第5章「脂質の谷と水を嫌う者たち」、第6章「燃える脂肪酸とコレステロールの謎」
体にとって最大のエネルギー源──それが「脂質」。
しかし、脂質は水を嫌い、特殊な道を辿って体内を旅する厄介で精巧な存在でもある。
第5章では、そんな脂質たちがどのように“乳化”され、分解され、体に吸収されていくかを描きます。
そして第6章では、脂肪酸の燃焼=β酸化から、壮大なエネルギー生成の仕組み、
さらにコレステロールの正体と役割に迫ります。
力は偉大だが、扱いを誤れば病となる──
脂質が秘めた“両義性”をめぐる冒険が、今、始まります。
第5章「脂質の谷と水を嫌う者たち」
光に満ちた丘を越えたリュウたちは、次に不思議な風景に出会った。
見渡す限り、銀色に波打つ谷。
ところが、その谷の表面には、あちこちに奇妙な光の泡が浮かび、
まるで「水を弾いている」かのようだった。
「ここが……脂質の谷!」
グリコが肩の上で叫んだ。
「ここに住む者たちは、水を嫌う性質──『疎水性』を持っているんだ!」
リュウは慎重に一歩を踏み出した。
すると、足元の地面がつるりと滑った。
「わっ……!」
何とか体勢を立て直す。
「ほら、脂質は水とは混ざれない。だから、普通の川や道とは全然違うんだ!」
グリコが笑った。
谷の中心には、奇妙な住人たちが集まっていた。
長い鎖のような「脂肪酸族」
球体の「中性脂肪団」
王冠のような姿をした「コレステロール氏族」
彼らはみな、水を避けるように群れをなし、
時に、空気中を漂うバブルに乗って移動していた。
「脂質たちは、体にとって大事なエネルギー源なんだよ」
グリコが解説する。
「だけど、そのままじゃ水の多い体内では動きにくい。だから──特別な助けが必要なんだ!」
すると、谷の彼方から、小さな騎士団が現れた。
先頭に立つのは、光る盾を持つ女性。
「我ら、胆汁酸騎士団!」
彼女は高らかに名乗った。
「脂質を包み、乳化する力を持つ者たち!」
リュウは目を見開いた。
「乳化……?」
「そう!」
グリコが飛び跳ねた。
「胆汁酸たちは、脂質を小さな粒に分散させて、水と馴染みやすくするんだ!」
騎士団の盾から放たれる光が、脂質たちを包み、
巨大な油の塊は無数の小さな粒──エマルジョンへと変わった。
次に現れたのは、白衣をまとった男性。
「わたしはリパーゼ。膵臓から来た消化酵素だ」
リパーゼは優雅に微笑み、手に持った光のナイフで脂肪粒を切り裂いた。
「リパーゼの役目は、中性脂肪を切って、脂肪酸とモノグリセリドにすること」
リュウは頷いた。
分解され、細かくなった脂質たちは、さらに小さな球体──「ミセル」と呼ばれる粒子に姿を変えた。
「ミセルになれば、小腸の壁を通って吸収できるんだ!」
グリコが誇らしげに言った。
リュウたちはミセルに乗り、流れに身を任せた。
小腸の細胞壁を越えると、そこには新たな世界が広がっていた。
細胞の中で、ミセルたちは再び合体し、「カイロミクロン」という巨大な輸送カプセルに変わった。
「これで脂質たちは、血液の流れに乗って全身へ運ばれる!」
グリコの声が弾む。
「筋肉にエネルギーを送ったり、脂肪組織に蓄えられたりするんだ!」
リュウは思った。
脂質は、単なる油じゃない。
生きるために欠かせない、大切なエネルギー。
それなのに、水を嫌うという個性ゆえ、特別な方法で大切に扱われている。
「生きるって、すごい工夫の連続なんだな……」
リュウは小さく呟いた。
カイロミクロンに乗ったリュウたちは、次なる地平を目指す。
そこは、脂肪酸たちが燃えるようにエネルギーを放つ場所──
「燃える脂肪酸とコレステロールの謎」が待つ地だ!
リュウは拳を握った。
新たな冒険へ──進め!
第6章「燃える脂肪酸とコレステロールの謎」
カイロミクロンに乗ったリュウたちは、再び地上に降り立った。
そこは、赤く燃え上がる大地──。
まるで世界そのものがエネルギーを吐き出しているかのようだった。
「ここが……脂肪酸の地!」
グリコが興奮気味に叫んだ。
「体の中でもっとも強力なエネルギー源、脂肪酸が燃えている場所だよ!」
熱気に包まれながら、リュウは前を見た。
大地を覆うのは、無数の「鎖」。
それらは、長い長い炭素の列でできていた。
「これが脂肪酸か……!」
リュウはつぶやいた。
「でも、ただ燃えるわけじゃないよ」
グリコが言った。
「脂肪酸は、まず細胞の中の『ミトコンドリア』に運ばれなきゃいけないんだ」
リュウたちは「脂肪酸輸送列車」に乗り、ミトコンドリアゲートへ向かった。
ゲートでは、壮大な儀式が行われていた。
「カルニチントランスポートシステム、発動!」
司祭のような存在が叫ぶと、脂肪酸たちはカルニチンと結合し、
ミトコンドリアの門をくぐり抜けた。
「カルニチンがなきゃ、脂肪酸はミトコンドリアに入れないんだ」
グリコが教えてくれる。
中に入ると、さらに激しい儀式が待っていた。
「ここからは──β酸化だ!」
目の前には、巨大な歯車のような機構が回っていた。
「脂肪酸は2個ずつ炭素を切り出され、アセチルCoAになっていくんだ!」
リュウは歯車の中に飛び込んだ。
ゴゴゴゴゴ……!
脂肪酸の鎖が刻まれ、次々とアセチルCoAという小さな粒に分かれていく。
その粒たちは、さらにTCAサイクルの神殿へと送られ、
大量のエネルギー(ATP)を生み出す燃料になるのだ。
「これが……脂肪の力!」
リュウの体に力が満ちる。
歯車を抜けた先に、別の広場があった。
そこには、光り輝く王と、重々しい騎士たちが待っていた。
「我が名はコレステロール王」
威厳に満ちた声が響く。
「世の中では悪者にされがちだが、我々は体に不可欠な存在なのだ」
王の周囲には、二つの騎士団が控えていた。
一つは、光り輝く「善玉騎士団(HDL)」。
もう一つは、黒い鎧に身を包んだ「悪玉騎士団(LDL)」。
「HDLは余ったコレステロールを肝臓に回収する守護者、
LDLはコレステロールを全身に届ける配送者だ」
王は語る。
「しかし、配送が過剰になると、血管にコレステロールがたまり、災いを呼ぶ……」
リュウは頷いた。
コレステロールは悪でも善でもない。
必要な存在だが、量とバランスがすべてを決めるのだ。
そのとき、大地が揺れた。
遠く、谷の向こうに、巨大な影が蠢いている。
「脂質異常獣──」
コレステロール王がつぶやく。
「やつは、バランスを崩した脂質たちの成れの果て。
いずれ、そなたたちの前に立ちはだかるだろう」
リュウは剣を握りしめた。
脂質は力だ。
だが、力は、正しく使わなければ災いに変わる。
「忘れるな、リュウ」
コレステロール王が告げた。
「力を恐れるな。だが、力を侮るな」
リュウは深くうなずいた。
次なる旅路は、「核酸の塔」──命の設計図が待つ場所へ!
リュウたちは再び走り出した──!
今回の二つの章では、「脂質」という非常に重要で誤解されがちな栄養素を扱いました。
脂質は「太る」「悪い」といったイメージが先行しがちですが、
実際には効率の良いエネルギー源であり、細胞膜やホルモンの材料として欠かせない存在です。
第5章では、疎水性の脂質がどのように乳化され、リパーゼで分解されて「ミセル」→「カイロミクロン」へと姿を変え、
体内で吸収・運搬される過程を描きました。
第6章では、脂肪酸のβ酸化、カルニチントランスポート、コレステロールの働き、
そしてLDL・HDLという“善玉/悪玉”の力のバランスに迫りました。
脂質は、「量」と「質」と「使い方」で天使にも悪魔にもなる。
そんな奥深さを、少しでも感じ取っていただけたら嬉しいです。