右手で剣を掴み、震える足で立つ。


「来い」


一合。踏み込み、剣を振り下ろす。

だが腕に力が入らず、弾かれて体がよろめいた。肺が焼けるように痛む。


二合目。火の流れを思い描き、力を込める。だが、雷の痕跡が胸を締め付け、息が詰まった。

(くそっ……まだ、動かねぇ……!)


「無理をするな」オリヴァーが短く言う。だが、剣は止めない。

「戦場では、無理でもやらなきゃ死ぬ」


三合目。今度は水の流れを意識し、相手の刃を滑らせるように受け流した。わずかに手応えが走り、オリヴァーが目を細めた。


「……そうだ。流し、繋げる。お前は確かに生き延びた」


テラは荒い息を吐きながら剣を下ろした。胸は波打ち、視界が揺れる。


「父さん……俺は……」

言葉が喉で詰まる。だが、オリヴァーは先に口を開いた。


「よくやった。仲間を守るために、命を削った。」


静かな声が、心に深く響いた。胸が熱くなる。

だが、続く言葉は冷徹だった。


「……だが、あの力は二度と使うな。属性を3つも混ぜた奴など、俺は見たことがない。命をすり減らすだけだ」


テラは唇を噛み、俯いた。右手の痺れがまだ残っている。呼吸も浅い。

自分がどれほど無茶をしたのか、今さら思い知らされる。


「しばらくは雷を封じろ。火と水で戦えるように鍛えろ。それが生きる道だ」


オリヴァーは剣を納め、ふっと息を吐いた。その横顔は硬く、しかし優しさが滲んでいた。


「お前は、これからもっと強くなれる。……生き延びて、学べ。仲間のためにな」


テラは拳を握った。胸の奥に重いものが残りつつも、心は少しずつ前を向いていた。


――この命を、もう無駄にはしない。


庭にまだ冷たい朝の風が流れていた。

テラは稽古を終え、縁側に腰を下ろして息を整えていた。額から伝う汗を拭おうとしたとき、ふと門のあたりに人影が差すのが見えた。


立っていたのはリアムだった。

だが、彼はすぐには声をかけてこない。片手を腰に当て、もう片方の手で髪をかき上げる仕草をしながら、しばらく門の外に留まっていた。何かを言おうとして言葉が見つからない。そんな迷いがその肩の張りつめ方に滲んでいた。


「……リアム?」

テラが声をかけると、ようやくリアムは歩みを進めてきた。


以前と同じ隣家の少年の姿。しかし、どこか違って見える。衣服はきれいに洗われていたが、顔つきは疲れてやつれ、目の下には薄い隈があった。

「なんか、少し痩せた?」と軽口を叩こうとしたテラは、すぐに飲み込んだ。今はそんな空気じゃない。


リアムはテラの前に立つと、しばし黙って口を引き結んだ。拳を握り締め、震えるように言葉を探している。

やがて、絞り出すように声が漏れた。


「……助かったよ。お前があそこで立ってなかったら……俺も、ペネロペも、きっと死んでた」


その声には、照れや強がりは一切なかった。ただ事実を突きつけるような重さがあった。


テラは何も言えず、息を呑んだ。あの夜の光景が鮮やかに蘇る。雷に焼ける腕の痛み、仲間が血に倒れる姿、ペネロペの絶叫、そしてバルグの狂笑――。

思わず握り込んだ拳に爪が食い込む。


リアムはそんなテラの様子を見て、少しだけ表情を緩めた。

「……だけどな。お前はもう無茶すんな。俺まで心臓止まるかと思ったんだ。あんな戦い方……見てられねえよ」


弱々しくも、どこか兄弟のように響く声。

テラはうつむき、短く答えた。

「ああ……分かってる」


リアムは言葉を切り、視線を地面に落とした。

テラはただ黙ってその横顔を見つめていた。何を言えばいいのか分からない。けれど、この沈黙が無意味ではないことだけは、二人とも感じ取っていた。


そこへ、低く落ち着いた声が背後から響いた。


「……その通りだ、リアム」


振り返ると、庭の入り口にオリヴァーが立っていた。汗で湿った髪を手拭いで拭きながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。


「お前らが無茶してくれたおかげで、多くの村人が生き延びた。それは紛れもない事実だ」

オリヴァーは二人を見渡し、静かに言葉を継いだ。


「だが……仲間を守ることに必死になったのは立派だが、残された者をどう支えるかもまた剣士の務めだ。ペネロペは両親を失った。あの子を一人にさせるな。お前たちが支えてやれ」


風が庭を吹き抜け、草が揺れた。

テラは拳を握り、リアムと視線を交わす。


オリヴァーはその様子を見て、小さく頷いた。

「教会に行くかは任せる。だが……あの子を支えられるのは、お前たちしかいない」


2人は黙ったまま村中央の教会へと歩いた。



昼下がりの光が、静かな教会のステンドグラスを透かしていた。

青と金の光が床の石を染め、揺れる炎のように壁を這っている。

その中央で、ペネロペは膝をつき、両手を組んで祈っていた。

白い布を頭にかけ、顔を上げないまま、唇が小さく震えている。


テラとリアムは扉の外で立ち止まった。

祈る姿を見た瞬間、足がすくんだ。声をかけるのが怖かった。

言葉を探しても、何を言えばいいのか分からない。


リアムが先に歩き出した。

「……ペネロペ」


その名を呼ぶ声は、教会の静けさに吸い込まれていった。

ペネロペはゆっくりと顔を上げる。

涙の跡が頬に乾いていた。だが目は不思議と澄んでいた。


「来てくれたのね」

その声は細く、でも柔らかかった。


テラが一歩踏み出す。

「その……具合は、大丈夫か?」

言ってから、自分でも愚かだと思った。大丈夫なはずがない。


ペネロペはかすかに笑った。

「平気よ。泣くのは、もう終わったから」


嘘だ。

リアムもテラも、その声の奥に痛みを感じ取った。

けれど彼女は、もう涙を見せようとはしなかった。


ペネロペは視線を祭壇に戻し、続けた。

「父さんも母さんも、ずっと“織り目を絶やすな”って言ってた。

 家も、布も、人の縁も……全部、織り重ねて続いていくものだって」


言葉が途切れ、唇が震える。

けれど彼女は顔を上げて、光を受け止めるように目を細めた。


「私、ここで修行する。光の魔法を学んで、人を癒やせるようになりたい。

 織り目を、もう一度繋げられるように」


リアムが小さく息を呑んだ。

「……ペネロペ、お前……」


テラは何も言えなかった。

ただ、その背筋のまっすぐさに、胸が熱くなった。

あの日、あの夜、彼女はすべてを失ったのに。

それでも、まだ誰かのために生きようとしている。


「すごいよ、ペネロペ」

リアムがようやく口にした言葉は、拙くても真っすぐだった。


ペネロペは微笑む。「ありがとう。でも……怖いの。

 魔法で人を助けることはできても、誰かを守る力はまだない」


「守るのは俺たちの役目だ」テラが言った。

「お前が笑ってくれるなら、それでいい」


その瞬間、ペネロペの瞳に小さな光が戻った。

「……ありがとう」


鐘の音が、遠くで鳴った。

ゆっくりと、陽が傾き、教会の光が金色に変わっていく。


リアムがふと呟いた。

「そういえば……カリーナは見たか? 父さんが言ってた。

 西の村長宅を守りきったらしい。でも、俺はまだ会ってない」


ペネロペが小さく頷く。

「村長さんの家は無事だったって。……きっと、カリーナも無事よ」


「そうだな」

テラが答えた。けれど、その声にはかすかな不安が滲んでいた。


三人はしばらく黙ったまま、沈みゆく陽を見つめていた。

光はやがて赤く、血のような色に変わり、夜の影が教会を満たしていく。


リアムが小さく息をついた。

「帰るか。……明日は王国の騎士団が来るらしい」


テラは静かに頷き、ペネロペを見た。

「また来るよ。お前が織り直す“光”を、見せてくれ」


ペネロペは両手を胸に当て、祈るように微笑んだ。

「うん。約束する」


外へ出ると、風が冷たかった。

村の焼け跡にまだ煙が漂っている。

だがその中に、確かに新しい息吹があった。


夕暮れはとうに落ち、村を包むのは、火の消え残りと湿った土の匂いだけだった。テラは教会の石段を降り、静かに家路につく。鐘はもう鳴らない。空気はやけに澄んでいるのに、胸の奥ではまだ雷の残響がくすぶっていた。


 家が見えてくる。軒先の影が長くのび、戸口の灯が一つ、脈のように揺れている。あの灯りの向こうに、いつもの二人がいる――そう思った瞬間、足がふと止まった。開け放たれた窓越しに、低い声が漏れてきたからだ。


「……南は、壊滅だ」


 オリヴァーの声だった。いつもの平坦さの奥に、砂を噛んだようなざらつきがある。テラは思わず壁沿いに身を寄せ、耳を澄ませる。窓枠の隙間から、卓上の小さな燭の火が見えた。火に照らされ、オリヴァーの横顔が硬い線で切り取られている。


「スティッチ家も……ペネロペだけになった。訓練生は十人以上が倒れ、カイルも……」


 最後の名を口にしたとき、オリヴァーは言葉を置き去りにした。再び声を紡ぐまでの短い沈黙のほうが、何より重かった。


「――もっと、俺が強ければ」


 返す声は、ミレイユのもの。湯気の立つ茶碗をそっと卓に置く音がして、やわらかながら凛とした調子で言った。


「あなたは、やれるだけをやったわ。あの夜、ひとつ間違えば、私もテラも――」


 そこで言いよどみ、言葉を選ぶ気配がする。テラは息を飲んだ。自分の名が、別の重さを帯びて呼ばれた気がした。


「そして……お腹の子も、守ってくれたじゃない」


 たったそれだけだった。けれど、胸の奥に火の粉が落ちたみたいに、テラはその場に釘付けになった。心臓が一拍遅れて強く打つ。耳の奥で、雷が遠くで鳴る。お腹の、子――。


 戸板の隙間から、オリヴァーが目を閉じるのが見えた。普段は見せないほどの深い息を吐き、掌で目頭を押さえる。


「……こんな話、今日すべきではなかったな。」


「言う日は、選べないものよ」ミレイユは微笑を含ませる。「でも、きっと大丈夫。あなたがいるから。テラがいるから」


 テラは額を壁につけ、目を閉じた。頭の中で言葉が転がる。兄になる――その響きは、喜びと怖さが絡み合った縄のようだった。守るべきものが、また一つ増える。嬉しい。けれど、怖い。バルグの影、カイルの血潮。脳裏の映像が、火の残り火みたいにチラつく。


 室内で椅子が軋む。


「明朝、ファブリカ王国の騎士団が来る。副団長のダリウスが先に村の被害を見に回るそうだ。……王都からの本隊は数日後になる」


 オリヴァーの声は、いつもの調子に戻っていたが、芯はさらに硬く冷えている。


「ダリウス……ダリウス・モルデイン?」ミレイユが確かめる。


「ああ。寡黙で無骨なやつだ。きっと報告だけでは済まない。襲撃のことを、詳しく聞かれるはずだ。テラとリアムの話も……避けられない」


 テラは無意識に剣の柄を握る手を探した。握るものは何もなく、代わりに自分の指を強く握る。あの夜の最後、全てを込めて受け止めた瞬間に走った激しい痺れ――短く息が詰まり、胸の奥がきゅっと縮む。呼吸が浅くなるのを、ゆっくり、ゆっくり修正する。


「大丈夫?」ミレイユの声が柔らかく落ちる。「テラは……眠ったかしら」


「さっきまで庭で素振りをしていた。あんな状態になったのに……もう元気そうだ」オリヴァーがわずかに苦笑する気配を見せる。「あいつは、結局、俺に似たのかもしれないな」


「似ているわ」ミレイユは確信を込めて言った。「頑固なところも、まっすぐなところも。だからこそ、あなたが止めてあげなくちゃ」


 オリヴァーは短く頷き、椅子を引いた。立ち上がる影が、窓の紙障子に長く伸びる。


「明日、ダリウスが来たら、俺が話す。テラには……必要なところだけでいい。余計な話は.....思い出させたくない」


 余計な話――その言い回しに、テラは胸を突かれた。あの夜、自分が選んだこと。受け止めたこと。助けられた命。失われた命。ただ、手のひらに残る痺れが、「生き残った」という一点だけを確かに告げている。


 ミレイユが椀を片付ける音がして、ふと声の温度が落ちた。


「南の子たち……葬りは、明日、神父さまと相談して。カイルの家にも知らせを。……スティッチの機は、燃えたのよね?」


「脚は折れ、梁も落ちた。布は、焼けた。――でも、ペネロペがいる。戻る場所は、機そのものじゃない。あの子の手が戻せるものが、きっとある」


「きっと、あるわ」ミレイユが答える。その言葉は祈りではなく、約束のように響いた。


 テラはそっと背を離し、軒下を回って裏口へ向かった。扉を開けると、炉の熱がやわらかく頬をなでる。板場の軋みで二人が顔を上げた。オリヴァーの目が驚き、すぐにいつもの色に戻る。ミレイユは「おかえり」と笑った。いつもと同じ言葉なのに、胸に落ちる重さは、少し違う。


「ただいま」テラは短く答え、卓に歩み寄る。喉が渇いていることに気づき、水差しを手に取った。冷たい水が舌に触れると、ようやく体の輪郭が戻ってくる。


 言うべきか、迷った。けれど、あえて口に出すことにした。


「……さっき、少し聞こえた。騎士団が、来るんだね」


 オリヴァーは虚を突かれたように瞬きをして、それから頷いた。


「ああ。明朝、日の出頃だ。副団長のダリウス・モルデインが来る。テラ、無理に思い出す必要はないが……聞かれたら、知っている範囲で話せ」


 テラは息を吸い、吐く。「わかった」


 ミレイユが席を立ち、湯気の立つ茶を新しく淹れてくれた。湯気の向こうで、彼女の手が一瞬、お腹に触れた気がした。仕草は自然で、しかし目がそこに吸い寄せられてしまう。テラは、その動きを誰にも気づかれないように胸の内にしまい、茶碗を両手で包む。


「テラ」オリヴァーが低く呼んだ。声は固く、けれど優しい。「今日、庭ではきつく言ったが。――あの夜、お前がしたことを、俺は誇りに思っている。」

「俺がお前だったら、同じことをしていたと思う。


 テラは頷いた。雷の名を、今は口にしない。火と水だけを胸のうちで撫でつけ、熱と流れの感触を確かめる。頷きは一度だけ。けれど、そこに込めた意味は多かった。


 短い静けさが三人の間を往復した。やがて、オリヴァーが窓の外を見やり、言う。


「今夜はもう寝ろ。明日は長い」


 寝台に横になると、天井板の木目が夜目にもわかるほど濃く見えた。目を閉じれば、雷の痺れと、ペネロペの泣き顔と、カイルの背と、バルグの牙。そこに新しく、一つの言葉が混ざる――兄。


 胸の奥で、何かが静かに膨らんだ。怖さも、喜びも、全部ひっくるめて、明日へ押し出す力に変わっていく。外では、見回りの足音が遠く通り過ぎた。


 夜は更け、やがて薄闇がほどけていく。魔人族(デモニカ)

 夜明けは曇っていた。

 灰色の空が村を覆い、焼け跡の土はまだ湿り気を帯びていた。焦げた木材の匂いが風に溶け、血と鉄の残滓が喉の奥に張りつく。


 

北門の方から、規律正しい金属音が響く。馬の蹄と鎧の鳴動。地面が低く唸り、朝の靄を押し分けて一行が現れた。

 銀と赤の紋章旗、鋭い槍先の列。十数騎の騎兵の先頭には、岩のような体躯の男だった。肩幅は尋常ではなく、背の大盾はほとんど背中を覆い隠す。右手には大斧、馬が歩くたびに地面が軋む。


 ファブリカ王国騎士団副団長――ダリウス・モルデイン。


 鎧の継ぎ目から覗く焦茶の肌に、傷痕が一本走っていた。古い戦場の記憶を刻むように。瞳は大地の色。濁りはなく、揺るぎもしない。

 その視線が村を横切るだけで、焦げた木々さえ息を潜めるようだった。


「ファブリカ王国騎士団、副団長ダリウス・モルデイン。被害の確認と、魔人族(デモニカ)の出現に関する調査に参った」


 低く響く声が村全体を震わせる。言葉は短く、正確だった。だがその一音一音が、槌のように重く響いた。


「久しいな、ダリウス」

 声を返したのはオリヴァーだった。背筋を伸ばし、ゆっくりと歩み出る。

「お前がいる。シルク村が襲われたと聞いた時は驚いた。」

「ここが、俺の暮らす村だ」

 オリヴァーが静かに笑う。短い会話だったが、互いの呼吸の間に、かつて剣を交えた者同士の空気があった。


 ――父さんと、この人、同じ隊にいたのか。

 テラは少し離れた場所からその背を見つめた。

 目の前の男は、まるで岩塊のようだった。近づくだけで胸の奥が圧される。けれど、オリヴァーが鍛錬場で木剣を振るう時の鋭さも、決して劣ってはいなかった。

 (父さんと、この人……どっちが強いんだろう)

 そんな考えが、自然と頭をかすめた。息が浅くなる。まるで二つの巨山を見上げているようだった。


 ダリウスの視線がゆっくりと村をなぞる。崩れた家々、焦げた畑、焼け爛れた地面。

「……ひどいな。報告よりも、被害が大きい」

 短くそう言うと、視線を南に向ける。

「こっちだ」オリヴァーが先導した。


 二人が歩き出す。テラも数歩遅れて後を追う。

 焼け野原は、まるで戦場の跡だった。地面は黒く焦げ、ところどころにまだ煙が残る。木々はねじれ、瓦礫の隙間から灰が立ち上る。

 焦げた空気に、ほんのわずかに“力の痕”が混ざっていた。

 ――魔力の残穢。

 テラにも感じ取れた。だがそれは、馴染みのあるもの。父の炎の気配だった。


 ダリウスが足を止め、指先で黒い地をなぞる。灰が熱を帯びて指先から立ち昇る。

「……この炎の残穢。上級どころの技ではないな。尋常な火ではない」

 言葉は淡々としているが、その声の底に、微かな驚きが滲む。

 「お前か、オリヴァー?」

 顔を上げて問う。


 オリヴァーは苦笑した。「俺だ」

 風が、焦げた大地を渡る。

「息子と同じでな。――少し無茶をした」

 その言葉に、テラの胸がわずかに疼いた。オリヴァーの横顔は、炎の跡を見つめながらもどこか穏やかだった。


 ダリウスはしばらく何も言わなかった。ただ、焦げた地に跪き、手のひらを静かに置く。

 土が沈む音がした。

魔人族(デモニカ)……。確かに、こいつらが通った痕だ。爪の跡、足の沈み方。人間のそれじゃない」

 そして、立ち上がり、低く問う。

「オリヴァー。この村の指導員、ひとり亡くなったと聞いた。“カイル”という名だったか」


 テラが息を呑む。

 オリヴァーは小さく頷いた。

「ああ。七年前、俺がこの村に剣士育成場を作った時、最初に教えた生徒だ。真面目で、仲間思いでな。今は指導員として、生徒を守るために――」

 言葉が喉で止まる。

 その続きを、ダリウスが静かに受け取った。

「そうか。……だが、良い弟子を持ったな」


 短い会話だったが、その間、風が止んでいた。

 焼け跡の上に、二人の男の沈黙だけが重なる。


 しばらくして、ダリウスが振り返る。

「オリヴァーの息子か?」

目を向けられ、テラの背筋が伸びた。

「お前も戦ったのか。」

「……はい」

「恐怖を見て、なお立った者の目をしている。あとで詳しく話を聞かせてもらう」

 その声は、命令ではなく、試すようでもあった。

 テラは無意識に頷いていた。


 ダリウスはオリヴァーへと目を戻す。

「王都に報告する前に、俺の方で確認しておきたいことがある。……魔人族(デモニカ)の詳細を」

 オリヴァーは小さく息を吐く。

「わかった。リアムも連れてこよう。あの夜のことは、彼らが一番近くで見ていた」

「助かる」

 そう言って、ダリウスは視線を南の空へと向けた。

 灰を孕んだ雲の向こうで、朝日がようやく姿を見せる。

 その光は、焼け野原の上に薄く差し込み、黒い土を静かに照らしていた。



やがて、南の焼け野原の縁に、簡易の卓と折り畳み椅子が据えられた。卓の片端には羊皮紙と鉄筆、もう片端には水袋。騎士団の書記が無言で筆を構え、ダリウスが立ったまま影を落とす。オリヴァーは少し離れて腕を組み、風下に退いた。灰が時折舞い上がり、焦げの匂いが喉に貼りつく。


「名、歳、そして昨夜どこから何を見たか。嘘は要らん。思い出せる限りでいい」

ダリウスの声は低いが、刃の腹のような冷たさがあった。


「テラ・クロフト。13です」

喉が乾いている。座るよう促され、椅子に腰を下ろすと、痺れの残る腕が自分のものではないみたいだった。呼吸が浅くなるのを、自分で数を数えて整える。


「リアム・コリン。13。同じです」

リアムは短く言って、テラの方を一瞬だけ見た。大丈夫か、という目。


「時系列で話せ。最初の異変から、ここに至るまで」

ダリウスが顎をわずかに下げる。鉄筆が紙を擦る音が、やけに大きく聞こえた。


テラは初めの音――育成場の木戸が破れた瞬間から語り始めた。狼めいた小型の魔物が雪崩れ込み、オリヴァーが即断で指示を出したこと。鍛冶場へ走る途中に見た獣の影。エドから武器を受け取ったときの刃の重さ。鍛冶場の外で最初に斬った一太刀で、火に雷が混じって腕が痺れたこと。


「……雷?」

ダリウスの土色の瞳が細くなる。


「はい。火を流したつもりが、混ざりました。すぐに抑えて、水で受け流すことに切り替えました」


「なるほど。続けろ」


テラは呼吸を整え、南へ向かったこと、スティッチ家に着く前後の小競り合い、そして家の中に突っ込んできた巨大な猪のことを言う。床板が割れ、梁が折れ、火の粉が散る音。カイルが作った一瞬の隙に、ペネロペと両親を外へ出したこと。


そこまで来ると、喉の奥が張りついた。声が少し掠れる。

「……そのあとです。煙の向こうから、来ました。熊みたいに大きい、人型の魔物。角が二本、黒くねじれて、鈍く光ってました。牙が剥き出しで……大剣を片手で持ってた。自分から名乗りました。『俺の名はバルグ』って」


鉄筆の動きが止まる。ダリウスのまぶたが一度だけ重く落ちた。

「バルグ、と言ったな。――続けろ」


「バルグは……ペネロペを見て笑って、それから――」

言葉を選ぶ必要はなかった。光景が勝手に口を動かす。エルドが前に出て、リネットが叫んで、肉と骨が断たれた音。土間に散る臓腑の色。テラの掌が汗で滑り、膝の上で固く握られていくのがわかった。


リアムが、そこで代わるように言葉を継いだ。

「俺は矢が尽きてたから近づいて短剣で、って思って踏み込んだら、風圧だけで飛ばされた。起き上がったら、カイルが後ろから斬りつけてて……でも、振り返られて、貫かれた。ここ、真っすぐに」

リアムは自分の胸の真ん中を指で押さえた。指先が、小刻みに震えている。


ダリウスの目がリアムに移る。

「大剣は逆手だったか、順手だったか」


「逆手、でした。突きは速かった。俺には見えなかった」

リアムの声は乾いていた。


「テラ」

ダリウスが目だけで合図する。


テラは頷き、最後を話す。

「バルグが、ペネロペを――振り下ろそうとして。俺は、入るしかないと思って、全部……全部、剣に込めました。受けるしか、なかった。正面から。……受け止めた瞬間、剣が折れて、雷が暴れて、息が、入らなくなって――そこからの記憶が、途切れ途切れです。熱と、光と、……あと、父さんの声」

胸の奥が、きゅっと縮む。空気が薄い。自分の鼓動だけが耳の中でうるさい。


ダリウスはしばらく黙っていた。視線が、焼け跡と、テラと、リアムの間をゆっくりと往復する。その目には怒りも同情もなく、ただ秤のような冷静さがあった。


「角は二本。黒くねじれ、鈍い紫に光る。大剣を片手でも扱う体躯。言語を解し、人間を獲物と呼び、非戦闘員を優先して殺す。群れの獣に指示は出していないが、結果的に混乱を最大化している。――合っているか」


二人は同時に頷いた。


「目の色は?」


「赤……だったと思います。煙の中で、光って見えました」テラが答える。


「歩法は重いが、踏みの瞬間だけ軽い。突きは逆手。刃筋はぶれない」

リアムの言葉に、ダリウスは一度だけ目を細めた。

「見えている。いい」


書記が鉄筆を置き、羊皮紙を整える。ダリウスはゆっくりと息を吐き、言葉を選んだ。


「お前たちはよくやった。――これは慰めではない。戦場の評価だ」

低い声に、ほんの僅かな温度が差した。

「だが同時に、これは村の手には余る案件でもある。名前を持つ魔人族(デモニカ)が前線に出てくるのは、長い間なかった」


彼は顎で南の焼けを示し、オリヴァーに一瞥を送る。

「この燃え跡は、オリヴァーの仕事だ。上に報告は上げる。……だがその前に、王都で正式な聴取と検分が必要になる。バルグの名、特徴、行動。お前たち二人から、さらに詳しく聞く」


リアムがわずかに身じろぎする。

「王都に……行くんですか」


「数日はここで後始末と調査だ。その後、隊に随行してもらう。拒むなら強制はしない。だが、誰かが行かねばならん。お前たちは“見た”。それだけで、十分な資格だ」


テラは膝の上で握った拳を、ゆっくりほどいた。掌にはじっとりと汗。痺れの残る腕は重い。けれど、心の中で別の重みが静かに定まっていくのがわかった。


「行きます」

自分の声が、思ったよりもはっきり響いた。

「俺が見たこと、全部、話します」


リアムも短く頷いた。「俺も行く。……親父には、俺から言う」


ダリウスはわずかに顎を引く。

「決まりだ。今日と明日は休め。体を壊したまま連れていくつもりはない。――テラ」


名を呼ばれ、テラは顔を上げる。


「呼吸が浅い。胸の圧は、今もあるな」

図星だった。テラは息を詰める。


「扱いを誤った術は、心を削る。今は火と水で立て。……雷については、王都で“相応しい教え”を受けるといい」

そこで、ダリウスはほんの一拍だけ言葉を置いた。

「――雷に、よく通じた者がいる」


テラは静かに頷いた。

「わかりました」


ダリウスは最後にオリヴァーへ視線を移す。

「後でお前とも話す。その大剣と――お前の“技”についてだ」


オリヴァーはほんのわずかに口角を上げた。

「ああ。……俺も話すことがある」


灰が、風に散った。

ダリウスは合図し、書記が羊皮紙を巻く。騎士たちが規律正しく動き出し、野戦の布幕が張られ始める。村の朝は、焼け跡の上に、別の秩序を少しずつ築いていく。


テラは椅子から立ち上がると、胸の奥で静かに数を数えた。吸って、吐く。

火は小さく、長く。水は流す。雷は――遠い師の気配の向こうで、静かに待たせる。

――王都へ行く。語るために。生き残った意味を、確かめるために。

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